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2014年11月12日水曜日

画家 山下菊二

 


趣味の絵画シリーズである。今回は、山下菊二。幻想的な絵画が好きなせいもあって、画家の紹介はどうしてもこちらの方面に偏るのは致し方ない。このシリーズは、絵を見て楽しむのが目的だからね。 

山下菊二は、戦後のシュールリアズム主義の第一人者として知られていた。 Wikipedia で調べてみると、分量は少ないもののちゃんと記事が掲載されていた。

山下 菊二(やました きくじ 1919年10月8日 - 1986年11月23日)

日本の画家。 説明が簡単すぎるではないか!



経歴:

1919年、 徳島県三好市に生まれる。

1937年、 香川県立工芸学校卒業。

1938年、 上京し、福沢一郎の絵画研究所に入る。

1944年~1949年、 東宝映画教育映画部に勤務、この間、応召による戦場体験と1946年から1948年までの東宝争議を体験した。

1949年、 美術文化協会の会員になるが、翌年、退会。以後、多くの会を結成、あるいは参加。
また、日本共産党に入党し、山村工作隊にも参加した。

1952年、 小河内村でのダム反対闘争に参加。以後、松川裁判、安保闘争、狭山裁判などに関与。 

1960年代に新潮文庫の大江健三郎作品の表紙を描いた。

1975年、 筋萎縮症と判断される。

1986年、 死去。


権力や差別、天皇制や庶民意識の問題と向かい合い、渾沌たる現実を超現実主義の方法で戯画化したり、探訪絵画を創案して、事件を紙芝居化するなど、その絵画は、戦後史の証言ともなる重要なものである。

筋萎縮症になっても、コラージュが主になったとはいえ絵を描きつづけた。ここらが偉いところですね。 

彼は、政治的にも活動し、絵画を通して差別や貧困についてのメッセージを発信し続けた。戦時中徴兵され、中国で戦った時の悲惨な行為を戦後深く後悔し、テーマとして描き続けた。

野生の鳥を飼う画家としても知られていた。彼の1964年に書いたエッセイによると、金儲けのためにカナリアを飼い始めたが、何十羽を死なせてしまい無残な失敗をする。ついで、鳥好きのためカラスを飼う。このカラス達、カディウス一家と名付けたカラス達との交渉がこのエッセイのメインでした。その後、カケス、キジバト、ハト、ハヤブサなど野生の鳥をアトリエで飼いつづける。その中でも有名なのは、フクロウで、このような写真が残っている。

山下菊二
   

羽仁進監督の映画 「彼女と彼」 1963年 に出演したこともある。 社会派ドラマで準主役を演じている。

イメージ 1もじゃもじゃ頭の人物です。


監督 羽仁進
脚本 清水邦夫 、 羽仁進

キャスト:
石川直子 左幸子
石川英一 岡田英次
伊古奈 山下菊二

ストーリーは、彼女と彼(1963) を参照してください。

彼は、服装はみすぼらしいが眼は美しく澄んでいたというバタヤ集落の住人を演じている。主人公の石川直子の夫栄一の大学時代の友人という設定。飼っていたカケスと一緒に出演したのだ。

学生のころ、理解できぬものの、見栄で買って読んでいた大江健三郎の小説の文庫版のカバー絵を山下菊二は描いている。 




大江健三郎の小説は、見栄も手伝いかなり沢山読んだ。確かに知識豊富な凄い作家と思ったが、正直私にはちっとも面白くなかった。三島由紀夫は、殆どの小説が面白かったので、感受性の違いだろうね。と、つまらぬ感想を書いてしまった。

彼の代表作に《あけぼの村物語》(1953年)がある。


「芸術新潮」の解説によれば、
 無類の鳥好きでもあった山下菊二は、戦争や差別、社会の歪みを、時に直接的に、時に間接的に描き、告発し続けた画家だった。その代表作《あけぼの村物語》は山梨県曙村で実際に起きた事件に取材したものである。非人道的な山林地主に対して立ち上がった労働者の一人が、地主に頭を棒で殴られ、村の消防団に追われた末に川で溺死。この事件の公判中に現地を訪ねた山下は、土着的なシュールレアリスムとでも言うべき手法により、悲惨な現実をグロテスクと諧謔をあわせ持つ寓話的作品に描き出した。
彼に関する著作として、

くずれる沼 -画家・山下菊二の世界』すばる書房、1979年

がある。



これは、つぎのドキュメンタリー映画の書籍版である。
 
 
くずれる沼 ―画家 山下菊二―
ドキュメンタリー映画 1976年 / 45分
モノクローム
制作・構成・編集: 野田 眞吉
撮影: 長谷川 元吉 / 亘 眞幸
画家 山下菊二の自己解放―人間的自由の奪還の記録














少年のような純粋な、自由の魂をそのまま持って大人になったといえる画家、山下菊二の生活と意見、
その受難と反抗の人間記録。
「山下さんの画歴は、自分の中に居座りつづける沼の妖怪たちの正体を見とどけ、そのまやかしの衣装を剥ぎとり、
退治する、勇気のある探検行の過程のように思います。それは妖怪に占拠されている「沼」の崩壊であり、沼の解散であり、彼自身の解放に導く作業です。いいかえるならそれは人間本然の姿の自由な顕現をもたらすものと言えます。(野田 眞吉)」
 
もう一冊、画集が出版されている。
 
山下菊二画集 1919-1986』  美術出版社 1988

 彼の作品の詳細なリストは、徳島県立近代美術館のホームページにある。
 
ここでは、過去2回山下菊二に関する特別展が開催されている。

山下菊二展  1996年4月13日(土)~1996年5月26日(日)

美術の国徳島II 谷口董美、山下菊二兄弟 故郷のイメージを描く
2009年9月5日(土)~2009年10月12日(月)

そこでの、解説記事は読みごたえがある。 Wikiよりずっと丁寧である。 重複する箇所もあるが、1996年の山下菊二展から引用する。
 
 山下菊二
1919(大正8)-1986(昭和61)年

山下は1919年、徳島県三好市井川町生まれ。
戦争に行って、虐殺とかその悲惨な情景を目にし、彼はシュールレアリスムの世界に入っていく。
彼の生涯と通して、その戦争体験が影響を及ぼしているのではないだろうか。
 
 
山下は木版画に熱中する谷口を見て育ち、美術に関心を深めていきました。高等小学校を卒業すると、兄のすすめで香川県立工芸学校に進学しました。普通の旧制中学校ではなく、「少しでも絵の描ける学校」をという選択でした。工芸学校を卒業してしばらくすると、上京して本格的に絵を学び始めましたが、このときも兄が反対する両親を説き伏せる役まわりを演じました。
 山下が戦争や差別など社会的な問題に関心を持つようになったきっかけは、自らの戦争体験にありました。1939(昭和14)年に徴兵された山下は中国南部の戦線に送られ、そこで日本軍の残虐行為を目撃し、自らも荷担することを強いられたのです。戦場で上官の命令は絶対でした。山下に逆らうことができるはずもありませんでした。しかし戦後になって、わずかながら懲罰を覚悟で命令を拒絶した日本兵がいたことを知り、なぜ自分にはそれができなかったのかと強い自責の念を抱きました。
 
山下菊二 シリーズ 戦争と人間 №12  山下の思索は、やがて戦争を生み出した社会のあり方や、そこに暮らす人々の意識にも向かっていきました。山下の理解では、人々を戦争という極限状態に追いやった背景には、因習や迷信などに秩序立てられた日本社会の前近代的な性格があり、自分もその中にとらわれていた、それが残虐行為を目撃しながら「傍観者」の立場から踏み出せなかった理由だと考えたようです。そして差別や従軍慰安婦などの問題も、この社会のあり方が生み出したと考えるに至ったのです。
 戦後の山下は、前衛美術展やニッポン展、从(ひとひと)展などさまざまな展覧会を通じて、この問題を問い続けました。戦後日本美術を紹介する海外の展覧会では、戦後日本を代表する美術家の一人として、必ずといっていいほど山下が取り上げられます。 
 
2009年の兄弟特別展より引用。

 山下菊二は、谷口董美の10歳年下の弟です。香川県立工芸学校金属工芸科を経て、1938年9月には上京して福沢一郎絵画研究所に学びました。進学や上京など、山下の人生の節目、節目で谷口の助言や配慮があったといいます。1939年から3年間は、台湾、中国で兵役に服しました。中国南部の戦線では、筆舌に尽くしがたい残虐行為を目撃し、自らも荷担することを強いられたといいます。戦後はこの体験を問いつめ、やがて戦争の問題だけでなく、1963年に発生した狭山事件における石川被告の問題や、1971年に起こった韓国軍事政権による徐兄弟の逮捕投獄事件など、人権にかかわるさまざまな社会的、政治的問題を訴える作品を制作しました。戦後日本の前衛美術を代表する作家と目され、同時に作品は日本の戦後史の貴重な証言と評されています。
 

山下菊二
父はは
1972年 油彩 キャンバス
徳島県立近代美術館蔵

太平洋戦争中は中国戦線に動員されて過酷な状況を生きました。戦後は自らの戦争体験を背景に、社会や政治をテーマにした作品を発表。1970年代半ばから戦争と狭山事件をテーマにしたコラージュによる作品を制作しました。山下は生涯描くことで社会に問いかけ、戦い続けた画家です。けれども、社会の現実に向ける山下のまなざしは、厳しくも時にウィットやユーモアを交えた温かみがあります。
 

山下菊二
戦争と人間 No.12
1982年 コラージュ
徳島県立近代美術館蔵
 
兄の谷口董美は、1961年に死去するのだが、そこには、1969年に開催された弔い展の記事もある。

弔い展: 
 1969(昭和44)年11月、山下は東京の日本画廊で、5年前に亡くなった谷口の遺作と、自作を並べた二人展「弔い展」を開きました。病床を見舞った山下に、谷口は山下と東京で展覧会を開きたかったと語ったといいます。気にかかっていたこの言葉を実現したのが、この展覧会でした。  会場には二人の作品だけでなく、谷口の素描を使って山下が作ったコラージュ<取りに来られなかった肖像画>の連作も並べられました。戦争中、谷口は近隣の人の依頼を受けて、戦没兵士や亡くなった老人の肖像画を描きましたが、依頼主も空襲で亡くなり、何枚かは引き取り手のないまま谷口の手元に残ってしまいました。タイトルの「取りに来られなかった」とはそういう意味です。息子を戦地で失い、残された家族も空襲で亡くなった、二重三重に庶民の生活に襲いかかった戦争の惨劇を訴える作品です。

  「弔い展」とは亡くなった兄を弔い、戦争で亡くなった人々を弔い、さらには戦争そのものをこの世から弔いたいという思いを込めた展覧会でした。
 

 

谷口董美・山下菊二(合作)
取りに来られなかった肖像画C
1969年 コンテ、ガッシュ、コラージュ
徳島県立近代美術館蔵

コピペしながら読んでいたので、ついつい引用文が長くなってしまった。 というより、引用だらけではないか!

ここからは、彼の作品群を紹介する。 例によってタイトル、制作年は省略。 
著作権の侵害を考慮して、大丈夫そうな画像のみアップする。

なお、画像はないが、彼の作品の詳細なリストは、徳島県立近代美術館のホームページにある。


 

(一部)


 
(一部)


 
 

後期は、コラージュ作品が多くなる。やはり筋萎縮症の影響であろう。


 


 
今回の山下菊二編は、これでおしまい。 ごきげんよう。
 
 
 
 
 
 

 

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