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2015年6月20日土曜日

養生七不可

正直な気持ちで書くが、長生きはしたくない。さりとて早死にもしたくない。(これは不可能になった。)やりたい事が出来なくなってしまうからである。平均寿命位生きれば、見るべきものは見つ、果たすべき仕事はしたという気になれるのでないかと、勝手にしかも楽観的に想像している。しかし、痛い思いをして生きるのはゴメンである。前回のルノアールの記事で、

苦痛に耐える事の必要性と祝福を意味するように思える

などと偉そうに書いたが、私はそのような痛みに耐えられそうもない。本質的に弱虫なのである。

それで、やはり人間臨終図鑑の4巻を読んでいて、杉田玄白の項目でこのような養生訓を見つけたのである。


「養生七不可」

一、 昨日の非は恨悔すべからず。

一、 明日の是は慮念すべからず。


一、 飲と食とは度を過すべからず。


一、 正物に非ざれば苟も食すべからず。


一、 事なき時は薬を服すべからず。

一、 壮実を頼んで房を過すべからず。

一、 動作を勤めて安を好むべからず。
 
この七つの禁を守って、杉田玄白は生来虚弱の体質であったにも拘わらず84歳の長寿を得た。
 
人間臨終図鑑には、こう書かれている。
 
晩年に至っても彼は、雨の日も風の日も、日本橋の自宅から丸の内、深川あたりまでテクテクと往診に歩いた。彼は決して頑健でなく、むしろ虚弱の体質であったのに大長命を保ったのは、この緊張した摂生生活と、勤勉な運動のせいであったと思われる。
 
全くの同感ですね。私がどの事項を守っているかと言うと、六番目の事項だけで後は全て禁を犯しているのである。そのことを実証してみよう。
 

 一、 昨日行ったことで、いつもくよくよして後悔する。
 
碌でもないブログ記事書きに時間を費やして、本来すべきである数学のお勉強はお休み状態である。こんな事をしている場合ではないのにと、いつも後悔をしている。

二、 明日のことを常にくよくよ考えて、憂鬱な思いでいる。
 
食って寝て、娯楽の読書をして、ブログネタの記事を考える日々である。ちっとも生産的なことはしていない。こんな事を続けていると、いずれ脳みそが壊れてきて、取り返しのつかない状況になるのでないかと、くよくよ悩む。あーでもない、こーでもないと更に悩む。そんな暇があれば、溜っている論文を読めばいいのにそれもしない。毎日が憂鬱である。

三、 機会があれば、飲みすぎ、食べ過ぎを行っている。
 
糖尿病患者なのでしょっちゅうではないが、旅行などに出ると、地元グルメじゃ何のかんの言っては、暴飲暴食にふける。お蔭で、このブログにグルメ記事を沢山書けているのだが、健康に悪いことは自明の理である。
 

四、 出所の分からない奇体な食べ物をしばしば食する。
 
変な、訳の分からない食べ物をみると、なんでも食べてみたくなる。お蔭でしばしばお腹を下すはめになる。先日鰆の卵のフライを食べて胃の調子がおかしくなってしまった。 魚の発酵食品

五、 やたらに薬を飲んでいる。
 
糖尿病や高血圧の薬で、毎朝7種類の薬を飲んでいる。夕食時も飲んでいる。自業自得とは言え、薬漬け状態に既になっている。
 
六、 房事は過ごしていない。
 
唯一禁を犯していない事項だが、5番目に書いた理由により本当は実行が不可能なのである。
 
七、 しばしば、運動もせず安逸に流れる。
 
鬱状態としばしば称しては、一日中ベッドで寝ていることがある。
 
こう見ていくと、本当に最低の爺さんだね。私は。退職して、気ままに生きていると、このように堕落するのである。
 
それで、以前の習慣に立ち戻り、七だけは再び禁を守りたいと念願するのである。朝ごはんの後は、原則として1時間以上の運動散歩をすることである。
 
 
話がそれたが、Wikipediaに基づきこの養生訓を垂れた杉田玄白を紹介する。
 
    
杉田玄白

杉田玄白像(石川大浪筆、重要文化財)
生誕享保18年9月13日(1733年10月20日)
江戸牛込
死没文化14年4月17日(1817年6月1日)
職業蘭学医(町医者、小浜藩医)
著名な要素『解体新書』(『ターヘル・アナトミア』の和訳)
家族・親戚父:杉田玄甫、母:八尾氏の娘


杉田 玄白(すぎた げんぱく)
(享保18年9月13日(1733年10月20日) - 文化14年4月17日(1817年6月1日))

江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。
諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。
杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。医家としては、玄白で3代目にあたる。




福井県小浜市にある杉田玄白の銅像。杉田玄白記念公立小浜病院の正面に設置されている

その生涯:

江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれるが、生母は出産の際に死去している。

・青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。 

・宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。

・宝暦7年(1757年)には江戸、日本橋に開業し、町医者となる。

・明和2年(1765年)には藩の奥医師となる。

・明和6年(1769年)には父の玄甫が死去。家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。

ここからが、昔教科書で教わった話。

明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。

玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。

前野 良沢(まえの りょうたく) 享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日)


玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。




適塾所蔵『解体新書』。扉絵は底本『ターヘル・アナトミア』の扉絵とはまったく異なっている。
友人桂川甫三により将軍家に献上された。



『ターヘル・アナトミア』(複製)。国立科学博物館の展示。


その苦心談が教科書に載っていた訳だ。

 

『蘭学事始』明治2年刊。

この『蘭学事始』が書かれたのは、玄白82歳のとき。実際の書名は、『和蘭事始』で、原本は彼の死後失われていたが、幕末に洋学者神田考平が発見し、福沢諭吉が『蘭学事始』として世に紹介する。

神田考平

Kanda Kohei.jpg
生年月日1830年10月31日
没年月日1898年7月5日(満67歳没)
前職幕臣、官僚
称号錦鶏間祗候、男爵



山田風太郎曰:

82歳の著作で、後代これほど多数の人々を感動させた書物はない。

なお、玄白はこの養生訓「養生七不可」を守り、63歳で子どもをつくっている。とても真似できぬ。
養生七不可」も、古希(70歳)の祝いの前年に記したものとある。まだまだアチラのほうは、達者だったのである。とても真似できぬ。

玄白、古希の年に詠んだ一首。

 過ぎし世も来る世も同じ夢なればけふの今こそ楽しかりけれ 


自虐的な一面は持っていたが、楽天家だったのである。
この回顧録を絶筆の積りで書いたのだが、さらに長命して84歳で眠るがごとき大往生を遂げた。

とんでもない爺さんだったんだね。

彼の絶筆:

医事不如自然 

医事は自然に如かず」  何事も自然にまかせるのが一番という事。 


辞世の句:

 辞世とはすなわち迷ひただ死なむ 

幸せな一生であれ、そうでなかれ、ただ死ぬだけですね。大して苦しまずに死ぬのがベストといえる。

今回は、これでおしまい。 運動のため、取材に行ってくる。

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