私の贔屓の落語家で、学生や新米社会人の頃は、独演会をよく聞きにいきました。演芸亭だけでなく、米朝はホール落語をやっており、芦屋のルナホールで定期的に独演会(といっても一門会)を開いていました。必ず聞きに行ったものです。
師匠は、尼崎の武庫之荘に住んでおり、若い私にとってはお近くの落語家という感じでした。落語のCDも全巻ではないが殆ど持っている。
これは、桂米朝 上方落語大全集(各10枚組全4期分)です。買い直しました。
以前は、特選!!米朝落語全集というのを1枚ずつ揃えていました。
米朝珍品集も買い進めていましたね。
著書も数冊持っていたが、現在この2冊が手元にある。
米朝上方落語選、続米朝上方落語選 立風書房
昔は、カセットテープで何度も繰り返して聞きました。地獄八景亡者の戯れ、天狗さばき、百年目、たちぎれ線香、住吉駕篭、三枚起請、鴻池の犬、はてなの茶碗などは、何度聞いたかわからぬほどでした。当時40代後半であった米朝の声には、色気がありました。演じる女性の喋りは、楚々として、ときには婀娜っぽくて堪りません。また酔いたんぽのセリフ回しには、滑稽さを通りすぎて凄みさえありました。端正な話ぶりの中にも、底の深さを感じさせる落語家でした。
時代の推移で、テープからCDになってからは、音質も良くなり、成長した息子達も米朝の大ファンになりました。どの話も面白いものね。
私は、40代からは余り米朝落語を聞かなくなった。たまに米朝を聞くと、面白いのだが師匠は60半ばを超えていたこともあって、声に色艶を感じられなくなった。それで、魅力が減じてしまい、聞くとなると弟子の桂枝雀でした。これは猛烈に面白い。枝雀のキャラもあるが、笑いが突きつめられている。
その弟弟子の桂吉兆もまた上手い落語家でした。この人は、劇団リリパットアーミーに役者として参加していたりして、やはり桁のはずれたところがあり、米朝風の端正な話術でありながら面白かったですね。やはり声に色気がありました。
Wikipediaには、米朝の生涯がこのように書かれている。
さんだいめ かつらべいちょう 三代目 桂米朝 | |
1947年から1950年ごろ撮影。向かって右の人物が米朝。左は3代目桂春団治(撮影当時は2代目桂小春)。 | |
本名 | 中川 清 |
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別名 | 俳号:八十八(やそはち) |
生年月日 | 1925年11月6日 |
没年月日 | 2015年3月19日(満89歳没) |
出生地 | 関東州大連普蘭店 (現:中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店市) |
師匠 | 4代目桂米團治 |
弟子 | 「米朝一門」を参照 |
名跡 | 3代目桂米朝 (1947年-現在) |
活動期間 | 1947年 - 2015年 |
活動内容 | 1947年:四代目桂米團治に入門、 三代目桂米朝を名乗る 1974年:米朝事務所設立 1987年:紫綬褒章受章 1996年:人間国宝認定 2002年:文化功労者顕彰 2009年:文化勲章受章 |
配偶者 | 中川絹子(1958年結婚・2014年死別) |
家族 | 五代目桂米團治(長男) |
公式サイト | 米朝事務所 |
主な作品 | |
『地獄八景亡者戯』 『百年目』 『菊江仏壇』 『一文笛』 |
経歴を簡単にのべる。
・桂米朝、本名、中川清は、大正14年に現在の中国東北部の大連生まれ。
・大東文化学院に入学し、在学中に落語評論家の正岡容に入門する。評論家でなく、落語家として立とうと、21歳のとき四代目の桂米團治に弟子入りする。
・上演されなくなっていた古典落語の演目を復活させ、上方落語の復興に力を注いだ。
・故・桂枝雀など、落語界をリードする多くの弟子を育てたほか、上方の文化を伝える著作などを発表した。
新聞からの切り抜きですが、米朝一門総勢70名のリストです。
・こうした功績から、平成8年、落語界では2人目となる国の重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定された。
・平成21年には、古典落語の分野で初めて文化勲章を受章した。
優秀な弟子であった桂枝雀と桂吉兆は2人とも若くして師匠よりも先に亡くなってしまった。
米朝師匠の嘆きは深かったであろう。
昨年には、奥様の絹子さんも亡くなった。
大活躍の人生であり、誰も真似のできぬ業績を残した落語界の極めつけのスターであった。
功成り名遂げた大往生ではあるが、反面淋しかったであろうという印象はぬぐえない。
思い起こすと、常に鬱屈していた20代後半から30代半ばまで、師匠の落語により精神的にどれだけ救われてきたか。話に艶が無くなったなどと文句などいわず、感謝すれば良かったのである。
師匠おつかれさまでした。どうかゆっくりとおやすみください。
合掌
吉兆・・・吉朝。百日の説法も屁一つ。
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