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2014年10月4日土曜日

呉山堂玉成と燐票コレクション

 


ブログ書きの資料収集のため、インターネットで検索していると、時々個人の実に優れたホームページに出くわす。テーマは、寺院であったり昆虫、歴史その他様々であるが、精力と時間、および、これが一番大切なことだが、熱意をもってページ作成を行っているのがわかる。私は、それらをフリーで楽しませて頂いているのだが、書物の世界(これは相当に深く広い世界である)だけでなく、バーチャルな世界でも深い情報に接することができるのには、驚きを禁じえない。 

そのようなページに行き当たった例を1つ述べたい。

私がブログ書きをやっているのは、何度か書いたが鬱の気散じのためでしかない。立派な目的は持っていない。 日々老々介護(の真似ごと)をやっていると、心身ともに疲れ、暗い精神状態(鬱ですな)になりやすい。 そんな時に、パソコンに向かって、お気楽記事を楽しみながら書いていると、気持ちが救われるのだ。 読んで楽しんでくれる人がいるかもしれん、と思うと結構張り合いがある。 
そんな訳で、今後どうなるかわからんが、暫くはこのブログ書きを続けることにした。 このブログの読者は実に限られており、100人以内と思われるが、その方々に旅行記、美術館や博物館紹介、知られざる色んな芸術家や面白い(と私が思う)事象について、ここが大切だが、画像入りで紹介したいと思う。 インターネットの利点はまさにここにある。文字情報だけでなく、メモリーを大幅に食う画像(動画)までも自由に利用できるのだ。 

と、無意味な自己弁明を述べた後に、今回のテーマである、俳人の呉山堂玉成(ござんどう たまなり)を紹介したい。 いつもの如く、この俳人を知ったのは、 

森 銑三 明治人物閑話 中公文庫



森銑三(1895~1985)
                            

を読んでである。 以前この本に基づいて 成島柳北を紹介した。 彼は、 Wikipedia にも、多くはないが、きちんとした紹介記事が載るほどの人物であるが、やはり興味をもつ方は非常に少ない。      無用の人 成島柳北

呉山堂玉成 については、Wikipedia に掲載されていないのはもとより、インターネット上で関連記事は殆ど見つからない。 成島柳北以上に完全に忘れ去られた人物である。

唯一眼についたのは、早稲田大学の古典籍総合データベースにおける、彼の著書

呉山堂玉成日記   

 タイトル著者/作者出版事項キーワード
(主題)
[呉山堂玉成日記] / 呉山堂玉成 [撰]
ゴザンドウ ギョクセイ ニッキ
gozando gyokusei nikki
呉山堂 玉成
ゴザンドウ, ギョクセイ
gozando, gyokusei 
写(自筆), [書写年不明]
シャ(ジヒツ)
sha(jihitsu)
古典籍 / 伝記-日本人個人伝(被伝者別)

である。読んでみたいが、貸出不可だし


内容等 Notes
書名は国書総目録による
一部朱書
題簽を欠く 虫損あり はり込あり
和装
印記:玉成


なので、とても私の手に負えるものではない。

あとは、本末転倒だが、森 銑三明治人物閑話呉山堂玉成が紹介されている、という記事である。

日本人名大辞典には載っている。 そのデジタル版から引用する。

呉山堂玉成 ござんどう-たまなり
1843-1898 明治時代の俳人。
天保(てんぽう)14年生まれ。江戸京橋の人。小森卓朗らに師事する。のち千住から下谷にうつり,居酒屋をいとなむ。門弟に大野洒竹(しゃちく)がいる。マッチ箱の商標ラベル(燐票(りんぴょう))の収集家としても知られた。明治31年5月19日死去。56歳。本名は安川平左衛門。


 【格言など】 涼しさやぽくり隠るる都鳥(辞世)

とある。 森 銑三の本に準拠して紹介する。 俳諧の世界では、当時はかなり有名な人物で有力な弟子も持っていたようだ。狂歌の門人も多いとされている。

本職は、下谷大音寺前の居酒屋の主人であった。商売に熱心であったかどうかは分からない。本では、店はかみさん任せで、玉成自身は好きな道に耽ることのできるような仕組みにしてあったのかもしれぬと推測している。

俳諧師であった彼は、旅行家であり数十年にわたって、多くの国々(日本の)を巡り、家には、行く先々で得た珍物奇物が山をなしていた。民芸品のコレクターであった訳ですね。彼はそれらを整理して、図や文章で書冊としたのだが、それらは数十巻にも上っていたので、「なにとなお」という書名がつけられていたそうだ。この、「なにとなお」数十巻は、その後どうなったか分からない。検索しても何一つでてこない。

残っていて、記録にあるのは、収集癖のある彼が多年にわたって集めた、マッチのラベルを貼りこみ帖2冊として整理した燐枝譜である。 京都大学文学部の創設者である、歴史学者であった狩野亮吉博士がこの燐枝譜を入手したことが、別の本(三村竹生著「本の話」)にでている。 狩野亮吉は、夏目漱石の友人でもある。 

こちらの趣味がむしろ玉成を有名にし、日本における 燐票コレクター 草分けの一人とされている。

彼は飄逸な人物で、面白い逸話が残されている。 

明治31年の春、関西に遊んだのち、帰京後病に倒れる。胃がんであった。家中は、憂いに閉ざされたが、当人は平静な心を失わなかった。 

春はみな帰りしとこそ思ひしに
がんひとついる夏のはらかな


鳥のガンを、そしておはらと季節の半ばのはらを、掛けているのである。
もうひとつ面白いエピソードがあるのだが、善哉=あんこじる などと、現在ではピンとこないダジャレなので略そう。

変人であった証左として、先の「本の話」でつぎのエピソードが紹介されている。

彼は、

信書を郵便箱に入れて、どうしても先方へ届くのが分からぬ

と不審したという。(郵便配達夫を想像できなかったらしい。)

玉成の写真があるかどうかは、森 銑三の本によると不明とされている。 
森 銑三は、正燈寺にある玉成の墓を訪い、その墓石を撮影したそうだ。 立派な六尺もある自然石の墓で、少しも痛んでいなかったとされる。 

 墓の背面に刻ってある辞世の句である。

 すゞしさや ほくりかくるゝ 都鳥

都鳥がポクリと水面から隠れるように、自分もこの世におさらばしよう


という句です。 年配の方(私含)の気持ちにぴったりとくる良い句ですね。 

 


この明治31年56歳で死去。 
亡くなってから116年経過したわけで、忘れ去られるのも無理はない。
 
それで、私は彼の 燐票コレクション がどのようなものか知りたくなったのである。

燐枝譜で検索しても、探し出せないので、燐票コレクション として新めて検索すると、色々と情報や画像が見つかった。 そして、最終的に行き着いた、燐票に関する深い専門的情報を持つホームページがこれです。

田中マッチの燐寸博物館

管理人はこの方です。 田中マッチの社長です。

燐寸博物館は私のライフワークとして、今後もコツコツと資料を集め取り組んでいきたいと思っています。 このホームページをご覧いただいている皆様からも、いろんな情報や資料がございましたら、是非ご一報いただければ幸いです。
+++ 燐寸博物館管理人 田中憲司

興味のある方は、このホームページをゆっくり見て頂くことにして、玉成が収集した燐票とは、全く異なると思えるのだが、明治時代の燐票を紹介する。 私の興味本位で選んだだけです。



明治41年6月製造「 双龍 」 田中竹次
商標登録番号第34856号
聯合商標 43792号 58744号
商標登録日 明治42年1月11日
商標登録者 姫路市竜野町6丁目21 高島米吉
解 説 この商標は中国向けに輸出された模様。現存するマッチ箱として最も製造年度が古い物です。

燐寸レッテル(ラベル) 

1)家庭用燐寸レッテル

l001
l001

2) 並製燐寸レッテル (これには、大正、昭和の時代も含む。)

 


 






等々です。 


 

勿論全部見ていませんが、並製燐寸レッテル の種類は3000種類以上ありそうです。

また実際に使われたのではなく、明治から大正時代にかけて、自作の嗜好品、芸術品としての燐票が交換、収集された。 という解説がある。

こちらのほうの燐票コレクションは、現在骨董品として売買されている。
古物商 あーとちきち のページから画像を幾つか転載させて頂いた。 


役者絵

  

  

十六羅漢



花の図 (長谷川適所氏追悼)




その他にも沢山ある。 こちらのは、燐票というより小挿絵集という感じですね。

 これで、今回はおしまい。






 

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