今回は、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地、巌流島である。
海峡ゆめタワーから見た巖流島
巖流島(がんりゅうじま) (Wikipedia による記事)
山口県下関市にある、関門海峡に浮かぶ島(無人島)。正式な島の名前は船島(ふなしま)であり、住所は「下関市大字彦島字船島」となっている。
我々は唐戸港にある桟橋から、巌流島上陸クルーズを利用したのである。
この黄色い船です。乗客は10名程度。
料金は、往復料金で大人1人800円。残念ながら、シニア割引なしです。このように派手な船体で、水中翼船です。2階は展望デッキになっている。
クルーズと銘打っているように、直接巌流島にいくのではなく、歴史名所めぐりというのをやってから巌流島にいく。 船中からの唐戸市場の風景。
関門海峡の海岸線にみえる、高級料亭。伊藤博文が泊まったとか言っていたが、料亭の名前は憶えていない。
(後注: 春帆桜でした。記憶違いでした。ご宿泊されたのは昭和天皇。以下が正しい。
明治4年伊藤博文公の命名により創業。「ふく料理公許1号店」「昭和天皇ご宿泊」「日清講和条約締結会場」等の歴史を重ねる。全室関門海峡を望む。)
赤間神社。この神社も観光した。壇ノ浦の合戦の項で触れる予定。
定番になっているようだが、船中からの関門橋を望む写真。 写す角度が悪いね。
何の意味もないが、タンカーとかの船を見ると写真を撮りたくなる。
巌流島の桟橋です。ようこそ巌流島へと書いてある。
巌流島の案内板はこれ。
ここで、巌流島観光のパンフを挙げる。関門海峡観光推進協議会の作成です。
武蔵と小次郎の決闘シーンの浮世絵風イラストですね。 宣伝惹起が面白いので記す。
決闘の聖地 巌流島
武蔵も小次郎も吉田松陰も坂本龍馬も
斉藤茂吉もアントニオ猪木もマサ斉藤も・・・
皆が訪ねた決闘の聖地「巌流島」
敗者の想いが息づく島
四百年の時を超えて新たな歴史が刻まれる・・・
大袈裟ですな。
何でアントニオ猪木とマサ斉藤みたいなプロレスラーが出てくんねんと思いましたが、巌流島にちなむエピソードがありました。1987年にここ巌流島でアントニオ猪木とマサ斉藤が「巌流島の戦い」と銘打ったプロレスマッチ興行を行ったのです。信じられん事に Wikipedia にその記事が掲載されている。 私は忘れていました。 というより、興味がなかったので、全く知らんかったというのが正しい。 傑作だったので、要約する。
巌流島の戦い(がんりゅうじまのたたかい):プロレス
1987年10月4日に行われた新日本プロレスの企画したアントニオ猪木とマサ斎藤によるプロレスの試合。試合は巌流島で行われた。
経過を述べる。
アントニオ猪木は自己の事業の経営破たん、新日本プロレスの人気の低下、倍賞美津子との離婚危機など、公私とも危機を迎えていた。そうした中、歴史に残る決闘「武蔵と小次郎の戦い」が頭に浮かび、この戦いをプロレスでやることで、この危機を乗り越えたいと考えた。
一発逆転の安易な発想ですね。
対戦相手には維新軍のマサ斎藤が名乗りを上げ、場所は武蔵と小次郎の戦いに倣い巌流島となった。ファンにこびるつもりはないとのことから無観客試合で、時間は無制限、ノールールで行われることになった。
人気取りではあるが、金儲けではないと言いたかったんだろうね。
試合には山本小鉄と坂口征二が立ち会った。午後4時30分、山本小鉄が試合開始の合図を送ったが猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さず、30分後、斎藤に向かって歩み寄ってきた。
猪木=武蔵、 斎藤=小次郎 の図式です。とすると、結論は決まっている。
試合は一進一退の攻防が続き、両者ともフラフラとなったが、猪木は斎藤の背後から裸絞を決め、2時間5分14秒猪木のTKO勝利となった。絞め落とされた斎藤は担架で運ばれた。
でも、一瞬で勝負が決まったわけではないね。 ここは史実(かどうかは不明だが)と異なる。それ以降プロレス人気が復活したかどうかについては、書かれていない。
(後注:別の記事で、結局人気回復にはならなかったと書いてある。)
探せば見つかるものです。その当時の写真!
ところがです。当時の記事を調べているうちに意外な事実を発見。
イメージからいうと、むしろ 猪木=小次郎、 斎藤=武蔵 です。 若き日の猪木と斎藤。
東スポのこの記事です。
その2,3面の記事。
猪木小次郎巌流伝説変えた。
と書いてある。アレ、Wikipedia の記事はウソなんである。巌流伝説を変えたんだから、猪木=小次郎 以外はない。小文字だけど、小次郎ってかいてあるしね。イラストも 猪木=小次郎 を示している。 アゴの長さに注目。
猪木は小次郎と同じように先に巌流島に到着。 とも書いてあって、イラストではやはり、斎藤=武蔵 である。 ヒゲに注目。
「俺は武蔵だ」と言ってはばからなかったマサ斎藤さんを死闘の末倒した。
というその後のコメントもある。
信頼できないWikiは周知の事実だが、こんな所でウソついたらダメだろ! であります。
それでもう一度、Wikipedia の記事を注意深く読んでみました。
猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さず
と書いてあるが、猪木=武蔵 という図式は与えていない。詳しい試合結果を記しているので、当時のニュースにおける図式(猪木=小次郎、 斎藤=武蔵)を知らないハズはない。
読者に予断を与えるように巧妙に書いてあるが、ウソは書いていないのである。巌流島に到着したのは猪木のほうが先だが、試合開始の合図の後では猪木の現れたのが30分後なのである。ペテンみたいな書き方だが、恐らく事実なのであろう。史実にとって都合の良いように取捨選択で書かれている。ウソと断定した私が間違いなのである。 う~ん。
実は記事に意図的なものを感じている。市の観光局かどこかから、PR上史実と違うことは書くなという指示が入ったかもしれんと邪推してしまう。まあどうでもいい事だが、Wikiのヘビーユーザーとしては、記事:巌流島の戦い(がんりゅうじまのたたかい):プロレス の修正が欲しいところです。
プロレスなんだから、(猪木=小次郎、 斎藤=武蔵)で、小次郎の勝でも構わんと思うがね。
それに、史実のほうも色々あって、同時に来たとか武蔵のほうが早く来たとかいう説もあるそうだね。
えらく脱線してしまった。
パンフの裏面には、巌流島の地図と観光スポットが説明されている。
そうでした。関門汽船のパンフもありました。こちらには、私の行けなかった(ワイフと息子は行ったが)門司港レトロエリアの記事も載っている。
厳流島写真集と行きましょう。
桟橋から写した巌流島。
桟橋から釣りデッキというのが伸びていて、そのデッキから海峡夢タワーを望む。
坂本龍馬は、妻のお龍さんとこっそり巌流島に渡り、花火をあげたそうです。意味のないエピソードですね。こんな観光用掲示板が立っていました。
小屋の中に、巌流島決闘の浮世絵風案内板がある。作者は、いちかわかけし。
ここで、念のため「厳流島の決闘」のおさらい。 世間に介錯されているお話です。
宮本武蔵 佐々木小次郎 巌流島の決闘
「おのれ武蔵!臆したか」
慶長17年(1612年)4月13日。長門国舟島にて宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をした。
武蔵は前もって小倉藩主細川忠興(ほそかわただおき)に願い出て決闘の許可を得ていた。
約束の時間は辰の刻(午前8時)。しかし武蔵は2時間たってもあらわれない。
海岸で苛立つ小次郎。その脇には決闘を見守る小倉藩の重臣たちがいる。
一方の武蔵はこの時下関から舟島へ向かう小船の上にいた。
話しかける船頭を無視して、武蔵はさきほどから小刀で何かしきりに削っている。
舟の櫂で木刀を作っているのである。
小次郎がはるかの海をながめていると、かすかな舟影が見えてくる。
舟影はしだいに大きくなっていき、舟の舳先で腕組みをしている武蔵の姿がハッキリ見えてくる。
「おのれ武蔵!決闘の刻限に遅刻するとは、許せん。わが物干竿の錆としてくれよう」
佐々木小次郎、腰にさした刃渡り三尺の物干竿とよばれる刀を抜き、怒りに任せて鞘を投げ捨てます。
「小次郎敗れたり」
「何っ」
「勝つつもりがあるならなぜ鞘を捨てた。その鞘にふたたび刀が戻ることはあるまい」「何っ」
「な…ぐっ…黙れッ」
固唾を飲んで見守る小倉藩の重臣たち。
刀をかまえ、距離を保ったまま、海岸沿いに走り出す武蔵と小次郎。
「武蔵ッ」
「小次郎ッ」
小次郎は海を背にした武蔵まで一気に距離をつめ、足元に物干竿を打ち込んだと思ったその物干竿を、一気に切り上げる。舞い上がる砂埃の中に武蔵を一刀両断したかと思った。
その時、宙に飛び上がった武蔵が小次郎の頭上から、櫂の木刀を打ち下ろした。
「ぐはっ…」
小次郎は立ったまま、息絶えていました。しばらくの沈黙の後、見守っていた小倉藩重臣たちはようやく我に返った。
「と、捉えよ。武蔵を捉えよ」
あふてふためく小倉藩重臣たちをよそに、武蔵は舟に飛び乗り下関へと急いだ。小次郎は敗れたが、小次郎をしたう地元の人々の声は強く、小次郎の剣の流派「巌流」から名を取ってこの島舟島をあらため巌流島と呼ぶようになった。
こんなお話だね。吉川英治の新聞小説 『宮本武蔵』 では大体そうなっている。
そんな事を頭に置いていて、巌流島観光を進める。
小屋にあった小次郎と武蔵の錦絵(現代版)とその解説。小次郎は2枚目というのも本当かどうか分からんが、ドラマ等では常に長身の美男子である。
多くの仕合に勝ってきたが、ほとんどが撲殺だといわれている。
謎につつまれた天下無双、宮本武蔵。
などという悪役めいた事が書かれている。
このように遊歩道になっていて、綺麗に整備されている。 向かいにみえるのが休憩所。
これが、舟島神社の鳥居。
その本堂、というより祠。 地神大神の大石が祀られてある。
島からの景色。またもやタンカーを写してしまう。殆どクセです。
風邪引いてるくせに、おちょけて武蔵のカッコを付けているバカな爺さん。
船型のは、巌流島文学碑で、アクリル板に小次郎と武蔵の決闘のシーンが焼きつけられている。
巌流島から関門橋の眺め。
遊歩道。
島の奥の小高い丘には武蔵対小次郎の像が建っている。武蔵像は下関市の廣瀬直樹氏、小次郎像は岩国の彫刻家村重勝久氏のデザインによるとある。
同一時刻なのに、写した方向が違うだけで像の印象が随分変わるね。
その像に割り込む、よれよれの爺さん。
これは、巌流島歴史絵巻のパネル。 長いので2枚の写真。
決戦の場所をイメージして人工的につくられた砂浜。武蔵の乗ってきた船が再現されている。
像と船とは、このような配置になっている。知らないご夫婦が写っているが、個人情報の保護には配慮しなくて良いだろう。
再び厳流島の風景。
このような石碑もありました。
これは、佐々木厳流の碑。
これで厳流島の観光を完了し、後は迎えの船を待つばかりである。
最後に桟橋から、対岸のドックを写してみました。
これで、VI の厳流島編はおしまい。 VII につづく。
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