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2015年2月24日火曜日

円空と木食

円空・木喰展が横浜のそごう美術館で開催されている。


 企画展:円空・木喰展
    微笑に込められた祈り
会 期:2015年2月7日(土)〜3月22日(日)
    10:00〜20:00(入場は19:30まで)
入館料:1,000円(一般)
会 場:そごう美術館
    横浜市西区高島2-18-1 そごう横浜店6階
    045-465-5515

美術館の宣伝コピー。

日本各地を巡り、多くの仏像・神像を刻んだ円空(1632-1695年)と木喰(1718-1810年)。
それぞれの木彫像が全国から集結する、首都圏の美術館では初の「円空・木喰展」を開催いたします。
・・・・・・
江戸時代の異なる時期に日本を廻国した円空木喰は、独自の仏像・神像を造り上げ、人々から深く信仰されました。
各々の作風は異なりますが、その多くは像に込められた祈りを包み込むように柔らかな微笑みをたたえています。
本展では、新発見・初公開を含む円空木喰の木彫像あわせて約250点を展覧し、それぞれの魅力をご紹介いたします。


私はこの二仏師に、それらの作品と共にその生き方に憧れを感じているのである。出家遁走のモデル像ですね。誰しもそのような傾向はあると思う。
 
 横浜までこの展覧会を見に行くのは無理なので、Web上の画像を基にして、自分でバーチャルにこの展覧会を楽しむのが今回の目的。 Wikipediaをフルに使わせて頂く。


円空
生誕1632年
国籍日本の旗 日本
 


如来立像(東京国立博物館蔵)




円空(えんくう) 寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日)

江戸時代前期の木食僧(廻国僧)・仏師・歌人。特に、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。
円空は生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5350体発見されている。
円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。

円空の生涯を箇条書きで略記する。一部独断で記述した。

 
  • 寛永9年(1632年)美濃国(現岐阜県)に生まれる。


  • 寛文6年(1663年)1月、津軽藩の弘前城下を追われる。その後、青森経由で蝦夷地松前に渡ったことが知られる。太田山神社をはじめ道南の各地を廻り、多くの仏像を彫る。


  • 寛文9年(1669年)頃、尾張・美濃の地方に戻っていたことが在銘の諸像によって知られる。


  • 寛文11年(1671年)、大和国の法隆寺に住していた巡堯春塘より法相宗の血脈を受ける。


  • 延宝7年(1679年)、近江国の園城寺に住していた尊永より仏性常住金剛宝戒の血脈を受ける。


  • 延宝8年(1680年)頃、関東に滞在しており、上野国の貫前神社で『大般若経』を読誦する。


  • 貞享元年(1684年)、再び美濃に戻り、荒子観音寺の住持であった円盛より天台円頓菩薩戒の血脈を受ける。


  • 元禄2年(1689年)、円空が再興した美濃国関の弥勒寺が、天台宗寺門派総本山の園城寺の山内にあった霊鷲院兼日光院の末寺となる。


  • 元禄8年(1695年)、門弟の円長に対して授決集最秘師資相承の血脈を授け、7月15日(8月24日)に自坊の弥勒寺の近辺で寂す。


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    円空の造仏は、32歳の時に始まる。上記の如く、以来30年余りの間に尾張・飛騨・美濃を中心に関東、東北、北海道まで足を運び,各地に仏像を数多く遺した。円空は生涯で12万体を彫るという誓願を立て、現在も5400体余りの像が確認されているとの事だ。
     
    その特徴は、鑿(のみ)や鉈(なた)の跡が荒々しく残る力強い彫像である。この記事の目的である、彼の彫った仏像を見ていこう。
     
    なお、新しいものは、殆どレプリカであることを付記しておく。また、円空仏は贋物が多いことでも有名である。
     




      






     

     
     


    脇道の話だが、新幹線岐阜羽島駅前に高さ8メートルにも及ぶ、巨大な円空モニュメントが建立されている。

     
     
    つぎは、木食上人のお話である。
     
    木食上人
     

    木喰上人自刻像
     
    木喰(もくじき)  1718年(享保3年)- 1810年7月6日(文化7年6月5日)
     
    江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家・歌人。
    日本全国におびただしい数の遺品が残る、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である。
    生涯に三度改名し、木喰五行上人木喰明満上人などとも称する。
    特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧(ゆぎょうそう)などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納した。
     
    木食の伝記を箇条書きで略記する。史実的に怪しい個所はあるが、断定で記述した。
     
    ・1718年(享保3年)、甲斐国東河内領古関村丸畑の名主伊藤家に生まれる。
    (円空の入滅から23年後です。)
     
    ・1731年(享保16年)、14歳(数え年、以下同)の時、家人には「畑仕事に行く」と言い残して出奔し、江戸に向かう。
     
    ・1739年(元文4年)、22歳の時に相模国の古義真言宗に属する大山不動で出家した。
     
    ・1762年(宝暦12年)、彼は常陸国(茨城県水戸市)の真言宗羅漢寺で、師の木食観海から木食戒(もくじきかい)を受けた。この45歳になっていた時点で「木喰」と名乗るようになる。
     
    ・1773年(安永2年)、56歳の時に廻国修行(日本全国を旅して修行する)に旅立つ。
     
    以後、彼の足跡は、弟子の木食白道とともに北は北海道の有珠山の麓から、南は鹿児島県まで、文字通り日本全国にわたっており、各地に仏像を残している。
     
    仏像彫刻家としての木喰のスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けていたことが、遺品から確認できる。この間、佐渡島と日向を除いて1つの土地に長く留まることなく、全国を遍歴した。
     
    80歳で1000体90歳で2000体の造像を発願した木喰は、柔らかく丸みを帯びた像を各地に遺し、720体が現存します。
    実際に何体彫刻したかは、わからないが1000体以上あった事は確実であろう。円空仏とは違って、量産は出来ないスタイルの彫刻であった。それにしてもすごい数である。
     
    木食仏の特徴は、笑顔である。今の私に最も必要なものである。その画像をアップしよう。取得先は省略する。展覧会、Wikiや美術店その他のホームページからである。
     
     
     
     
     
    Wikiに使われている仏像。
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    今回は、これでおしまい。 
     

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