ほおずき
驟雨が過ぎ去った草むらに、ほおずきの赤い実を発見した時の驚きを、昔の人は鬼灯と書いて表現した。
江口夏実(えぐちなつみ)作の漫画 『鬼灯の冷徹』の主人公 鬼灯です。文字通り鬼ですね。しかし、心には灯もある。 アニメにもなっている。 TVアニメ『鬼灯の冷徹』公式サイト
時代設定といい、このキャラにぴったりの言葉ですね。
・・・ 人間の美しさとは、内部に持っている二律背反を、通念やあきらめや惰性によってないまぜにせず、あくまでそれを矛盾として認めつつ、主体における統一を追求してやまない場合に生まれる緊張を指すのであろう。
年老いた鬼
耳の痛い言葉であるが、抽象的に書きすぎと思える。主体における統一なんて土台無理だし、多くの人間にとって、惰性によってないまぜにするしか他ないんでないの。従って、人間の美しさなんてのは、殆ど生まれないのである。若くてもそうだし、年取れば一層そうである。老人は大抵美しくないのである。
花火
闇に菊の大輪が開いてたちまち消える。
花火については、この記事を見て頂ければうれしい。 Fireworks 花火
どこの国の歴史を見ても、体制が変わってから振り返ると、過去の社会の中に必ず新しい時代をになうべき理論や運動が用意されている。ただ、そうした言動は先見性のゆえに同時代の人々には理解されない。しばしば、逆心を抱く者として処刑されている。闇に咲いた花火のように、先駆者の生涯ははかなく短い。
例として、吉田松陰などが挙げられるかと思えばさにあらず。 安藤昌益
(Wiki 安藤昌益 ) お言葉:「慈不慈の法教(こしらえおしえ)無ければ、子の慈愛に溺るる父も無くまた子を悪む父母も無し。」
と石田梅巌なのである。
(Wiki 石田 梅岩 ) お言葉: 「学問とは心を尽くし性を知る」
私も名前だけは聞き知っていたが、詳しいことは何も知らなかった。やはり、文化人というか教養人として差が表れるのである。
堤清二は、密かに実業人として、自分のことをそのような先駆者と思っていたのではないか。そうだとしたら、やはり辻井 喬に嫌味なものを感じてしまうのである。亡くなった作家にこんな事を言うのはおかしいのだが。
夾竹桃
どこへ行っても夾竹桃の花があった。
花弁は、昔、退紅色と呼んだ桃色の勝った紅で、街道筋の土塀に沿ったり、・・・
たくましい夏にあらがっているような、さからっているうちに自らも激しく燃えてしまったような美しい残酷さで咲いている。
文学的な文章ですね。 我々は、美しき残酷な世界に住んでいるのである。 その象徴が夾竹桃。 by 進撃の巨人
美しき残酷な世界
演芸家は、良く知っているが、夾竹桃には、毒性がある。 私は知らんかった。 Wikiの記事より。
キョウチクトウは優れた園芸植物ではあるが、強い経口毒性があり、野外活動の際に調理に用いたり、家畜が食べたりしないよう注意が必要である。花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性がある。生木を燃した煙も毒。腐葉土にしても1年間は毒性が残るため、腐葉土にする際にも注意を要する。
中毒症状は、嘔気・嘔吐(100%)、四肢脱力(84%)、倦怠感(83%)、下痢(77%)、非回転性めまい(66%)、腹痛(57%)などである。 治療法はジギタリス中毒と同様である。
ということなので、まさか食べはしないだろうが、腐葉土にしてはダメです。この土を花にかけると、その花は枯れてしまうかもしれぬ。だから、お庭に夾竹桃を植えるときは注意すること。
実際にフランスで死亡事故もある。1975年バーベキュー中に7人の男女が死亡した。夾竹桃の枝を串焼きの串にして使用したためである。原因は、植物に含まれる「オレアンドリン」という有毒成分。決して串やはしには使わない様に。
脳細胞にこのように影響する(そうだ)
ヴァレリーの墓のある南仏のセット市のあたりでは、子供たちが進学試験に合格した時、月桂樹でなく夾竹桃の枝を輪にして飾るのだ、という話を聞いた。
こういう薀蓄話を聞くと、画像を探したくなるという悪い癖がある。
夾竹桃の冠は見当たらず。代わりに月桂樹の冠。
鈴虫
鈴虫の声は、長いあいだ聞く人もなかったので、あんなに澄んでしまったのだ、という話がある。
私としては、当然鈴虫の鳴き声を聞いてみるのである。
薄暗がりで、黒い鳥のような翅を擦り合わせて鳴く小さな虫の声は、生き物の孤独に支えられていて幾分か寂しげである。
澄んだ響くような声ですね。文章通り生き物の孤独に支えられた虫の声と思える。
ここで、ヘッセの言葉。
人生とは孤独であることだ。
しかしながら、こんな大合唱もあるのです。
「スズムシ」の大合奏 (鈴虫の鳴き声)
こうなると、孤独どころではなく、却ってうるさいですな。しかし、煩わしくはない。
風立ちぬ
風立ちぬ、 いざ生きめやも
というフレーズを冒頭に掲げた作品を堀辰夫が書いたのは、彼が32歳のとき、宿あの
結核療養のために信濃追分に滞在していたころのことであった。
堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)
日本の小説家。
それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。
by Wikipedia
風立ちぬといえば、私にとってはオリジナルより宮崎駿のアニメですね。最後の長編アニメということになっています。
勿論劇場版で見ました。
評価は、今一みたいだったけど、とても良い作品でした。 純粋に飛行機に対する宮崎駿の愛が溢れていたと思います。それと、テーマソングがいつもながら良いですね。劇場予告の動画をどうぞ。
これから、どのような風が立つのかは、誰にもわかっていない。ただ、「生きめやも」とは、生きることのむずかしさへの詠嘆の響きを持つことばであったと思い知るだけなのだ。
年を取ってみて、青年期とは違った意味で同感します。著者もそう感じたのでしょう。
コスモス
コスモスが咲いている。コスモスの花びらが一枚一枚散っていく。
コスモスといえば、この画家を思い出してしまう。 コスモス画家 荒木幸史
そして、花が散っていく。 何処へ? Where have all the flowers gone ?
散ったとき、花弁の切れ込みの鮮やかな八枚の花の姿は地上から消えて、人々の記憶にのみ残こる存在になるのだ。
著者が自分の想いをコスモスに託した美しい文章ですが、自意識過剰ぎみに思える。記憶にも残らぬ存在になるというのが、適切に思えてしまう。やっぱり、功なり名遂げた人とそうでない人との違いかね。僻みっぽくなるのが、老人(私)の悪い癖である。
今回は、これでおしまい。 III につづく。
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