飛行機の離着陸に必要な滑走路を不要にする、垂直飛行機(ヘリコプターという言葉はない)が当時軍からも民間からも要望されていた。模型機ながら、その垂直飛行機を実現させたのが大西唯次氏なのである。
このことは、神戸新聞の記事にもなっている。 神戸新聞 1929.7.12(昭和4)
記事を読んでみよう。
見出し
世界的の大発明として驚異される垂直飛行機の発明を完成
全欧米をあげて競争的に完成を急ぐ中に高砂町の青年大西唯次氏の考案全く成る
模型飛行機ものの見事に飛ぶ
記事内容
目下飛行機は軍用のみでなく旅客通信漁業方面に利用されアメリカでは農業にまで使用されて好成績を示し一般的実用の機械となったが其着陸離陸に広大なる地面を必要とし多年非常な不便を感じているので陸、海軍及逓信省では飛行機の直着陸の発明を軍部及民間各飛行場に対し懸賞奨励を試みている一方英国飛行協会に於ても非常な決心で研究し又奨励の目的で十五分間の垂直飛行懸賞金十万円を発表したがまだ昨年十月までには全世界に於てこれに応募したものはない現状である、ところが県下加古郡高砂町北本町大西唯次氏は理想的垂直飛行機を発明し特許局に出願中である
氏は模型飛行発明の第一人者で大正元年八月日本全国模型飛行競技で飛行タイムの第一等賞を獲得し其後引続き同様三回に亘り一等賞を得たんだが三年前から垂直飛行の研究に没頭し漸く完成したものである
小見出し
特許が下り次第大型飛行機を製作 大阪飛行協会が力瘤を入れて特許局に請願運動する
特許局では英国に同種のものがあるからとの理由で特許を不許可にすべき意を洩らして来たが大阪の飛行協会では英国のものと大西氏の発明機とは其形式だけでなく根本的に全然相違したもので英国は飛行機でなく所謂凧の様なもので紐によって垂直昇降し水平に飛行することは絶対に出来ないものである、因って同協会は大西機の特許を当然とし我国の誇りとして特許局に対し是非特許あり度い旨を請願した結果同協会援助と特許局の再詮議によって必ずや大西機は世界最初の垂直飛行機としての特許ある筈で特許が下り次第直に大型飛行機を製作し世界的垂直飛行史の第一ページを飾ることとなる訳である大西唯次氏の紹介記事
数種の発明を作り上げた人
大西氏は高砂町高砂署の北隣でささやかな小間物商を営み時計修繕業をもしているが由来発明家で各種の機械を発明している夫婦共に非常な進歩的の人で常に夫婦揃って日夜洋装で暮らし二重生活を脱するのだといっている(写真は発明者大西氏)
これでは、顔立ちがわからんね。
この発明は、長らく忘れ去られていたのだが、ご子息の大西道一さんが、研究集会やイベント等で乞われて父君の大西唯次氏の業績を氏所有の映像で、この事実を紹介している。
見つけた集会を挙げる。
1) 大阪電気通信学大学 自由工房
大西道一氏講演会 2006年12月12日、
第2回大西道一氏講演会 2006年12月19日
プロジェクターで写っされているのが、大西唯次と思われる。
2) サイエンスカフェはりまNo.33
タイトル: この高砂で昭和の初めヘリコプターが発明された
開催日 | 2014.8.24(日) |
ゲスト | 大西道一さん (工学博士 東亜天文学会理事、日本スペース ガード協会理事) |
場所 | 明日香 高砂店 |
参加募集時の詳細はこちら |
ゲストスピーカの大西道一さんの父上である大西唯次さん(1892~1963年)は大正末から昭和初めにかけて兵庫県高砂市でヘリコプターの開発に取り組まれました。
ヘリコプター開発以前は模型飛行機造りに熱中し、各地の大会で優勝するなど、エンジン自作や動力付スケーター、モーターボート、プロペラ四輪車、カーラジオなど幅広く製作をおこなわれました。大正末から垂直上昇機の研究を開始され、昭和4年に特許を成立、同年には高砂市向島に大西飛行機研究所を設立されました。
こういった一連のことを取り上げている当時のテレビ放送、模型機の上昇実験映像、開発環境などをスクリーンでご紹介いただきました。
もし戦争がなければ、ヘリコプターの歴史は変わっていたのかもしれない、と感じられるような興味深いお話でした。
直接関係はないが、大西 道一さんは神戸市灘区在住(地元の方でした)の実に立派な「発明家」です。お父さん譲りだね。紹介します。
大西 道一(おおにし みちかず)さん
灘区・昭和8年生まれ今なお学会で論文発表する"神戸のダ・ヴィンチ"
「好奇心が強く、何事も突き詰めないと気が済まない性格」は大正時代にヘリコプター開発に執念を燃やした父親譲りだ。高校生の時には国産初のプラネタリウムを自作。化学会社勤務時代は46件の特許の取得にもかかわった。定年後、大阪電気通信大学で、設計図などを描くための理論である図学の博士号を取得し、81歳になる今なお毎年のように論文を発表し続ける。その傍ら、日本スペースガード協会の関西支部長として、地球に衝突するおそれのある小惑星をいち早く探査する職務も担う。クラシック音楽、古代ローマ帝国、象形文字、模型、パノラマ写真、スキー、アーチェリー…。「僕のことを知ってもらうにはまだまだ時間が足りないなあ」。
それでは、どのような垂直上昇機なのかが気になる。現在のヘリコプターの形状を想像してはいけない。私はフイルムを見ていないので知らなかったのだが、これである。
実用新案登録
大西唯次は、本来飛行機のスタイルがやはり好きなのであろう。通常の飛行機機体上部に回転する羽根を取り付けて、それにより上昇するわけである。だから、むしろオスプレイの世界初の初明者と言うべきかもしれぬ。
とすれば、模型機で成功しても、安定した飛行を実現する実用機の製作は、かなり困難であったと推測される。
記事によると、昭和4年に垂直飛行機の特許が成立し、同年には高砂市向島に大西飛行機研究所が設立されたとある。はっきりしたことは分からないが、軍の援助は得られず私費による開発研究であったらしい。そして、その後の記述がない所をみれば、どうやら試作機製作までも行かなかったと思える。困難な技術だけに、資金不足は致命的だったと推測する。ここで成功していれば、文句なしに世界最初のへリコプターの発明者と言えたのだが、残念である。
現在、へリコプター研究の先駆者として大西唯次の名は、アメリカでも認められている。
ところで、この大西唯次の特許は敗戦で無効になったそうだ。敗戦で特許無効とは解せないが、やはり進駐軍の方針だったのかね。
そして、2013年の3月3日には、神戸新聞にこのような記事が掲載された。
見出しに、
飛行機にヘリ機能、設計図立案
80年前 オスプレイ類型機
高砂の発明家大西さん
とある。問題の多いオスプレイ機に絡んではいるが、日本人の貢献に間違いはない。
雑誌『正論』の「折節の記」には、つぎのような文章があったそうだ。
日本人は空を飛ぶのが好きだ。
ライト兄弟の成功の10年前に愛媛の人、二宮忠八が、「迎角を持った固定翼とプロペラ推進」のメカニズムを実証したし、最初のヘリも米国に先がけること10年、加古川の人、大西唯次が飛ばした。
グライダー飛行も備前の人、浮田幸吉が18世紀に橋の欄干から飛んで、岡山藩池田公から所払いを食らっている。
探究心と技術力を持つ誇るべき日本人は、沢山いるのである。
これでおしまい。
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