以前記事にした、モラヴィアの画家 アルフォンス・ミュシャ は、この堺市立文化館のアルフォンス・ミュシャ館の参観を基にして書いた。
与謝野晶子文藝館は、同じ場所にある。実際ここは、独立した建物ではなく、ベルマージュ堺弐番館というマンションの2階~4階の部分を占用した文化館になっている。
以前書いたと思うが、拝観料は500円だが65歳以上は無料である。よって、私は無料。
堺市立文化館は、ここである。
入り口にこのような掲示板がある。
与謝野晶子文藝館の今回のテーマは、
与謝野晶子と画家たち
である。
ここで、与謝野晶子の身上調査 by Wikipedia。知っているようで、余り知らない。子供が12人もいたとは、知らなかったのだ。
与謝野 晶子 | |
---|---|
与謝野晶子
| |
誕生 | 鳳志よう 1878年12月7日 日本・堺県和泉国第一大区 |
死没 | 1942年5月29日(満63歳没) 日本・東京府 |
職業 | 歌人、作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 堺市立堺女学校技芸科 |
ジャンル | 短歌 |
主題 | 恋愛感情・反戦思想 |
文学活動 | ロマン主義 |
代表作 | 『みだれ髪』(1901年) 『君死にたまふことなかれ』(1904年) |
配偶者 | 与謝野鉄幹(1901年 - 1935年) |
子供 | 12人 与謝野秀(次男) |
親族 | 鳳秀太郎(兄) 与謝野馨(孫) 与謝野達(孫) 与謝野文子(孫) 鳳壽三郎(弟) |
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年12月7日 - 1942年5月29日)
日本の歌人、作家、思想家。
本名与謝野 志よう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
文化人切手にも取り上げられていますね。 彼女の経歴を書く。Wikiよりの要約。
・鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。
・9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、『めざまし草』、『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を読む。
・20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。
・翌年家を出て東京に移り、処女歌集『みだれ髪』を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。
・1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり
君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん
ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ
・同年5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。
・1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。
・子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。
・多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
・1942年(昭和17年)、死去。墓は多磨霊園にある。
という偉大な女性歌人です。
雑誌「明星」で活躍したわけですが、その表紙絵が展示されていた。今見てもモダンですね。
雑誌の装飾資料として、ミュシャのジスモンダなどが収集されていた。
その他には、彼女の直筆資料や出版物が展示されていた。写真撮影は禁止なので、ここでは紹介できない。別の所から探し出して来た資料をアップする。なによりも驚いたのは、晶子の書の美しさです。
自筆原稿も残っている。
与謝野晶子自筆原稿『蜻蛉日記』冒頭【堺市蔵】
また、晶子をはじめとする文学者の活動を支援した小林天眠(本名 政治)のコーナーもありました。
小林天眠(1877‐1956)は文学、実業の両面で活躍した人物。天眠が立ち上げにたずさわった浪華青年文学会の堺支部に与謝野晶子は入会しており、その後、二人の交流は生涯にわたった。また、天眠は柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)や、堺出身の文学者・河井酔茗(かわいすいめい)らとも交流があり、その交流からは多くの作品が生み出された。
これで、与謝野晶子文藝館の見学記はおしまい。
0 件のコメント:
コメントを投稿