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2014年4月15日火曜日

黒田官兵衛再論

 


前回 黒田官兵衛 の事を書いた ( 黒田官兵衛と姫路散策 ) が その後

ひめじ官兵衛プロジェクト というのを見つけた。

紹介したい記事があったので、歴史のお勉強も兼ねて 上記の公式ホームページから引用する。


官兵衛の人となり

官兵衛生まれる

黒田家は官兵衛 の祖父・重隆の代に姫路に移り住み、秘伝の目薬を広峯神社のお札に付けて売り、大きな財を蓄えました。その後、播磨の有力豪族であった御着城の小寺氏の家臣となり、姫路城代を任されます。「姫路城史」 によれば、その時代にも現在の姫路城と同じ場所に、官兵衛の祖父・重隆と父・職隆が築いた小さな城があり、官兵衛はそこで1546年(天文15年)11月29日に誕生。その日は一面の雪景色だったと「黒田家譜」は伝えています。官兵衛は、その聡明さが早くから認められ、弱冠16歳で禄高80石と破格の待遇で近習に、22歳で家老となりました。

官兵衛は豪族の生まれで、幼少のころから秀才で、長じて後も大秀才だったわけです。
22歳で家老 なんてすごいんだ。

秀吉を天下人へ導く

大きな転機となるのが秀吉との出会いです。
播磨の豪族が、毛利方、織田方のどちらに付くかで揺れ動く中、織田方に付くよう主君を説得。
信長の命で秀吉に従うこととなった官兵衛は、毛利攻めに向かう秀吉に姫路城を献上しました。
それ以降、秀吉の懐刀として、播磨平定や中国攻め、四国・九州征伐など、数々の合戦で名をはせます。中でも、備中高松城を水攻めしている時、本能寺の変により信長の死去が知らされ、
肩を落とす秀吉に、今が天下取りのチャンスであると進言し、中国大返しを実現させました。

中国大返しは、有名ですね。 私も官兵衛の推言だと知っていました。 官兵衛が機をみるに敏だったというのは、このエピソードでよく知られています。

また、戦国時代にあって、人の命をむやみに奪うことを嫌った官兵衛は、実戦だけでなく数々の戦で折衝にあたります。その中で、説得に赴いた有岡城で1年以上の間、土牢で幽閉されたこともある。それでも秀吉を裏切らず忠義を貫いた、信念の人でした。


信念の人だというのにも魅かれます。 
黒田二十四騎 を束ねていたのもそのような気概があったからだろう。

各地の戦陣で活躍した官兵衛は、1587年(天正15年)に秀吉の九州征伐の論功行賞で豊前・中津(大分県・中津市)へ移ります。黒田家筑前52万3千石の礎を築き、59歳でこの世を去りました。

この時代だと、大往生なのでしょうが、今の時代でいうと、むしろ若死にですね。 
大活躍の人生ではあります。 思い残すことは少なかったようです。 
 

黒田官兵衛の生い立ち




1546官兵衛誕生(幼名・萬吉)
1561主君・小寺政職の側近となる
1562初陣 元服し、官兵衛孝高となる
1567志方城主・櫛橋氏の娘(光姫)を娶る。家督を継ぎ、姫路城主となる
1568嫡子・長政(幼名・松寿丸)誕生
1575小寺政職を説得し、織田信長に帰属することを決める
信長より名刀「圧切」を賜る
1576英賀で5千の毛利軍を5百の兵で退ける
1577秀吉に姫路城を提供する
1578摂津国有岡城主・荒木村重が信長に謀反 単身説得にあたるも幽閉される
1579有岡城が落城し、救出される
1580国府山城に移る
1万石の大名になり、山崎城を居城とする
1582秀吉に従い、備中平定に出陣。
中国大返しを進言
1583大阪城築城の縄張りをする
キリスト教に入信(洗礼名・シメオン)
1587豊前国六郡12万石を拝領。
1589家督を長政に譲り、隠居。如水と名乗る
1590小田原討伐にて北条氏との講和をまとめる
北条氏直から名刀「日光一文字」を贈られる
1600関ヶ原の合戦で東軍に属し、
九州にある西軍の城を次々と攻め落とす
1604伏見屋敷にて死去


それで、知りたかったのは、黒田二十四騎 はどのような 人達かという事です。
姫路の「大河ドラマ館」の壁面に家紋と兜のシルエットが描かれています。 
それは、一体何かという疑問でした。 答は完璧に、この公式ホームページ 
ありました。 

込み入った疑問でなければ、時間さえかけて グーグル+Wikipedia で調べれば
大体は解決されます。 図書館や辞書の類で調べる必要はなくなりました。
老人にとっても良い時代になったものです。 

調査結果を述べます。 


黒田二十四騎

勇名を馳せた黒田二十四騎
 
 
「黒田二十四騎」とは、官兵衛が黒田家草創期の精鋭二十四人を選んだものと伝えられ、
江戸中期以降、その画像が数多く描かれました。二十四騎の大半は官兵衛が姫路時代の
子飼いの家臣であり、黒田家と姫路・播磨とのゆかりの深さが偲ばれます。
※出身地については異説もあります。
黒田兵庫助(くろだひょうごのすけ)
黒田兵庫助
(くろだひょうごのすけ)
職隆の次男。姫路に生まれ、官兵衛に従って秀吉に仕え、豊前入国後は長政の後見役に。
黒田修理亮(くろだしゅりのすけ)
黒田修理亮
(くろだしゅりのすけ)
職隆の三男。姫路に生まれ、秀吉・秀長に仕え、官兵衛没後その肖像画を崇福寺に奉納。
黒田図書助(くろだずしょのすけ)
黒田図書助
(くろだずしょのすけ)
職隆の四男。姫路に生まれ、官兵衛の影響でキリスト教に入信し、最後まで信仰を貫いた。
栗山四郎右衛門(くりやましろうえもん)
栗山四郎右衛門
(くりやましろうえもん)
姫路市栗山町に生まれ、有岡城に幽閉中の官兵衛を救出。官兵衛臨終の際に後事を託された。
久野四兵衛(ひさのしへい)
久野四兵衛
(ひさのしへい)
播磨国に生まれ、官兵衛の小姓に。秀吉の九州平定の後、博多の復興に力を注いだ。
井上九郎右衛門(いのうえくろうえもん)
井上九郎右衛門
(いのうえくろうえもん)
姫路市白浜町の生まれ。職隆・官兵衛・長政の三代に仕え、朝鮮の役などで戦功を上げた。
母里太兵衛(もりたへえ)
母里太兵衛
(もりたへえ)
姫路市飾磨区妻鹿の出身。大杯の酒を飲み干し福島正則の秘蔵の槍をせしめた話で有名。
後藤又兵衛(ごとうまたべえ)
後藤又兵衛
(ごとうまたべえ)
姫路市山田町に生まれ、官兵衛が養育。黒田家を去って後、大坂の陣で豊臣方に加わり戦死。
黒田三左衛門(くろださんざえもん)
黒田三左衛門
(くろださんざえもん)
父が荒木村重の家臣で有岡城に幽閉中の官兵衛を庇護。その恩に報い官兵衛が養子に迎えた。
野村太郎兵衛(のむらたろべえ)
野村太郎兵衛
(のむらたろべえ)
母里太兵衛の弟で姫路に生まれる。幼時から黒田家に仕え、九州の陣、朝鮮の役などで活躍。
桐山孫兵衛(きりやままごべえ)
桐山孫兵衛
(きりやままごべえ)
近江国の生まれ。播磨国に移り職隆以下四代に仕え、朝鮮の役では長政に従い高名を上げる。
吉田六郎太夫(よしだろくろうだゆう)
吉田六郎太夫
(よしだろくろうだゆう)
姫路市八代の生まれ。官兵衛に仕え、備中高松城の水攻めでは船を沈めて川をせき止めた。
小河伝右衛門(おごうでんえもん)
小河伝右衛門
(おごうでんえもん)
播磨国美嚢郡の生まれと伝えられ、小寺氏に仕えた後、官兵衛に従い、各地で戦功を上げた。
菅六之助(かんろくのすけ)
菅六之助
(かんろくのすけ)
たつの市新宮町越部の生まれ。剣に秀で、朝鮮の役では虎を一刀のもとに切り伏せたという。
三宅山太夫(みやけさんだゆう)
三宅山太夫
(みやけさんだゆう)
姫路市飾磨区三宅の生まれ。剛胆の人で、官兵衛が孫子の一節から山太夫と命名したという。
野口左助(のぐちさすけ)
野口左助
(のぐちさすけ)
加古川市野口町の生まれ。父は教信寺の僧で母里太兵衛は義兄にあたる。佐用城や三木城攻めで名をあげ、九州の陣、朝鮮の役でも活躍した。
益田与助(ますだよすけ)
竹森新右衛門
(たけもりしんえもん)
姫路市上大野の生まれ。竹森家は豪農で、備前福岡から姫路に移ってきた黒田家を支えた。
竹森新右衛門(たけもりしんえもん)
益田与助
(ますだよすけ)
加古川市東神吉町の貧しい農家の生まれ。官兵衛の下僕として働き、数々の手柄を立てた。
林太郎右衛門(はやしたろうえもん)
林太郎右衛門
(はやしたろうえもん)
信濃国に生まれ、播磨国に移って官兵衛に仕えた。関ヶ原合戦で長政に従い戦功を上げた。
原弥左衛門(はらやざえもん)
原弥左衛門
(はらやざえもん)
筑前国の生まれ。九州の陣で秀吉の命により黒田家に仕え、地理に暗い黒田軍を先導した。
堀平右衛門(ほりへいえもん)
堀平右衛門
(ほりへいえもん)
播磨国の生まれ。本姓は明石氏だが朝鮮の役で堀ぎわ、塀ぎわで戦功を上げ、名を改めた。
衣笠久右衛門(きぬがさきゅうえもん)
衣笠久右衛門
(きぬがさきゅうえもん)
播磨国明石郡の生まれ。小寺氏に仕え、与力として黒田家に属し、九州の陣で名を上げた。
毛屋主永(けやもんど)
毛屋主水
(けやもんど)
近江国の生まれ。柴田勝家、佐々成政らに仕えた後、長政に従い、朝鮮の役などで活躍した。
村田兵助(むらたへいすけ)
村田兵助
(むらたへいすけ)
姫路市井ノ口の生まれ。官兵衛に仕え、長政が人質として織田方に送られた際に付き従った。
 
「黒田二十四騎画帖」福岡市博物館
 
もう一つ知りたかったのは、かんべえ君の頭にある兜の由縁です。
 

これは、パンフから見つけました。

朱塗合手形兜(しゅぬりごうすなりかぶと)

お椀を逆さまにした官兵衛の朱塗合子形兜である。
これは光姫と結婚する際に義父・鶴橋伊定より贈られたもので、
「九州の関ケ原」とよばれる戦いでは「加水の赤合子」として恐れられた。
 

とあります。 


もう一つ紹介したいのは、如水の「水五訓」です。

水五訓


一つ、自ら活動して他を動かしむるは水なり


一つ、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり


一つ、常に己の進路を求めて止まざるは水なり


一つ、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり


一つ、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し
    疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり

五訓目だけがやたら長いですね。 

水五訓のような生き方ができればいいですが、凡人には難しいですね。
奔流のごとく動く水のように積極的に生きろと指示しています。 

こちらは、ただ流されるままです。 受け身でしかありません。 

一応疑問点は、解消したのでこの項は終わります。


 


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