あれからもう20年たった。 定年退職者となって、この震災を経験者として幾つかの記録を残しておくのも意味があるかもしれないと考え直している。今回震災のことをブログに書こうと思った所以である。
平成7年1月17日午前5時46分、震度7.3の大地震が阪神淡路地区を襲った。
神戸市の六甲台に住んでいた私たちは、その朝ドスンドスンという上下の大きな揺れに眼を覚ました。その時に食器棚が倒れた音を聞いたように思う。リビングには、ガラス食器の割れた破片が散乱し、本棚も倒れ本が散らばっている。ぐちゃぐちゃの凄まじい状態になっている。
子供達(3人の息子)が、怪我をしないように慌ててガラス破片を片付けた。お蔭で誰も怪我をすることはなかった。
両親や親戚の安否が気になり電話をしたが、殆ど通じない。公衆電話で安否がわかったのは、翌日だったと記憶している。それからは、目まぐるしく地震後の対処に追われた。神戸大学の体育館への避難、食料や飲料水の確保、その他生きるための諸々の作業である。
トイレの水が使えないのには困った。六甲川の水を汲み上げて、洗いもの用に使ってましたね。飲料水はペットボトル。ガスが使えないので、何ひとつ料理はできない。幸いな事に、電気はすぐに通じたが、水道とガスは1ヶ月くらい使えなかった。カップヌードルとかレトルトの食品ばかりで、肝心のご飯が炊けないのだ。
それで、いつだったか忘れたが、1日掛かりで、自転車で神戸から尼崎に住んでいた妹の所まで電気釜を受け取りにいった。その時に道路が蛇のように曲がり、そこかしこで水道菅の破裂により水がふき出している。崩れ落ちた民家や、傾いたビルがつづいている。そこで片づけの作業をしている防寒服を着た多数の人たち。消火活動は殆ど役に立たなかったようで、至る所で燃え残りの材木が積み重なり放置されている。・・・・ 生まれて初めてみた、今だに忘れられない地獄絵です。
今も思い出すのは、六甲台の丘から見た、神戸市内のあちこちで煙を出して燃えている家、JR六甲道の道路上に崩れ落ちた陸橋。まさに未曾有の大災害でした。 その後、17年たってもっと大きな東日本大震災が起るとは夢にも思わなかったが・・・。
震災の光景は、実をいうと余り思い出したくない。幸い親戚一同無事でしたが、被災され肉親を亡くされた方のことを思うと心がいたむ。 被災された方は皆そうかもしれぬが、私も出来るだけ震災のことは考えないようにして生活してきた。子供は小さいし、壮年期で仕事が大変であったという事もある。
大学職員としての務めもあった。これには、付随したいやな思い出が多いので余り書きたくない。が、1つ例をあげる。自宅の付近におられた老人に持っていってあげようと、多めに救援物資を受け取ったところ、大学の事務職員に叱責された事など。まあ、感情の行き違いが多いんだけどね。
近所の方々とは水汲みとか後片づけなど、仲良く分担協力していました。
嬉しかったこともある。 当時私のDr学生であったHa君(前々回に紹介したHa先生)の家族は、唐櫃台に住んでおり、車で我々を自宅まで迎えに来てくれて、有馬温泉まで連れていってくれたのだ。1月ぶりにお風呂に入れて、とても有難かった。当時私のところに留学していた、韓国東亜大学のKwun先生は、神戸大の宿舎から1日がかりで歩いて大阪まで行き、無事に帰国された。大変なご苦労であったと後で伺った。心配していただけに、ほっとしたのを記憶している。
余震はしばしば起り、避難所にいても怖くてたまらない。体がお腹のほうから震えだしてきて止まらない。このとき始めて自分が、こわがりだと認識した。
当時は、写真を撮る余裕なんかは全くない。それで、手元にある、その年3月に発行された震災の記録写真集から震災時の様子をアップする。 殆どが私自身この目で見た光景です。
神戸港沖合上空からの写真。 黒煙をあげて神戸の街が燃え上がる。
JR新長田駅付近での火災。六甲道周辺の民家でも同じ光景が見られた。
1㎞もの長さにわたって横倒しになった阪神高速。
阪神電車 大石ー新在家間。 阪神電車の被害は甚大だった。
長田区にて。 私が2国沿いに見たのは、このような光景でした。
神戸市内の土台から倒壊したビル。
長田区での光景。ビルが倒壊し、押しつぶされた車。倒壊した商店街。アーケードは横倒し。
三の宮繁華街の通りに崩れ落ちたビル。甚大なるヒビが入り、今だに営業されていないホテルもある。
西宮の小学校の体育館。 我々も、神戸大の体育館にマットと布団を持ち込んで避難していました。 頑丈な施設だが、ときに余震で揺れるのがたまらなく怖かった。沢山の方が避難しておられ、話を聞いたりして気持ちは高ぶり、もちろん寝られない。 ワイフは疲労困憊で、崖の横に立っている自宅にもどり、ようやく睡眠をとることができた。 私は倒壊がこわいので、自宅には戻らず子供と一緒に体育館にいたのを覚えている。 女性は、精神的には図太いものだなと再認識した次第。
メリケン波止場周辺での被災状況。波止場から海を眺める遊歩道が崩れ落ちてしまっている。
大惨事でした。現在も人々はこの惨事から完全に立ち直っているとは言えぬ。それは、このところ続いている震災関係のニュースからも明らかだ。20年たっても、遺族の心に爪痕は残っていて、それを癒すすべはない。
こんな川柳がある。 今朝のNHKニュースで取り上げられていた。
20年たって私になったかなしみ
震災で亡くなった友人の書き残した童話をもとにして、創作童話の本を何冊も出版した童話作家の川柳です。ボランティアで、幼稚園などでその童話の読み聞かせを毎年しているそうである。
この20年を記憶に残すべく
写真展 KOBE*HEART vol.6 〜生きてきた20年〜
が新開地で開かれているのを知り、行ってみた。 KOBE*HEARTのホームページ
その案内ページより。
写真展 KOBE*HEART vol.6 〜生きてきた20年〜 開催のご案内
■開催日
2015年1月10日(土)〜18日(日)
開催時間/10 : 00 ~19 : 00 ※1月10日(土)は17時まで ※1月13日(火)は休館
■場所
神戸アートビレッジセンター1F KAVCギャラリー
〒652-0811 兵庫県神戸市兵庫区新開地5-3-14 TEL 078-512-5500
神戸アートビレッジセンターは、このビルである。
1階ギャラリーの入り口にある、KOBE*HEARTの案内写真板。
3年前東北で震災に遭われた方々の、笑顔の写真
この写真展のポスター。
写真展における展示写真。その一部です。ピックアップして写してみた。係の方の許可は得ています。震災と直には関係のない写真が多く、一般の方にも充分楽しめる。全ての写真家の名称は、ポスターに記載されてあります。
この写真展のスポンサーの1つである、雑誌 あまから手帖 の3月号紹介。神戸特集みたいだね。
これが、東北の笑顔 写真集。
なかには、このような笑顔の写真がいっぱいある。未来に向けての笑顔。
これから、昨日撮ってきた写真を基にして、震災の跡を訪ねる2時間の旅にでよう。
阪急三宮の駅から、花と彫刻の道 フラワーロード
を通って東遊園地に向かう。
ここには阪神大震災の慰霊の灯火である「1.17希望の灯り」が設置されている。
この灯りは 奪われた すべての命を
生き残った わたしたちのおもいを むすびつなぐ
その隣には、説明台が置かれている。
碑文には、NPOの「がんばろう!!神戸」を結成した俳優の堀内正美の英文が載せられている。写真を拡大すれば、全文読めます。
2005年の写真。
震災から学び生命の尊さと人の絆の大切さ
を訴えています。
「慰霊と復興のモニュメント」です。この噴水の地下に
阪神・淡路大震災の犠牲者の名前を刻んだプレートが収蔵されている。
死者 6434名 行方不明者 3名
負傷者 43,792名
家屋全壊 104,906棟 半壊 144,274棟
避難人数 316,678名
とある。
肉親の方なのでしょう。千羽鶴が飾られていました。
神戸大でも、顔を知っている事務職員が自宅で亡くなりました。
ここで、暫し慰霊のお祈りをさせて頂きました。
東遊園地から海岸線に沿って、神戸メリケンパークに向かう。徒歩で20分くらいの距離である。
「震災メモリアルパーク」がここである。神戸港の被害状況をそのまま保存している。
パークには、被災写真が何枚も展示されている。
これが、慰霊の塔に相当する。
亡くなられた方の霊が安らかでありますよう、また残された方々の心も安らかでありますよう、お祈りいたします。
今回は、フラワーロードに飾られた花でおわりたい。
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