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2015年4月22日水曜日

一王山 十善寺

地元の神社仏閣の紹介のシリーズである。相変わらず、爺むさいことばかりやっております。

昨日久しぶりに快晴だったので、病院に行くまえに運動がてら十善寺に立ち寄った。このお寺は神戸大学の鶴甲キャンパスの裏手にあり、現役時代は講義が終わったあと、お寺の境内や公園でボケーとするためによく行ったものです。

このお寺は開放的で散歩コースにも良く、好きなお寺なのだが、まだ一度も紹介していない。それで、今回調査がてら新しい写真による紹介をしたいと思った次第である。

Wikipediaに記事はないが、地理としての一王山町の記事はある。

一王山町(いちのうさんちょう)

神戸市灘区の町名。住居表示実施済み。丁番を持たない単独町名である。

とあって、一王山十善寺があることからこの町名が付いたと記載されている。

そして、

十善寺はもともと赤松町(神戸大学経済学部のところ)にあったが、元弘3年(1333年)に赤松則村(円心)が播磨から攻め上り、摩耶山城に拠って北条軍と戦った際に、戦略拠点として利用され、2度焼けており、宝暦年間1751~64年)に現在の形に整ったという。

という現在の十善寺についての記載がある。950年続いたとあるが、少なくとも250年は歴史のあるお寺である。

石屋川を上流に向かって登っていくと、十善寺参道の案内碑がある。


現在では、参道には民家が立ち並んでいる。

その参道の途中に、高安稲荷大明神の鳥居と


祠がある。


周辺は、駐車場と公園になっている。どこで管理しているのかは、わからぬが割と綺麗に整備されている。でもこれだけである。他には何もない。

神戸市の広報で十善寺は、このように記されている。

一王山十善寺

臨済宗永源寺派 

一王山十善寺
 
石屋川上流の西岸にある臨済宗永源寺派の寺で、天喜5年(1057年)、信覚大師が創建。
七三僧房と七堂伽藍を擁し、壮観を極めたといわれます。
元弘3年(1333年)兵火により全焼。復興後、再び天正年間(1573~92年)の兵火で本尊十一面千手観音を除き焼失しました。
現在の寺観は江戸時代高羽の住人楠本三左衛門高重によって寛文5年(1665年)に再建。
宝暦11年(1761年)に呑海和尚が来て完成に至ったと言われます。
背山に四国八十八ヶ所のミニ霊場があり、寺とともに登山道に組みこまれています。
 
 
十善寺の墓地
 


お寺の入り口におわせられる身代地蔵尊。 綺麗なユリの花のお供え。


山門

山門の両脇には、仁王像。随分新しくなっている。私が良く行ってた震災前(阪神淡路大震災)は、古い木像で着色はされていなかった。山門も随分綺麗に改築されている。
仁王像を取り巻く網なんて無かったような気がする。



境内は、昔から落ち着いた佇まいで整備されてのですが、お寺の建物も随分新しく綺麗になっていました。

本堂   木々が邪魔になって、良く見えないですね。 ご住職が本堂におられました。



本堂の中



調べてみると、神戸市広報以外にこのような写真がありました。神戸市のタウンページから見つけました。

本堂の手前左側に十善寺縁起の説明板がある。



次のように書かれている。

臨済宗永源寺派
一王山 十善寺縁起


当山は後冷泉天皇の御宇、天喜五年(一〇五七年)に信覚大師の手によって創建された
もので往時には七十三の僧房と七堂伽藍を擁し、又、景勝の地の利も得て、誠に壮観で
あったと伝えられています。その後、兵火に遭遇し、総てを灰儘に帰するところとなりましたが
禅宗の高僧、宇光室禅師はこれをたいそう惜しまれ、諸堂や十三院を造営されました。
ところが、天正年中(一五七三~九二)織田信長の兵火でまた堂宇は焼失の憂き目にあい
現在の寺観は、元禄の高僧、永源寺・仙霊祖竺禅師の志を継いだ、高羽の楠本三左衛門
高重
によって寛文五年(一六六五年)に再建され、宝暦十一年(一七六一年)に呑海禅師が
来てから完成されたものであります。御本尊には十一面千手観音菩薩を安置し、脇仏として
弘法大師を、又、諸天皇を祠っております。
 最初の兵火と伝えられるのは、元弘三年(一三三三年)赤松円心(則村)が播磨国から攻め
上がり摩耶山城によって京都の北条軍を悩ました時で、円心が十善寺を戦いに利用したため、
この地方は戦場となり寺が焼かれたのであります。それ以後、寺はもとの地
(六甲ケーブル山頂駅東南、油コブシ付近)から現在の地へ移ったと言われています。
 一王山と言う山号は、もと寺の南の地名であった一の尾を一の王にとって山号とし
王は十善、神は九善』という所から寺号を十善寺と称しました。
 背山には八十八ヶ所の霊場があり、毎月二十一日にはお大師様の日として
お供養しております。


合掌



そんな訳なのである。かっては、織田信長の焼き討ちにあったのだね。勿論知りませんでした。

御本尊は、十一面千手観音菩薩である。画像があるかもしれぬと思い探してみたが、未発見。代わりに、三十三間堂木造千手観音坐像


頭上に合計11面の観音様の頭部がある。このような感じです。


チベットの密教寺院では、こんな十一面千手観音菩薩も安置されている。派手ですね。


思わず脱線した。

薬師堂


説明書き


安置されている薬師像 (神戸市タウンページより)


手水舎

 
山門の全貌。二階建てになっている。 


鐘つき堂

閻魔堂  嘘をつくとここで舌を抜かれる。近寄らないことにした。


中国風の石塔。

納骨堂  その前におられるのが、水子供養のお地蔵さま。赤ちゃんをだっこしておられる。


その足元の子地蔵群。

 

 
不動明王  立派な青銅像である。

供養石塔 中にはお釈迦さまがおられる。お大師さまもおられるようである。


境内には、このような石仏が沢山見受けられる。


十善寺方丈 ホールになっている。

一王山登山会館 ここには、登山会があって毎朝会の方々がこの境内で体操をやっておられる。お休み処もあり、軽食や飲み物を取れるようになっている。そういえば、登山日誌が置いてあって、記帳されていた記憶がある。今はどうなっているだろう。


さて、 背山の四国八十八ヶ所霊場巡りである。 山道にこのような祠が点々と置かれている。


大体は、弘法大師と釈迦か観音様の石像が安置されており、各霊場の記載がある。



脊山の中ほどに公園がある。懐かしいですね。この公園で現役時、私はよくお弁当(+ビール)を食べて中休みをしていた。殆ど誰も来ないので、気が休まるのです。


つつじが咲きはじめましたね。



八十八ヶ所霊場巡りのつづき。

これは、二十八番。

これまた懐かしい。 高野山奥の院遥拝所 
必ず、かねをちん、ち~んと鳴らして拝んでおりました。



山道の石塔



このような仏像を納めた祠(と言っていいのかな?)


地蔵菩薩をお祀りした祠もある。

その中には、由緒はわからぬが、石柱を抱えた木の根が祀られている。


これは、おそらく江戸時代に彫られたお大師さま(もしくは仏様)の石像。たまに見受けられる。


かえる石ですね。

新旧二種の石像。

本堂の裏手は、竹林になっている。ここで筍が取れる。掘ったあとがありました。


かくして、霊場巡りはおわり、お寺の境内の裏手にでる。

仁王様の石像

お大師様の石像


これで、十善寺参拝は終了したのである。 

病院の検査の結果は、グリコヘモグロビン HbA1c は 6.7 で微妙に改善される。ひとまず、良かったということにしよう。 今回は、これでおしまい。

1 件のコメント:

  1. 祠に神があったり参道に鳥居があったりするんですね、参考になりました。

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