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2014年9月25日木曜日

東洋のマチュピチュ 別子銅山--天空の産業遺産


9月16,17,18日と、2泊3日の四国松山、尾道、福山の旅行をしたが、その時訪れた別子銅山の訪問記事を書く。

きっかけは、近鉄グループ クラブツーリズム株式会社が発行している、旅の友10月号の今月のテーマという記事を読んだことである。 そこには、このような写真が載っていた。 

 
 
ワイフが読んでいたのだが、雑誌を見せてもらい、面白そうだから行って見ようかと提案すると、即可決され、末の息子の車で連れて行ってもらうことになったのだ。 

旅行記は別に書くことにして、今回は別子銅山である。 以前 銀の馬車道 という記事でも書いたのだが、昔の鉱山とか鉱石を運搬する道路、産業鉄道などが好きなのです。 子供のころから鉱石自体にも興味を持っている。 


予備知識がないと面白くないので、例によって Wikipedia からの引用。


別子銅山   
 

戦前の別子銅山
 
 
別子銅山(べっしどうざん)

愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。 
1973年(昭和48年)3月に閉山。閉山後の今は緑深い自然の山へと戻って、夢の跡のような産業遺跡がひっそりと佇んでいる状態であるが、近年はそれらの歴史的意義を風化させないことを目的として活用したマイントピア別子など観光開発が進み、新居浜市の新たな資源として甦りつつある。

別子銅山は、栃木県の足尾銅山、茨木県の日立銅山と並び日本三大銅山の一つに数えられる。

住友家により1691年に開杭して以来、1973年の閉杭まで約70万トンの銅を算出した。

別子銅山は、その種類・時代・地域の多様さ、広さにおいて、貴重な鉱業遺跡群を形成しているわけだが、関連する産業遺産としては、

1)鉱山鉄道

住友別子鉱山鉄道が、石ヶ山丈~角石原、惣開~端出場に走っていた。1893年開業、1952年に旅客営業廃止、1977年に鉱山鉄道としても廃止となった。

 住友金属鉱山下部鉄道の廃線跡

角石原に向かう蒸気機関車 明治39年(1906)頃撮影 住友史料館所蔵の写真 明治39年ころ撮影 住友史料館所蔵


2)筏津(いかだつ)

筏津坑赤石山系の南斜面に位置し、1878年(明治11年)開坑され、最初は弟地坑(おとじこう)と呼ばれていた。一時休止された時期もあったが、別子銅山の一支山として機能を果たしてきた。


地図上では、中央の別子観光センター筏津荘あたり。

   筏津坑は左上の赤く塗られた部分。

別子銅山の坑道が内部で複雑に交差している。


3)東平(とうなる)地区

東平(とうなる)地区は、1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで別子銅山採鉱本部が置かれていた。この山中に、かつて多くの人が鉱業に従事し、その家族共々生活し、小中学校まであった「」があった。現在は、山中に静まり返っているが、閉鎖された坑道や鉱物輸送用の鉄道跡などが残っている。現在、ここにはマイントピア別子(東平ゾーン)が整備されている。

ここでの産業遺跡が、東洋のマチュピチュ』 と称されている。


4)端出場(はでば)地区

端出場(はでば)地区は、採鉱本部が1930年(昭和5年)に東平地区から移転され、1973年(昭和48年)の閉坑まで使用された地区である。ここにもマイントピア別子(端出場ゾーン)が整備されている。こちらの方が、先に整備された。

5)四阪島

四阪島にも多数の産業遺産・遺構が存在するが、住友金属鉱山の私有地であり一般の人は許可なく立ち入ることはできない。

島とかっての港湾風景。


ここも、整備すれば軍艦島のように観光できるのでないかと思われる。


の5つが挙げられている。

全てに興味はあるが、全部を見学する訳にはいかぬ。 という事で、我々は 3)東平地区4)端出場地区 の観光を行った。 


まづ訪れた 4)端出場地区 であるが、道路から端出場大橋を渡ったところに位置している。
木立の奥に白く見える吊り橋です。


マイントピア別子と彫られた巨石だが、残念なことにマイントピまでしか読めない。


 
ここも、世界文化遺産へという動きがある。


マイントピア別子の由来記が、新居浜市長の伊藤武志により記されている。


これが、マイントピア別子(端出場ゾーン)の地図である。

 
場内にあった銅板の案内図では、このように描かれている。
この時点では、マイントピア別子といえば、この端出場地区だけであった。


眼の前にみえるのが、レンガ造りのマイントピア本館である。

 
その道すがら、仲持の顔出し看板や
 
 
仲持(なかもち)像

 
(仲持とは、製錬した粗銅や生活物資を背負って険しい山道を運搬する男女をいう。)


 
銅鉱石

 
カラミレンガ(鉱石の精錬過程で生じるスラグ)などが、展示されている。


本館は、4階建てになっていて、1階にお土産・売店、喫茶店 2階にレストラン、3階宴会場、4階に温泉「ヘルシーランド別子」がある。 温泉に入りたかったのであるが、時間の関係で無理であった。 

こんな別子銅山観光の目玉である、東平地区「東洋のマチュピチュ」の立体看板がある。


このような、タヌキの鉱山技師の像が置いてある。 こいつは、ゆるキャラの銅太君である。



鉱山観光鉱山鉄道・観光坑道)の入場券を購入し、早速2階にある、鉱山鉄道乗り場に直行。
料金は、大人1200円、中高生800円、3歳以上600円である。高齢者割引はない。



はでば駅から出発。機関車は、当時使われていた蒸気機関車を復元したものだそうだ。

 機関士さんが見張っている。

 
乗客はさほど多くない。退職して暇そうな小太り爺さんがいた。

 


2~3分位(410m)で終着駅(といっても駅は2つだけ)のうちよけ駅に着く。 ここから観光坑道に入る。  





現在鉱山鉄道の走っているコースではないが、川の向かい側に、かっての鉱山鉄道の鉄橋の先に第四通洞の入り口がある。


 

これが、第四通洞で別子銅山の大動脈(4,600m)にあたる。 外から見るだけで中には入れない。

うちよけ駅から観光坑道を写した写真。 


これが、観光坑道の案内板である。

坑道の中に入ると、江戸ゾーン近代ゾーン体験ゾーン(遊学パーク)の3つの部分に別れている。


愛媛県のゆるキャラ みきゃん による絶好の鉱山観光紹介動画が見つかったので、ここにアップする。


観光坑道入り口にたつ、銅太君の雄姿です。ここで、記念撮影が出来るそうだが相手がいない。 


観光坑道に架かる橋の前に、邪魔な爺さんがいる。


橋から見た、谷間の風景。 水が青く澄んでいて美しい。

 

坑道にはいると、温度は一気に下がる。大体18度位。 

入り口にあった 別子銅山の歴史 パネルには、坑道の歴史が説明されている。

[歓喜抗]  元禄時代にほられた最初の坑道

[第一通洞] 始めての通洞で、明治14年着工、4年後完成。約1㎞。

[第三通洞]  明治35年完成。1795m。

[第四通洞]  大正4年完成。4596mで、さらに5100m延長して1万mの大通洞となる。


坑内に展示されている、銅原石や坑道の地図など。


 

江戸ゾーンでは、江戸時代の採鉱状況を人形を使って再現している。 これが私には、結構面白かった。 これが、別子銅山を発見したといわれている切上がり長兵衛


このような出で立ちで、ツチとノミを使って採鉱をしていたのだ。



 
湧き水の引き上げというのが、大変な作業であった。


動画で見てください。 横着だが、縦のものを横にした。

video


坑内にある、風呂場の風景。混浴の銭湯という感じだが。 


説明パネルとその写真。 砕女(かなめ)小屋



銅の精錬


仲持ちの様子。 すれ違うのは、共に女性で、登りのほうが荷は多い。


製錬した銅の重量を量り、商人が記録している様子。


その他にもあったが、江戸ゾーンの紹介はこの位にする。

ついで近代ゾーン。 明治から大正にかけての別子銅山ジオラマと映像で再現している。
これは、該当スペースが狭くって物足りない。もう少し、展示物を多くすれば、面白いのにと思う。

  ジオラマ では、山で働いている炭坑夫の家や生活ぶりが人形で描かれている。また実際に鉱山鉄道がどのように山中を走っていたかがわかる。 実際にミニチュアの機関車を走らせている。  




なかなか興味深い。昭和の別子銅山ドキュメントシアターはこれです。 巨大画面のほうが、迫力あると思うが、作られた当時は無理だったのかもしれぬ。


旧別子エリアの地図と写真です。 当時の銅山に勤める人々の生活が伺える。

 
火薬庫として使用していた、万一火薬が爆発した時の爆風を逃がす立抗である。




近代ゾーンの隣に位置するのが、体験ゾーン(遊学パーク)である。

 
中央広場はこのようになっている。
 

その左上には、階段がありこのような地下1000m行きのエレベータが設置されている。


というのは嘘で、エレベータを模した箱が揺れるだけ。それで向かい側に下りると、中央広場の黄色いボールの中に戻ってくる。 

水車模型や力持ちコーナーといって、張りぼての石を持ち上げる場所もある。


馬鹿な爺さんが、人形のおばさんに笑われながら石を持ち上げようとしている。


湧き水を汲み上げるための装置(模型)である。


水を汲み上げたり、掘削機を操作するコーナーもあったが、この日は中止である。

これで、観光坑道の見学はおわり。 出口に向かうと、もう一方の坑道口に出てくるが、そこもうちよけ駅の構内である。

 
駅には、往年の鹿森住宅東平住宅、そしてかご電車の写真が掲示されていた。
こんな山のなかに、多くの人々が生活していたのである。


駅には、ジャンボ削岩機も展示されている。



 

我々はしなかったが、砂金採り体験というのもある。600円支払うと、砂金採り体験場でお皿を渡してもらい、これで砂を水中でゆすって砂金を見つけるわけである。 銀粒も混じっているそうだ。時間は30分。実際にゲットした人も沢山いるようだ。

また、この端出場ゾーンには、川向の旧端出場水力発電所がある。


明治45年に建設された、愛媛県を代表する西洋建築物である。 平成23年に、国の登録有形文化財に指定される。

端出場ゾーンから山道を車で25分くらい登ると、東平ゾーンに着く。

ここは標高750mである。 周辺地図はこのようになっていて、(マイントピア別子公式サイトより)

 
 

今は緑の中に残る遺跡という感じである。 素晴らしく雄大な景色である。東洋のマチュピチュというネーミングはむべなるかなである。


この地区に、廃坑まで採鉱本部が置かれていて、銅山関連施設や生活関連施設が作られ、最盛期にはこの山中に5000人が生活していたという。

現在は、マイントピア別子東平ゾーンにとして整備され、歴史資料館、マイン工房、駐車場などを設置している。 案内図でみるように、多くの建設物は緑のなかに埋もれてしまっている。
 

 
 
ここを紹介する、実に素晴らしいホームページがある。 
天空の町 東平  高精細なCGと古い写真で 東平地区 を描いている。是非見てください。
また、マイントピア別子の公式サイトの動画  天空の町 東平 (告知板) 




も秀逸です。 この動画は、私の駄文よりはるかに優るが、カッコが良すぎて返って記憶に残りにくいので、写真を使った報告も意味があろうと考えたのである。 
 

これが、歴史博物館であるが、この日は休館日であった。 残念。 


ここは、マイン工房である。銅板レリーフなどを体験制作できる施設である。 
もとの駅舎跡に建てられている。

 
駐車場は広い。2,3百台は可能と思われる。


この駐車場から見下ろした索道停車道跡である。



マイントピア別子公式サイト より引用する。

インクラインは傾斜面や勾配を意味する言葉です。現在220段の階段として整備されたこの場所には、当時、端出場から索道を通じて運搬された物資を索道基地で受け、さらに高地にある電車ホームへ運ぶための施設(ケーブルカーのようなもの)が整備されていました。斜長95m、仰角21度で、動力は電気巻上げでした。複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、生活用品などが引き上げられ、坑木などが引き下ろされていました。貯鉱庫索道場跡へは、この階段を下りていきます。

 

 
上から見た眺め。 すごく急である。

 
昭和43年当時のインクライン
 
この階段を下りたところにあるのが、索道停車道跡

 

貯鉱庫跡 である。
 
坑内から運び込まれた鉱石は、下部鉄道黒石駅に運搬されるまで、ここに貯蔵とある。


 
貯鉱庫跡 から上方を眺めた写真である。 まさしく、天空の遺跡、東洋のマチュピチュである。
 


ここら一帯が、索道基地跡で、現在は花木園になっている。 天空の町 東平  より引用。

索道の長さは全長3,575メートル、搬器のスピードは時速約2.5メートル、一日の鉱石の搬出量は900トンもありました。索道にはモーターなどの動力がついておらず、搬器内の鉱石の重みを利用して動かしていました。点検の際には給油士と呼ばれる作業員が搬器の上に乗って索道のロープを支える鉄塔へ赴き、高いところでは地上30メートルにもなる鉄塔の上で滑車の給油などの点検作業を行っていました。


 

 
かっての索道基地。 このようにして鉱石を運搬したのである。
 
 

下方を眺めると、草に覆われたレンガ造りの索道基地の跡地を見ることができる。


昔の東平の地図である。
 

昭和39年ころは、この地区はこのような佇まいであった。小学校中学校は言うに及ばず、娯楽場や電気店もあったそうだ。 現在この一帯は、植林により全くの緑に戻ってしまい、石橋の橋げたが残っている程度である。



 220段を登って駐車場に戻る。 

歴史資料博物館の裏手あたりに、小マンプ(東平隧道)がある。天空の町 東平 より引用。

 東平の集落近くに位置したトンネルで、その長さが短いことから「小」マンプと呼ばれました。マンプという名前は、坑道を意味する昔の言葉「間符(まぷ)」から転じてついた名前とされています。小マンプは今も当時の姿のまま残っており、自由に入って見学することができます。さらに、採鉱のために使用していた当時の機械やそれらを積んだ鉄道車両が展示されています。



このトンネル内に展示してある。
 
スラッシャー

 
2トン蓄電車
 

この小マンプを抜けて、山道を歩いてゆくと、石垣の残る第三社宅跡に出くわす。 
往時の写真が標識に掲げられている。
 

この先に広場があり、この広場が東平採鉱本部跡である。



これが、第三変電所跡である。 天空の町 東平 より。

「第三変電所」は、麓にあった落シ水力発電所から送電されてきた電力を電圧調整するために建造された施設です。変圧された電力は、主に第三通洞内を走行する坑内電車の動力源として使用されていた他、社宅の電気としても使用されていました。
現在は、レンガ造りの変電所の建物が当時の姿のままに残っており、自由に内部まで見学できます。



特に宿直室や炊事場はそのままの姿が残っており、レトロな内装やかまど跡から、当時の人々の生活を感じることができます。
内部まで現存している施設はこの第三変電所のみであり、非常に価値のある産業遺産です。


という訳で、中に入ってみました。我々以外は誰もいません。これが入り口。


建物は2階建てになっていて、階段を登り、隣に見える窓から中を眺めると、


このような景色。 壁の塗装がはがれ、レンガがむき出しになっている。かえって趣があり、悪くない風情である。


 
この第三変電所跡の近くには、第三通洞 1795m があり、ここは現在立ち入り禁止になっている。

かっての姿

 
ここも整備して、観光トンネルを作れば面白いと思えるのだがね。

そして、最後に大マンプ。 以下 天空の町 東平 より適宜引用。




大マンプ」とは、かつて東平第三通洞の間を行き来していた鉄道車両の線路上にあった鉄道用のトンネルです。トンネルは二つあり、小マンプで、もう一つのトンネルは、喜三谷から第三通洞にかけての大マンプでした。これら大小二つのマンプでは、かつて「かご電車」と呼ばれた人を乗せるための電車が運行していました。鳥籠のような形をしていたことからそのような名前で呼ばれていましたが、サイズも縦が約2.2メートルで、横幅が約0.8メートル定員は8名までという小ささであり、鳥籠と形容されるのにふさわしい電車でした。
 
かご電車を復活させ、トンネル内を運転させれば絶対に受けると思う。是非実現してほしい。


これで東平地区の観光も終了。 面白くて有意義な別子銅山見学であった。 

最期に 東平ゾーン 東洋のマチュピチュ の動画をYouTube からアップする。


実際に歩いて撮影している感じがいい。(rcp193)

この後、とべ動物園に行くのだが、その報告は次の機会にゆずる。 
これでおしまい。ごきげんよう。
 

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