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2014年5月21日水曜日

世紀末画家 オーブリー・ビアズリー

オーブリー・ビアズリー

 

 

オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー
Aubrey Vincent Beardsley, 1872年8月21日 - 1898年3月16日)

イギリスのイラストレーター、詩人、小説家。ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。
悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で鬼才とうたわれたが、病弱ゆえに25歳の若さで夭折した。

オスカー・ワイルド作 サロメ の挿絵画家として著名である。 

彼の悲劇的な 生涯 を Wikipedia から要約しよう。

イングランド南部のブライトンに生まれる。父ヴィンセントは金銀細工師の息子。母エレンは軍医ウィリアム・ピットの娘。2人姉弟の長男として生まれたオーブリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。稼ぎのないヴィンセントのために、母エレンは音楽教師として働き、オーブリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。幼時から母にピアノを習ったオーブリーは、学校に上がる前からショパンを弾きこなし、音楽の天才と呼ばれた。姉メイベル・ビアズリーは女優となった。

1878年、ブライトン近郊ハーストピアポイントの寄宿学校ハミルトン・ロッジに入学。

1879年、初めて結核の兆候が現れる。

1881年、病気のためにハミルトン・ロッジを退学。同年、オーブリーの健康のために、
一家でロンドン南郊のエプソムに転居。

1882年、当時ビアズリー家を援助していたヘンリエッタ・ペラム夫人から初めて絵の注文を受け、
ケイト・グリーナウェイの絵本からの模写で報酬を得る。まもなく、一家でロンドンに移住。

1884年8月、一家で再びブライトンに戻り、ブライトンのグラマースクール(初等中学校)に入学。

1888年、ブライトンのグラマースクールを卒業。一家でロンドンに移住し、ピムリコ地区のケンブリッジ通りに居を構える。ロンドンのクラークンウェル地区測量事務所に事務員として勤務。

1889年、ガーディアン火災生命保険会社の書記に転職したが、年末に喀血したため休職。

1890年、小説風エッセー「懺悔訪問簿の話」を『ティット・ピッツ』誌に発表(ビアズリー当人は画家
よりもむしろ文人として評価されることを望んでいたといわれる)。

1891年7月12日、画家エドワード・バーン=ジョーンズの画室を姉メイベルと共に訪問し、作品を見せたところ、才能を絶賛され、勤めを辞して画家になることを勧められる。
同年8月以降、バーン=ジョーンズの勧めでウェストミンスター美術学校の夜間クラスに出席し、
校長フレデリック・ブラウン(1851年 - 1941年)に師事。

1892年、6月、保険会社の年次休暇を利用して初めてパリを訪問。同年の晩夏、保険会社に
辞表を提出。

1893年、行きつけの書店の主人フレデリック・エヴァンズの紹介で出版業者J・M・デントに会う。
デントのために、以後約1年半にわたってトマス・マロリー作『アーサー王の死』(Le Morte D'arthur)の挿絵を描く。この仕事が始まると同時にウェストミンスター美術学校を退学。


 トマス・マロリー『アーサー王の死』挿絵(1894)



 
1893年2月2日、ロスの紹介で知り合ったルイス・ハインドの発行する『ペル・メル・バジェット』誌で
デビュー。同年5月、憧れのジェームズ・マクニール・ホイッスラーにパリで会うが、悪印象を持たれてこき下ろされたため、復讐にホイッスラー夫妻を揶揄する諷刺画を描く。
同年6月、パリから帰国後、オスカー・ワイルド作『サロメ』の挿絵を描く契約を結ぶ。
この作品の挿絵を描くように慫慂したのは作者ワイルド自身だったが、ビアズリーの絵は
「僕の劇はビザンチン的なのに、ビアズリーの挿絵はあまりに日本的だ」との理由により、
ワイルドには気に入らなかった。作者を揶揄する内容の数枚の挿絵もワイルドを怒らせた。

 オスカー・ワイルド『サロメ』挿絵(1894)

 ビアズリーによるオスカー・ワイルドの似顔絵


1894年、挿絵入り文芸誌『イエロー・ブック』創刊。同誌の美術担当編集主任となる。
このころ経済的に余裕ができたため、ピムリコ地区に家を購入し、姉メイベルと同居。
近親相姦説もささやかれた。この邸の画室は、ビアズリーの意向により、黒とオレンジ色で
統一された。同年初頭より、『セント・ポールズ』誌で挿絵を描き始める。

1895年4月5日、ワイルド男色の罪で逮捕され、大きなスキャンダルとなる。ビアズリー自身は
男色家ではなかったが、『サロメ』以来ワイルドと一体視されていたビアズリーは世論から猛攻撃を受け、『イエロー・ブック』から追放された。
同年4月20日、追われるようにしてロンドンからパリに渡り、短期滞在。
同年7月、ケンブリッジ通りからチェスター・テラスの借家に転居。まもなくベルギーのディエップを
訪問。 8月、ディエップから帰国。チェスター・テラスを去り、セント・ジェイムシズに移る。
同月後半、ドイツに渡り、ケルンにて詩「床屋のバラード」を執筆。ミュンヘン、ベルリンを訪問。
続いて、9月後半までディエップに滞在。このころ、タンホイザー伝説に基づく好色小説
ヴィーナスとタンホイザー』とその挿絵を執筆。
10月、ロンドンに戻り、セント・ジェイムシズ・プレイスに落ち着く。

1895年から1896年にかけて、『ヴィーナスとタンホイザー』の改稿版である『丘の麓で』を
ベルギーのディエップにて執筆するも未完に終わる。

1896年1月、スミザーズとアーサー・シモンズの招きで『サヴォイ』誌創刊に参加、
同誌の美術編集者となる。2月、パリに移転。3月下旬、スミザーズと共にブリュッセルへ行き、
この地で喀血。4月、秋に備えてパリに移転。5月あるいは6月、ビアズリーによるアレグザンダー・ポープ『髪盗み』の挿絵を見てホイッスラーが絶賛、ビアズリーに対するそれまでの自分の評価が間違っていたことを認めて謝罪。これによりホイッスラーと和解する。
 
ポープ『髪盗み』挿絵(1896)
 
1896年6月後半から8月前半にかけて、スミザーズの依頼により、アリストパネスの『女の平和』の挿絵をエプソムのホテル「スプレッド・イーグル」にて制作。7月、遺言状を作成。
同年12月、『サヴォイ』廃刊。
 
健康状態の悪化により経済的に困窮し、借金がかさむ。

1897年以降はカトリック詩人マルク=アンドレ・ラファロヴィチからの一季100ポンドの支援で
露命をつないだ。このころ「僕は今や、かつてのロココ的人間の、惨めな影にしか過ぎない」と
手紙に記す。同年3月31日、彼らの執拗な説得によりカトリックに改宗。
同年末、南仏のマントンに転地。

1898年1月、結核の進行により右手が動かなくなる。1月末以降は寝たきりとなり
詩「象牙の一片」を書く。カトリックの信仰に沈潜し、聖徒伝を読みふける日々が続く。
同年3月16日、結核のためマントンにて死去。
ベン・ジョンソン作『ヴォルポーネ』のために描いた作品(未完)が絶筆となった。

ベン・ジョンソン『ヴォルポーネ』挿絵(1898)

ビアズリーの作品は『女の平和』の挿絵など猥褻なものが多かったが、死の直前には、
スミザーズに宛てた手紙の下書きで、それら全ての猥褻な作品を破棄するよう依頼した。
しかしこの依頼は実行されず、その代わりに彼の作品は多くの画家に影響を与えた。

このような短い人生を送った不幸な天才的挿絵画家であったわけです。

日本語の解説作品集には、 海野弘 解説と監修のオーブリー・ビアズリー があります。



また、ビアズリー怪奇幻想名品集 (ToBi selection)     冨田 章  もあります。

ビアズリー怪奇幻想名品集 (ToBi selection)

彼の最もよく知られているポートレイトです。





これから先は、彼の作品を眺めていきましょう。

The Stomach Dance (胃のダンス)  べリーダンスのことか?



The Dancer's Reward (踊り子の報酬)

Lucian's Strange Creatures (ルキアノスの奇妙な創造物)


The Climax (クライマックス)


Ali Baba (アリババ)  こんなデブだっけ?


Virgilius the Sorcerer (魔法使い ベルギりウス)

The Peacock Skirt (孔雀のスカート)

次は、  Illustrations to Lysistrata  (リシストラタへのイラスト) という連作集です。
孫には見せられん画像がある。 孫は、ジジイが死んでから見るように。










浮世絵の影響が、色濃くありますね。 

以前、 新プリンターの設定  で

「私の画廊」 近日オープン予定

と書いたが、 Web Musium, Paris   や Google Art Project  の紹介で示したように
とてもこれらの Virtual Musium には画質の点でも質の充実ぶりでもかなわないので、
好きな作家を自由気ままに紹介することにした。 
前回の 画家 H. R. ギーガー逝去 も実はそうでした。

なお、 私はブログランキングには全く興味がないので、
他のブログサイトには決してリンクしません。 
(紹介するのみです。) 
宣伝を張り付ける積りも全くありません。 

制限時間になったので、これでおしまい。 ごきげんよう。











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