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2015年3月2日月曜日

伊藤若冲の鶏絵

伊藤若冲は、近年非常に人気の高まった江戸時代の絵師である。2000年没後200年を記念した展覧会が開催され、爆発的ブームが起こった。 



その時以来、日本各地で展覧会が開かれている。そのポスターを挙げたいが、その前にWikipediaによるお勉強。

伊藤若冲




伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう) 
 正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))

近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白長沢芦雪と並び称せられる。

その生涯を箇条書きで要約する。

 正徳6年(1716年)京錦小路の青物問屋の長男として生まれる。

22歳で父が没し家業を継ぐ。

30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めた。当時の画壇の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と考え、画塾を辞めると独学で腕を磨く。

・彼は模写の為、京の様々な寺へ足を運ぶ。寺院通いを続けるうち、若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、自ら「平安錦街居士」と称するようになった。ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、2年間も音信が途絶えてしまう。



39歳で弟に家督を譲って隠居する。弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念する。 
(ゴッホとテオみたいですね。)

・千枚とも言われる模写の日々を経て、若冲42歳頃から、代表作となる濃彩花鳥画『動植綵絵(さいえ)』シリーズに着手する。完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となり、日本美術史における花鳥画の最高傑作となった。

若冲は一匹狼の画家で朝廷や政権にコネも何もなかったが、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど高名な画家となった。

72歳になった若冲を突然不運が襲う。「天明の大火」により、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになった。

74歳から最後の10年間は、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲した。

76歳にずっと彼を援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。しかし、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。

・最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練る。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て10年弱で完成した。




84歳の長寿で大往生する。生涯独身だった。

以上、Wiki 伊藤若冲 および 伊藤若冲の生涯 を参照した。

町年寄若冲の活躍については、Wikiの記事を見てください。いずれにせよ、

   多彩な技法で花鳥風月を描き、絹着色画・水墨画・仏画・版画や有名な升目描き屏風絵など素晴らしい作品が残る。

という事です。その作品の全貌は、上記のページから当たられたい。

さて、展覧会のポスターの幾つかをアップする。

 

 

 







ポスターにあるように、の絵が多い。彼はが非常に好きで、「動植綵絵」シリーズ全30幅のうち、実に8点が鶏の絵である。

今回の目的は、その絵画を見ていくことである。以下、『動植綵絵(さいえ)』より抜粋。




その部分拡大。

 

 
その部分拡大。 
 

その部分拡大。





構図は似ているが、別の絵の部分拡大。


これがタイル画風の 鳥獣花木図屏風』 である。 面白い発想ですね。


襖絵。



おまけだが、神社における神使としてのの画像を挙げる。 天理市探訪 II 石上神社 も参照。
若冲の絵と比較してほしい。実物も艶やかだが、彼の絵はそれ以上に勇猛で美しい。







(後注: 若冲の画業の優れた紹介動画がある。是非ご覧ください。


伊藤若冲/ito jakuchu Return to JPN

今回はこれでおしまい。 伊藤若冲の他の作品については、別の機会に紹介する予定。

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