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2015年7月18日土曜日

レオナール・フジタ展

このところ主夫業と息子の店の皿洗いで、お疲れである。それだけではないが、趣味のブログ書きに費やす時間は確実に減っている。お勉強の時間が増えて、そうなるのは歓迎だが、実際は共に減ってしまっている。

お勉強のほうは、別に見張りもいないので構わんが、ブログは百数十名の方がほぼ毎日読んで下さっているので、さぼる事については罪悪感が出てきている。4コマ連載の新聞漫画みたいな感じですな。 実をいうと、たまには読んで面白かったと思って下さるような記事を書きたいのである。この日記ブログの性質からいうと、無用の配慮というか足掻きかもしれんが・・・。

それで、詰まらぬ事実の羅列でしかないとは思いつつ、日々の責任を果たすため記事を書くのであった。

思い出したが、最近の記事ではミスタイプが多くて、大変申し訳ないと思っている。校正を殆どせずに記事をアップしているせいである。機械が勝手に誤変換する場合もある。見直して可能な限り修正しているので、てにおはの変な文章がでてきたら再更新してください。宜しくお願いする。

相変わらず無意味な前書きが多いが、今回の記事に入る。
すっかり遅くなってしまったが、鳥取県立博物館でのレオナール・フジタ展の見学報告である。
と言いながら、レオナール・フジタ展は既に終了してしまっている。相変わらず迂闊な話である。


データ:

企画展「ポーラ美術館コレクション レオナール・フジタ展 –パリへの視線-」

会期    平成27年5月16日(土)~7月5日(日)※休館日:6月15日(月)
 
主催    鳥取県立博物館、公益財団法人ポーラ美術振興財団 ポーラ美術館

特別協賛  BSS山陰放送

観覧料   一般1000円、前売・団体800円

概要    
 
国内最大級の規模でレオナール・フジタ(藤田嗣治 ふじた・つぐはる 1886年~1968年)の作品を収蔵するポーラ美術館のコレクションから、パリ滞在の初期から再渡仏を経た1960年代の画業を紹介する。
また、フジタと交流のあったパリの画家たちや、彼の制作風景を撮影した土門拳の写真作品も併せて展観し、フジタがパリに何を見いだしていたのか、その視線の軌跡をたどる。

出品点数  180点(フジタ162点、関連作家8点、土門拳写真10点)
 
 
という事で、1000円支払って入場した。見ごたえがありました。
 
新聞記事より抜粋。

 パリ滞在の初期から再渡仏を経た1960年代までの作品162点のほか、藤田本人を撮影した写真などを展示。日本画の手法油彩画に融合し、白い滑らかな下地を特徴とした作品群を紹介している。
 
パンフは、2つ折り+1枚2ページで充実している。





 
パンフに沿って解説する。
 
展覧会の冒頭で、藤田嗣治についての説明がなされる。

レオナール・フジタ(藤田嗣治)《自画像》画家レオナール・フジタ藤田嗣治、1886-1968)を語る上で、フランス・パリは決して切り離せないものでしょう。

1913年に渡仏後、1921年のサロン・ドートンヌに出品した裸婦を描いた作品が「すばらしき乳白色」と高い評価を受け、パリ画壇にその地位を確立します。

時を経て、第二次世界大戦の後に再びパリの地を踏み、フランス国籍を取得して、1968年に歿するまでこの国で生きることを選びました。

 あたかもフランスへの愛に殉じたように見えるフジタの生涯ですが、そこには単なる憧憬や賛美の念にとどまらない、異邦人ならではのパリあるいはフランスに対する複雑な距離感や思いを見て取ることができます。


初めてパリの地を踏んで以降、この街に対するフジタの視線はどのようにその作品にあらわれ、どのような変化をたどったのでしょうか。
 
 
 
画像:レオナール・フジタ 《自画像》1929  水彩、墨/絹本   

 
 
さらにこの展覧会の意義について述べている。
 
 

 本展は、ポーラ美術館の収蔵するフジタ作品のコレクション160点余をもとに、パリ滞在の初期から再渡仏を経た1960年代までのフジタの画業を紹介します。
 
あわせてルソーピカソらフジタに影響をもたらした同時代の画家たちの作品を紹介し、フジタがパリに何を見いだしていたのか、その視線の軌跡をたどります。

 またアトリエで制作するフジタの姿を撮影した写真家、土門拳の写真作品を特別展示し、フジタの人物像やアトリエでの制作の様子にも光を当て、創造の秘密に迫ります。
展覧会は4章に分けられ展開されている。

 
 
レオナール・フジタ 《自画像》1929 水彩、墨/絹本 第一章 アヴァンギャルドのパリへ―エコール・ド・パリ前夜

1913年に渡仏したフジタは、ピカソやルソーらの前衛的な絵画に触れたことで、この地で画家として生きるために、独自の表現の確立を模索します。


さまざまな実験を重ねた後、西洋由来の油彩に基づきながら、乳白の下地に硬質な墨線をひく日本画の技法を取り入れた絵画にたどり着き、パリの画壇で高い評価を得ました。

本章では、フジタの希少な初期作品と、同時代に活躍していたエコール・ド・パリの画家たちの作品を紹介します。
レオナール・フジタ  《パリの要塞》 1917 油彩/カンヴァス 



 
アンリ・ルソー 《シャラントン=ル=ポン》 1905-1910頃 油彩/カンヴァス

そのほかにも、モディリアーニ、スーティン、パスキン、キスリングがいる。


第二章 アトリエにて―不在のパリをめぐって

1930年代から40年代にかけて、日本を中心に活動していたフジタは、第二次大戦ののち、次第にパリへの想いを募らせていきました。


かつて暮らした田舎家や古典文学をモチーフに、想像上の世界を描いたフジタは1950年にようやく再びパリの地を踏み、その5年後にはフランス国籍を取得。

その後生涯にわたってフランスの地を離れることはありませんでした。本章では、フジタの記憶や夢想といった内面をよりどころとした構想画風の作品たちを紹介します。


レオナール・フジタ 《姉妹》 1950 水彩、油彩/カンヴァス 
 
 藤田の独創性あふれる作品群が開化したのは、この時期といえる。私が好きなのは、猫や女性を描くことの多かったこの時期の作品。
 
 

第三章 

「私」のパリ―小さな職人たち」


1950 年代末に集中して制作された「小さな職人たち」は、パリという街とそこに息づく人々の営みを主題とする連作です。
 
子どもがさまざまに扮する職業の多くは、 「プティ・メティエ」と呼ばれる路上での呼び売りや職人仕事で、当時パリの街から次第に消えつつあった彼らの姿を、フジタは敬意と愛情を持って描き出しました。





レオナール・フジタ 《コンシェルジュ(管理人)》 1959頃 油彩/ファイバーボード

これが圧巻で、百数十枚のボード絵が展示されている。不均等な目鼻立ちを持つ子供の表情が、不敵かつ何とも可愛らしいのだ。素晴らしい!

 

アトリエのフジタ―土門拳の写真より

 

1941 年から49年にかけて、日本を代表する写真家・土門拳(1909-90)は日本に滞在していたフジタのもとをたびたび訪れ、その姿やアトリエの様子を撮影 しました。

 
 
制作中の画家の横顔や画材、アトリエ室内の調度品など、作品の裏側とも言えるフジタの創造の秘密を垣間見ることができます。
土門拳 《デッサンするフジタ》 1941 ゼラチン・シルバー・プリント|土門拳記念館蔵

 
 ということで、パンフの全くのコピペである。
 
展覧会における作品集のカタログ。
 
 
 
このカタログを基にして、藤田嗣治の画業や人となりを解説したかったのだが、今回はお疲れ(私が)なのでこの位にする。 この展覧会で紹介されている以上に藤田嗣治は、もっと奥行の深い芸術家である。別の記事であらためて藤田嗣治を紹介したいと思っている。 
 
 今回は、これでおしまい。
 
 
 
 
 
 

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