映画にもなっています。 映画「フリーダ」公式ホームページ 2002年の作品です。フリーダ・カーロ を演じるのは、サルマ・ハエックです。 ペネロペ・クルスではない。
こちらがサルマ・ハエックです。
実は、グラマー。
こちらが、ペネロペ・クルス。 まづ、Wikipedia による説明を引用する。 フリーダ・カーロ | |
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1932年撮影。
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生誕 | Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón 1907年7月6日 メキシコ・コヨアカン |
死没 | 1954年7月13日(47歳) メキシコ・コヨアカン |
国籍 | メキシコ |
著名な実績 | 絵画 |
マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン
(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón) (1907年7月6日 - 1954年7月13日)
メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。 メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる。
つぎのように言える。
身体に辛い苦痛を抱え続けながらも、様々な魅力的な人物を惹きつけ続け、革命以降のメキシコを、実にドラマティックに生きた女性画家。
Wikipediaには、相当詳しく彼女の生涯が描かれている。ここではその記事に基づき、その生涯を適宜要約してみる。 今回は長い引用です。
幼年期
フリーダは1907年7月6日、メキシコシティの近郊にあるコヨアカンで父ギリェルモ・カーロと母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンサレスの三女として生まれた。
1904年に両親が建てたフリーダの生家である「青い家」は現在はフリーダ・カーロ記念館として公開されている。
幼年期を過ごし、終の棲家となった「青い家」。
6歳になった頃に急性灰白髄炎にかかり、およそ9ヶ月にわたって寝たきりの生活を送った。 この影響で右腿から踝にかけて成長が止まって痩せ細り、これを隠すためにズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。
1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業すると、ソカロにあるメキシコの最高教育機関とされる国立予科高等学校へ進学した。 女性として国立予科高等学校に入学したのはフリーダを含めてこの年に入学した35人が初めてであった。 フリーダはカチュチャスと呼ばれるグループに入り、国民社会主義的考えに傾倒し、文学に熱中した。
フリーダは1925年頃まで父親の友人にスケッチを習っており、いくつかの習作が残されている。
こうした経験から絵画に対する関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。
また、フリーダは活動を通じてカチュチャスのリーダーであったアレハンドロと恋仲になり、将来について互いに語り合うようになっていた。
画家を目指す
1925年9月17日、通学に使用していたバスが路面電車と衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生した。 フリーダも生死の境をさまよう重傷で、3ヶ月の間ベッドの上での生活を余儀なくされ、その後も事故の後遺症で背中や右足の痛みにたびたび悩まされるようになった。
当時の状況は、つぎのようであったとされる。
フリーダの背骨・肋骨・骨盤・鎖骨は砕け、右足は潰れ、
鉄棒で臀部から膣を貫通された状態で発見される。
痛みと病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになったという。 フリーダの事故により、アレハンドロとの仲は自然消滅のように破綻した。1926年から1928年の間にフリーダは十数枚の作品を制作しているが、最初の自画像はアレハンドロに送られている。
フリーダは体の痛みと死の恐怖に苦しむが、手術は成功し一命をとりとめる。故から3ヶ月ほどで自力で歩ける程度には回復したが、後遺症は残り、ずたずたにされた下腹部への恐怖がフリーダを苦しめる。
自分はもう子供は産めない体なのか、誰に聞くこともできなかった。そして事故から1年後に、また病状がぶり返し、動けなくなってしまう。
以後、30数回の手術と、28個のコルセットによって、フリーダは絶えず背中と右足の痛みに苛まれることになる。
通常の生活が送れる程度に回復した1928年、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党する。
そこで写真家ティナ・モドッティの紹介で画家ディエゴ・リベラと出会う。 リベラの絵に感嘆したフリーダは闘病時代に描いた自分の作品を見せ、リベラに意見を求めた。 リベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語っており、フリーダの感性に大きな感銘を受けた。
ディエゴ・リベラは、著名な画家であったが漁色家としても有名であった。
これを契機に二人の仲は急速に接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚した。
年の差やリベラの外見上の印象から、フリーダの両親からはあまり祝福されなかった。
二人は最初メキシコシティ中心部にあるアパートを借りて住んでいたが、リベラにコルテス宮殿の壁画作成の仕事が入ったため、同年にクエルナバカ市へと移っている。
翌年11月、リベラに今度はカリフォルニア美術学校から壁画作成の依頼があり、サンフランシスコへと居を移した。 その後も仕事の都合でニューヨーク、デトロイトなどを転々とした。 リベラのこうした無節操な仕事の選び方はメキシコ共産党の反感を買い、1929年に党員資格を剥奪された。 この時、フリーダもあわせて離党手続きを行っている。
1930年にフリーダは妊娠したが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産となった。 1932年、1934年にも流産している。 これら出来事は彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることとなった。
1933年12月、メキシコに戻った二人は、知人に頼んでメキシコシティの南郊外サン・アンヘルに家を建てて貰い、そこに落ち着くこととなった。
絶望と成功
1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキシコシティ中心街に居を移した。
同年の終わりごろにはサン・アンヘルの家に戻ったが、フリーダはリベラへのあてつけのようにアメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持った。
1940年代のイサム・ノグチ
1936年7月にスペインで内戦が勃発するとフリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになった。
1938年にフリーダにとって最初となる大規模な個展を海外で催すこととなった。 大成功であった。
1939年、映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの絵を大量に購入したことを契機としてアメリカへ旅立つ機会が増えていった。 フリーダの成功はアメリカでも驚きを持って報道され、多方面の著名人から絵の注文が舞い込むようになった。
フリーダはアンドレ・ブルトンが企画した「メキシコ展」を支援するため、1939年にパリへと旅立った。
展覧会は経済的成功に至らず、その後に予定していたロンドンでの展覧会は中止になった。 しかしながらフリーダの作品は好意的に評価され、ルーブル美術館は展示された『ザ・フレーム』を買い上げている。
フリーダの成功と精力的な活動によって次第に夫婦間の熱は冷めていき、1939年11月6日リベラとの離婚が成立、フリーダは生家である「青い家」へと戻った。
孤独を忘れさせようとフリーダは作品制作に没頭し、経済的にも自立しようと努めた。 1940年9月、再び脊椎の痛みに悩まされ始め、加えて右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、作品制作が続けられなくなり、治療のためサンフランシスコへと向かった。
医師の指導のもと治療を続け、健康状態が安定した頃、フリーダはリベラへ再婚の提案を行った。 経済的に自立させること、性的関係は結ばないことなどフリーダが提示したいくつかの条件を飲み、リベラは提案に合意し、二人は2度目の結婚をした。
1940年代に入ると、メキシコ内においてもフリーダの名は知られるようになり、様々な賞を受賞し、複数の委員会委員に選出され、講師の委嘱や雑誌の寄稿などを求められるようになった。
1942年には文部省が支援したメキシコ文化センターの会員に選出され、メキシコ文化の振興と普及を目的とした展示会の企画や講演、出版物の発行などに広く携わった。
また同年、文部省の管轄下にあった絵画と造形の専門学校「ラ・エスメラルダ」の教員にも選ばれ、週12時間の授業を受け持つことになった。
フリーダの型破りな講義は好評を博したが、数ヵ月後には健康上の問題から学校へ通うことが困難となり、自宅での講義に切り替わった。
フリーダは受講していた生徒たちの中から才能ある若人を得、油絵の指導や作品展示機会の獲得に尽力した。
晩年
作品制作が再開できるようになるのは1950年11月ごろに入ってからで、ベットの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作できるよう整備した。
1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も難しくなった。
1953年8月には右足の痛みが鎮痛剤では耐えられないほどになったため、主治医は膝までの切断を取り決めた。 以後フリーダは義足を使用することにより歩くことができるようになったが、リベラが「彼女は生きる気力を失った」と語っているように、ふさぎこむ事が多くなった。
1954年2月の日記にフリーダは次のように綴っている。
「6ヶ月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐えがたい苦痛に見舞われて、私は時々正気を失った。
いまだに自殺したくなる時がある。
ディエゴだけがそんな私を思いとどまらせてくれる。
なぜなら、私がいなくなれば、彼がさびしがるだろうと思うから。」
しかし、同年の7月13日、フリーダは肺炎を併発して死去した。
書き写したり、編集しながら思わず涙が出そうになりました。
彼女の絵画を観ていこう。以下全ての画像は、FridaKahlo.com より取得。
Self-Portrait
1926
Oil on canvas
31 x 23 in
Private collection, Mexico City
Henry Ford Hospital 1932 Oil on metal 12 1/4 x 15 1/2 in Collection Dolores Olmedo Foundation, Mexico City A Few Small Nips 1935 Oil on metal 15 x 19 in Collection of Dolores Olmedo Foundation, Mexico City
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2018年7月28日にフリーダカーロの映画をビデオで見たが感動的でした。フリーダの激しく自由に生きようとした姿をよく描いていました。細部はすっかり忘れていたが、夫のディエゴ・リベラはやはり人間的にも魅力的な画家ですね。
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