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2015年12月13日日曜日

淡路人形浄瑠璃 三味線師匠 鶴澤友路

淡路人形座に人形浄瑠璃を見に行った際に見かけた立派な石碑がこれである。

鶴澤友路師顕彰碑






淡路人形まつり

今回は、この鶴澤友路師を紹介したい。

師は、三味線師で人間国宝である。正確には、国指定重要無形文化財義太夫節保持者である。 以前から、パンフなどでお名前は存じあげていた。この道一筋のとても偉い方である。ご存命で、現在102歳であられる。

矍鑠とされたこのお方である。80代後半(?)のころのお写真。

鶴澤友路



鶴澤友路顕彰碑碑文
師 本名宮崎君子大正二年十二月九日三原郡福良町に生を享く 五才にして義太夫節を志し九才より文楽座野澤吉童師に師事し のち三味線宗家六代鶴澤友次郎師の内弟子となり研鑽 斯道の真髄を極む その卓越せる技芸は高く評価され 斯界の第一人者として活躍せらる
郷里にありては淡路人形座若手 さらに児童生徒を指導 多くの俊秀を育成し淡路人形浄瑠璃の振興に寄与せらる
阪神間にも多くの門弟を擁し 友路会は素義会の最高峰に位す
幾度か海外公演にも参画し 各国で絶賛を浴び 淡路人形の名声を博す 昭和六十一年くにの重要無形文化財保持者に認定を受く
師 傘寿に当たり つとに芸恩に浴せし者及び有志相集い顕彰碑を建立偉大なる功績を讃え永く後世に伝えんとす

平成四年四月十一日
鶴澤友路顕彰碑建立委員会


淡路人形協会のウエッブサイト鶴澤友路師の紹介記事がある。

それに従って、簡単に経歴を要約する。詳しい経歴や活動歴については、上のページを参照して下さい。

・本名は宮崎君子で、大正2年12月19日福良で生まれた。 

・浄瑠璃好きの両親の影響を受け、早くから三味線に魅せられ、5歳の時、淡路人形浄瑠璃上村源之亟、市村六之丞、吉田傳次郎各座の巡業で舞台に出演した。

・大阪に出て野澤吉童師に入門、内弟子となる。竹本東広師、豊澤広助師などの指導を受ける。

・昭和11年、三味線界の宗家、鶴澤友次郎師の内弟子となり、その後は淡路と大阪を往来し修行に努め、竹本小仙師、野澤吉弥師、竹本染登師、鶴澤寛治郎師、竹本綱太夫師にも学ぶ。

・昭和16年、宗家から「もうお前に教えることはない」と友次郎師匠の一字を頂き、「鶴澤友路」を拝命した。

・昭和15年から福良の自宅でも内弟子をとって大勢の育成に努めた。現在までその総数は1000人以上にのぼる。 

・昭和26年、大阪四ツ橋文楽座にて竹本三蝶の相三味線を務め、宝塚大劇場、京都南座、大阪旭座、三越劇場、東京国立劇場等で、当時第一人者の相三味線にも出演した。

・昭和28年、弟子の会「友路会」を結成以来、人形浄瑠璃部での後継者団体の指導や淡路人形座の若手座員の指導にも励み、多くの人材を育て、自らも出演して人気を博した。 

・昭和47年には天皇皇后両陛下の御前で公演する。

・昭和49年、日本顕彰会の表彰を受ける。 淡路人形座は世界各国への海外公演を毎年のように行い、友路師匠もその殆どに参加し、外国人に多大の感銘を与えた。

・昭和59年、芸能団体半どんの会受賞、兵庫県文化賞受賞。

・昭和61年、重要無形文化財義太夫節保持者に認定。 

・平成7年文化庁長官表彰、平成8年伝統文化ポーラ賞特賞を受賞。

・平成10年重要無形文化財義太夫節三味線保持者人間国宝)に認定された。


師を知るに、弟子の言葉にまさるものはない。ということで、そのお弟子さんの竹本友喜美師匠のお言葉である。



「この上ない幸せ」



人間国宝の認定を世界中で最も喜び、最も当然の結果と感じているのは私に違いありません。
終戦直後の何もない時代から弟子として仕えさせていただき、厳しさの中に温かみのある指導をして下さいましたお師匠様には、常に感謝と尊敬の念を抱き続けております。
鮎原での修行時代、水汲みに行った河原で遊びに夢中になり、叱られたことのありましたが、真冬の夜半に目が覚めると師匠の三味線の音が聞こえ、「何事も一所懸命やれば出来ないことはない」という言葉の裏には、人知れず努力する姿があるということに子どもながらも感動したものです。
人間一生が勉強である」と自分自身にも厳しく、芸の追及を怠ることなく、数多くの稽古部屋を持ち、稽古に明け暮れる毎日で、修行を続けておられる姿に、泣き虫の私には涙なしでは見られないことも、しばしばありました。
三味線は。状況、情景を表現しなければなりません。
心を伝えるためには、単に手で弾くのではなく、足の親指に力をためて腰で弾くものです
また気持ちの上では腹がまえと呼ばれる精神統一をして押す息で弾き、たゆうとこころをひとつにして息、間、『あうん』の呼吸を絶えず計っていくことが大切です

師匠の三味線で語ると、自分の力以上のものを引き出してくれるという安心感と満足感のある舞台を勤めることができます。
人間国宝の弟子として、これからも尚一層、精進、努力していきたいと思っております。

立派な師匠のお言葉であり、その指導を受け入れた優れた弟子の含蓄ある言葉です。

100歳を迎えた誕生日の記念写真を紹介したい。


 
淡路人形浄瑠璃資料館 百寿記念展にて。
 
 
 
 
100歳祝賀記念のCDも発売されている。


信じられないことだが、102歳になった現在も弟子の指導をしているそうである。

これでおしまい。


 
 
 
 

2015年12月1日火曜日

水木しげる画伯 逝去

漫画家の水木しげるが昨日多臓器不全のため亡くなった。93歳であった。転倒し頭部を打撲したことが直接原因とはいえ、充分な老齢で大往生を遂げたといえる。亡くなるまで漫画を書き続け、無理をしないで大活躍をした人生でした。 その特異なキャラは、多くの人に愛された。


80年代後半になっても、画を書き続けていた。つい半年前まで、調子の良い時は絵を描いていたそうである。鬼太郎の巻物だね。



水木プロダクション公式サイトでは、つぎにように報告されている。


水木しげる近況

2015.11.30訃報


水木しげるは本日永眠いたしました。
 
ここに生前のご厚誼を感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます。
 
 
・死亡日時 平成271130日午前718
 
・享年齢 93歳 (大正1138日生)
 
・死亡理由 多臓器不全
1111日に自宅で転倒。頭部打撲による硬膜下血腫で緊急手術を受け
一時回復していたが、1130日未明に容体が悪化。
多臓器不全により逝去。
 
・出身地 鳥取県境港市
 
・本名  武良茂
 
・通夜、告別式は家族のみにて。後日お別れ会をおこないます。
 
・喪主 武良布枝(妻)
 
・連絡窓口 水木プロダクション
     182-0024 東京都調布市布田1-32--5-505
     Tel:042-482-0058


私は、墓場の鬼太郎の時代からの水木ファンで長い間多くの作品を読ませて頂いた。TVドラマ、アニメ、映画、妖怪関係の展覧会、小説、評伝、雑誌の特集等々で、折にふれ50年の長きに渡って水木大先生の描かれた妖怪達と親しんだことになる。そう言えば、5年前のNHKの朝ドラ「げげげの女房」を毎朝楽しみに見ておりました。



水木しげる関連の記事も書いている。 著作権の関係があり煩わしくなってしまい(下の妖怪全集 5を見て欲しい)、この所中止しているが、このブログでも楽しみながら水木しげるの妖怪全集の記事を書かせて頂いていた。

水木しげるの妖怪全集 1
水木しげるの妖怪全集 2
水木しげるの妖怪全集 3
水木しげるの妖怪全集 4
水木しげるの妖怪全集 5
水木しげるの妖怪全集 6 

また折を見て再開したいと思っているが、いつになる事やら・・・。

水木しげる画伯の業績を説明しだすと膨大できりがないので、今回は画伯の独特な、しかし人生の真実をついた幸福論戦争漫画を紹介したい。Wikipediaには、水木しげるについての実に詳細な記事があるので、これを読んでもらうと彼の偉業がわかる。 水木しげる

水木しげる 著 水木サンの幸福論  角川文庫



水木しげるは、このなかで、

「何十年にもわたって世界中の幸福な人、不幸な人を観察してきた体験から見つけ出した、
幸せになるための知恵」

七か条にまとめている。 七か条の御誓文ですね。
 
これである。



全て肯けるお言葉です。

水木しげるの戦争体験だが、Wikipediaではこのように簡潔に記されている。

1943年、夜間中学3年生在学時に召集され帝国陸軍の軍人(兵)となった。
太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウル方面に出征、過酷な戦争を体験。同地で爆撃を受け左腕を失う。

その体験記は、幾多の自伝的な漫画で描かれている。

この本は買って読みました。悲惨な話です。

 
 
漫画のページ

 
 
 
 
戦争は、2度と起してはならぬ。平和な時代があったからこそ、水木しげるが活躍できたのである。 

水木しげる先生、どうか安らかにお休みください。 合掌

2015年9月30日水曜日

天竺徳兵衛

今回は、高砂訪問の最後に出くわした著名人の天竺徳兵衛の紹介記事である。高砂市町散歩
 工樂松右衛門   ヘリコプター世界初の発明者 大西唯次

その名を知ったのは、初めてではない。歌舞伎か何かの登場人物でないかと思ったが、詳細については知っているはずがない。そこで、Wikipedia 様にお教えを乞うた。

天竺徳兵衛

   

天竺徳兵衛、17世紀の肖像画
 
 
天竺 徳兵衛(てんじく とくべえ、慶長17年(1612年)- 没年不詳)
 
江戸時代前期の商人、探検家。
 
播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという。
寛永3年(1626年)、15歳のときに京都の角倉家の朱印船貿易に関わり、ベトナムシャム(現在のタイ)などに渡航。さらにヤン・ヨーステンとともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった。
帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後、見聞録『天竺渡海物語』(『天竺聞書』とも)を作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたが、内容には信憑性を欠くものが多いとされる。
高砂市高砂町横町の善立寺に墓所が残っている。

 
 
面白いというか、世間に知られているのは、この徳兵衛が死去した後に伝説化し、浄瑠璃歌舞伎妖術使いの役回りで人気がでた故である。
特に四代目 鶴屋 南北の『天竺徳兵衛韓噺は大当たりをとった。
 
 四代目 鶴屋 南北
 
 


『市村座三階之圖』(歌川国貞画)より四代目鶴屋南北


四代目 鶴屋 南北(よだいめ つるや なんぼく)、
宝暦5年(1755年) - 文政12年11月27日(1829年12月22日)

江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。
鶴屋南北を襲名した者は5名を数えるが、単に鶴屋南北または南北というと、通常はこの四代目のことをさす。また5代の南北のなかでもその業績が突出しているため、この四代目のことを特に大南北(おおなんぼく)ともいう。

浄瑠璃では、江戸時代中期以降の近松半二の『天竺徳兵衛郷鏡』 がある。

 

 
南北の『天竺徳兵衛韓噺』を基にした、数々の錦絵や浮世絵が歌川国芳らの画家により描かれている。
 
 

歌舞伎の登場人物としての徳兵衛、18世紀
 
その舞台では、徳兵衛を日本国転覆をねらう謀反人として脚色されている。あらすじの一部を引用する。文化デジタルライブラリーより。
 
吉岡宗観朝鮮国に仕えた木曽官(もくそかん)という外国人でした。日本に侵略された恨みをはらすために密かに来日して復讐の機会を待っていたのです。徳兵衛吉岡宗観息子・大日丸(だいにちまる)であったことを知らされ、日本国転覆の野望を受け継ぐために蝦蟇の妖術を伝授されました。徳兵衛大蝦蟇に乗って大屋根の上に現れ、屋敷を押しつぶします。
 
ということで、多くの絵で大蝦蟇が描かれている。まるで自来也みたいな風体だね。
 
 


 


 






 


 



これは、 『神田川の与吉』で、嘉永2年 (1849年)上演の『天竺徳兵衛韓噺』の一場面。徳兵衛ではないが、関連画像として挙げた。


 

 
 天竺徳兵衛韓噺は、現在も歌舞伎の舞台に演目としてあげられている。
 


ということです。浮世絵がやはり面白かったですね。これでおしまい。
 

2015年9月24日木曜日

ヘリコプター世界初の発明者 大西唯次

世界初のヘリコプターを発明したとされる、高砂出身大西唯次氏のことを調べたのだが、あまり詳しい記事はネット上では見つからなかった。Wikiには、記事はない。それでも、必要と思われることは分かったので報告したい。たかさご万灯祭 I

飛行機の離着陸に必要な滑走路を不要にする、垂直飛行機(ヘリコプターという言葉はない)が当時軍からも民間からも要望されていた。模型機ながら、その垂直飛行機を実現させたのが大西唯次氏なのである。

このことは、神戸新聞の記事にもなっている。 神戸新聞 1929.7.12(昭和4)



記事を読んでみよう。

見出し

世界的の大発明として驚異される垂直飛行機の発明を完成

全欧米をあげて競争的に完成を急ぐ中に高砂町の青年大西唯次氏の考案全く成る

模型飛行機ものの見事に飛ぶ

記事内容

目下飛行機は軍用のみでなく旅客通信漁業方面に利用されアメリカでは農業にまで使用されて好成績を示し一般的実用の機械となったが其着陸離陸に広大なる地面を必要とし多年非常な不便を感じているので陸、海軍及逓信省では飛行機の直着陸の発明を軍部及民間各飛行場に対し懸賞奨励を試みている一方英国飛行協会に於ても非常な決心で研究し又奨励の目的で十五分間の垂直飛行懸賞金十万円を発表したがまだ昨年十月までには全世界に於てこれに応募したものはない現状である、ところが県下加古郡高砂町北本町大西唯次氏は理想的垂直飛行機を発明し特許局に出願中である
 氏は模型飛行発明の第一人者で大正元年八月日本全国模型飛行競技で飛行タイムの第一等賞を獲得し其後引続き同様三回に亘り一等賞を得たんだが三年前から垂直飛行の研究に没頭し漸く完成したものである

小見出し

特許が下り次第大型飛行機を製作 大阪飛行協会が力瘤を入れて特許局に請願運動する

特許局では英国に同種のものがあるからとの理由で特許を不許可にすべき意を洩らして来たが大阪の飛行協会では英国のものと大西氏の発明機とは其形式だけでなく根本的に全然相違したもので英国は飛行機でなく所謂凧の様なもので紐によって垂直昇降し水平に飛行することは絶対に出来ないものである、因って同協会は大西機の特許を当然とし我国の誇りとして特許局に対し是非特許あり度い旨を請願した結果同協会援助と特許局の再詮議によって必ずや大西機は世界最初の垂直飛行機としての特許ある筈で特許が下り次第直に大型飛行機を製作し世界的垂直飛行史の第一ページを飾ることとなる訳である


大西唯次氏の紹介記事

数種の発明を作り上げた人

大西氏は高砂町高砂署の北隣でささやかな小間物商を営み時計修繕業をもしているが由来発明家で各種の機械を発明している夫婦共に非常な進歩的の人で常に夫婦揃って日夜洋装で暮らし二重生活を脱するのだといっている(写真は発明者大西氏)

これでは、顔立ちがわからんね。



この発明は、長らく忘れ去られていたのだが、ご子息の大西道一さんが、研究集会やイベント等で乞われて父君の大西唯次氏の業績を氏所有の映像で、この事実を紹介している。
見つけた集会を挙げる。


1) 大阪電気通信学大学 自由工房 
     大西道一氏講演会 2006年12月12日、 
     第2回大西道一氏講演会 2006年12月19日



プロジェクターで写っされているのが、大西唯次と思われる。


 


2) サイエンスカフェはりまNo.33

タイトル: この高砂で昭和の初めヘリコプターが発明された

開催日2014.8.24(日)
ゲスト大西道一さん
(工学博士 東亜天文学会理事、日本スペース ガード協会理事)
場所明日香 高砂店
参加募集時の詳細はこちら

 
ゲストスピーカの大西道一さんの父上である大西唯次さん(1892~1963年)は大正末から昭和初めにかけて兵庫県高砂市でヘリコプターの開発に取り組まれました。
 ヘリコプター開発以前は模型飛行機造りに熱中し、各地の大会で優勝するなど、エンジン自作や動力付スケーター、モーターボート、プロペラ四輪車、カーラジオなど幅広く製作をおこなわれました。大正末から垂直上昇機の研究を開始され、昭和4年に特許を成立、同年には高砂市向島に大西飛行機研究所を設立されました。
 こういった一連のことを取り上げている当時のテレビ放送、模型機の上昇実験映像、開発環境などをスクリーンでご紹介いただきました。

もし戦争がなければ、ヘリコプターの歴史は変わっていたのかもしれない、と感じられるような興味深いお話でした。

直接関係はないが、大西 道一さんは神戸市灘区在住(地元の方でした)の実に立派な「発明家」です。お父さん譲りだね。紹介します。


大西 道一(おおにし みちかず)さん

灘区・昭和8年生まれ
大西 道一(おおにし みちかず)さん
神戸大学などで図学、設計製図、天文学等の非常勤講師を務める。

子どもの頃に夢中になって読んだ昔の科学の本。「発明家」大西さんの原点だ。


 

今なお学会で論文発表する"神戸のダ・ヴィンチ"

「好奇心が強く、何事も突き詰めないと気が済まない性格」は大正時代にヘリコプター開発に執念を燃やした父親譲りだ。高校生の時には国産初のプラネタリウムを自作。化学会社勤務時代は46件の特許の取得にもかかわった。定年後、大阪電気通信大学で、設計図などを描くための理論である図学の博士号を取得し、81歳になる今なお毎年のように論文を発表し続ける。その傍ら、日本スペースガード協会の関西支部長として、地球に衝突するおそれのある小惑星をいち早く探査する職務も担う。クラシック音楽、古代ローマ帝国、象形文字、模型、パノラマ写真、スキー、アーチェリー…。「僕のことを知ってもらうにはまだまだ時間が足りないなあ」。


それでは、どのような垂直上昇機なのかが気になる。現在のヘリコプターの形状を想像してはいけない。私はフイルムを見ていないので知らなかったのだが、これである。

実用新案登録

 


大西唯次は、本来飛行機のスタイルがやはり好きなのであろう。通常の飛行機機体上部に回転する羽根を取り付けて、それにより上昇するわけである。だから、むしろオスプレイの世界初の初明者と言うべきかもしれぬ。


とすれば、模型機で成功しても、安定した飛行を実現する実用機の製作は、かなり困難であったと推測される。

記事によると、昭和4年に垂直飛行機の特許が成立し、同年には高砂市向島に大西飛行機研究所が設立されたとある。はっきりしたことは分からないが、軍の援助は得られず私費による開発研究であったらしい。そして、その後の記述がない所をみれば、どうやら試作機製作までも行かなかったと思える。困難な技術だけに、資金不足は致命的だったと推測する。ここで成功していれば、文句なしに世界最初のへリコプターの発明者と言えたのだが、残念である。

現在、へリコプター研究の先駆者として大西唯次の名は、アメリカでも認められている。

ところで、この大西唯次の特許は敗戦で無効になったそうだ。敗戦で特許無効とは解せないが、やはり進駐軍の方針だったのかね。

そして、2013年の3月3日には、神戸新聞にこのような記事が掲載された。


見出しに、

飛行機にヘリ機能、設計図立案

80年前 オスプレイ類型機 

高砂の発明家大西さん

とある。問題の多いオスプレイ機に絡んではいるが、日本人の貢献に間違いはない。

雑誌『正論』の「折節の記」には、つぎのような文章があったそうだ。

 日本人は空を飛ぶのが好きだ。
ライト兄弟の成功の10年前に愛媛の人、二宮忠八が、「迎角を持った固定翼とプロペラ推進」のメカニズムを実証したし、最初のヘリも米国に先がけること10年、加古川の人、大西唯次が飛ばした。

グライダー飛行も備前の人、浮田幸吉が18世紀に橋の欄干から飛んで、岡山藩池田公から所払いを食らっている。

探究心と技術力を持つ誇るべき日本人は、沢山いるのである。

これでおしまい。

2015年9月23日水曜日

工樂松右衛門 

昔は、普通の人よりは物知りだと思っていたのだが、退職してみると自分が如何に一般常識に欠けた無知な人間だと悟らされる。学校の教科書で習ったような事は比較的良く知っているが、生活に密着した知識なんてのはてんでダメである。在職時は、学者馬鹿(変人)で済んでいたことが、ただの馬鹿(ヤバイ人)になってしまっている。それで世故知を身に付けようと頑張っているのだが、なかなか難しい。何事も学習と訓練が大事なのだなと、思っている昨今である。

今回は、無知を承知で云うが、本当に知らなかった工樂松右衛門の記事である。たかさご万灯祭申義堂でのアトラクションで初めてその人物を知った。たかさご万灯祭 I

知らないことは恥ではない、知ろうとしないことが恥なのだ。

赤っ恥をかきながら不必要な言い訳をしておく。

取材で高砂神社を再度訪づれたときに、工樂松右衛門の銅像を写した。


彼は、知る人ぞ知る著名人であった。勿論Wikipediaにもその記載がある。俄か勉強であるが、彼の人となりをWiki、ひろかずのブログ等を利用して解説したい。

工楽松右衛門


工楽 松右衛門(くらく まつえもん、寛保3年(1743年) - 文化9年8月21日(1812年9月26日))

日本の江戸時代における発明家、実業家。
現在の兵庫県高砂市に生まれ、兵庫(現在の神戸市兵庫区)で廻船業を経営するかたわら、帆布(松右衛門帆)を発明し、築港工事法を考案して、択捉島埠頭箱館のドックを築造した。これらの業績によって、日本の海運を支えた。高砂城址に松右衛門の銅像が建てられている。

年譜:
  • 1743年(寛保3年) - 播州高砂(現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の長男として生まれる。
  • 1758年(宝暦8年) - この頃兵庫に出て、佐比絵町にある「御影屋」という船主のもとで船乗りになる。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、その斡旋で佐比絵町に店を構え、船持ち船頭として独立。
  • 1785年(天明5年) - 木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功。「松右衛門帆」として全国に普及。
  • 1790年(寛政2年) - 江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する。
  • 1791年(寛政3年) - この年の夏、択捉島の埠頭が竣工。
  • 1802年(享和2年) - 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられる。
  • 1804年(文化元年) - 箱館にドックを築造。その後、択捉開発蝦夷地交易に使った函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る。
  • 1812年(文化9年) - 死去。墓所は現在の神戸市兵庫区にある。
 
 
高田屋嘉兵衛は、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』を読んで知っていたが、その作中に出ていたのだ。情けないが全く憶えていませんでした。
 
その生涯の業績は、つぎの3つに要約される。
 
1.「松右衛門帆」の作成
 
松右衛門は、当時の帆の帆布が丈夫でなかったことに不満を感じ、帆布改良の研究に着手する。42歳のとき、播州の特産である太い木綿糸を用いて、厚く巨大な平織りの丈夫な帆布の開発に成功した。「松右衛門帆」と名付けられた新型帆布はすぐに全国に普及し、北前船をはじめとする大型和船の航海術は飛躍的に向上した。
 
 
2.北方領土の保全
 
松右衛門は、幕府より択捉島での埠頭建設の命令を受け、同年5月に準備を整え出航する。ロシア帝国の南下政策から領土保全をはかる目的であった。厳寒での危険な作業を経て、1791年(寛政3年)10月に埠頭建設が竣工した。高田屋嘉兵衛の航路の寄港地となる。
 
 
 
松右衛門は上記の業績から、1802年(享和2年)に幕府より「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意味の「工楽」の姓をたまわった。
 
 
3.海運業の基礎作り
 
 
65歳のころ、故郷の高砂に戻る。高砂の港作り、箱館でのドック建設、石鈴船・石救捲き上げ装置の発明、防波堤工事などを手がける。
 
高砂湊
 
 
高砂湊の修築
 
 
松右衛門の発明
加古川松右衛門の作った石橋
 
 
 
Wikiにあるエピソードを2つ。
  • 松右衛門は自らの信念を次のように言い残したとされる。
「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌(ろくろく)として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にも劣るべし」
 
(人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る)
耳に痛い言葉です。私は世の役に立っていないしね。 
どこかで何度も聞いたことのある言葉だが、工樂松右衛門の言葉とは知らんかった。
  • 新巻鮭(荒巻鮭)を考案したと伝えられる

工楽松右衛門については、実に詳細な記事がある。私は全部読んでいないが、78もの記事が書かれている。興味のある方は、このブログを参照して欲しい。 「ひろかずのブログ」 工楽松右衛門(78)

さて、「松右衛門帆」であるが、この布を使って色んな製品が作られている。ショルダーバッグとかトートバッグなどである。





現代でも、松右衛門は生きているのである。 これでおしまい。