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2015年9月11日金曜日

兵庫新川運河と清盛塚

今回も神戸名所案内である。以前取材に行って、記事を書くのが面倒になって放っておいた(こればっかり)新川運河周辺の案内である。
新川運河と書くと、むしろどこか分からんが、古い名称だと兵庫津のことである。



運河周辺の散策道をキャナルプロムナードなどと洒落た名前で呼んでいる。現在ではこの広場周辺では、労働者の方が昼間から酒を飲んだり(人のことは言えんが)露天で将棋などをやっているのである。夜間の散策はしない方が安全になっている。

兵庫県立博物館の記事では、兵庫津はこのように書かれている。Wikiには、記事はない!

兵庫津

兵庫津は、平安時代末に平清盛が日宋貿易のために整備し、室町時代には足利義満の日明貿易の拠点として栄えた港である。
元は行基が設けた摂播五泊(摂津国~播磨国にかけての五つの港)の一つ、大輪田泊で知られていた。
江戸時代には兵庫津と呼ばれ、西国各地から大坂入りの船舶の寄港地として賑わった。また、山陽道もこの地に迂回して通り、海運と陸運の結節点ともなっていた。非常に繁栄した港であった。

 しかし幕末の開国時に神戸港が外国船の停泊地に指定されたのをきっかけに、兵庫津はその地位を神戸港に奪われることになった。

この新川運河の歴史を説明する掲示板。


和田岬が船の難所で船の被害が大きかったことから,兵庫出在家町の豪商・神田兵右衛門によって兵庫運河の築造が計画されました。
1874(明治7)年に着工しましたが工事は難航し,1876(明治9)年に船舶の避難地として新川運河だけが完成しました。
 その後,八尾善四郎などの尽力により,和田岬を迂回するバイパスとして1896(明治29)年に着工され,1899(明治32)年12月に兵庫運河全体が完成しました。


開削から100年余りが経った兵庫運河は,それ自体が貴重な歴史資源でもあるのです。

当時の兵庫運河  当時の兵庫運河

絵地図

現在の風景


運河の堰堤。 こんな所に兵庫区のマスコットキャラであるハートン君が出現している。誕生して10年以上経つが、相変わらず無名のままである。可愛いのにね。



 兵庫区では、「やさしさと思いやりのまち兵庫」を区政の基本方針とし、子どもから高齢者、障害者まで、誰もが安心して暮らせる住み良いまちづくりを進めています。

 ハートンは、この区政の基本方針を多くの区民のみなさんに知ってもらい、また親しんでもらうため、平成16年4月、公募によって誕生したシンボル・キャラクターです。

 デザインは、兵庫区の頭文字「ひ」とやさしさと思いやりをイメージしたハートをモチーフにしています。


性格:やさしく思いやりがある。
長所:頭にハートが生えてくるぐらい愛で溢れている。
短所:転ぶと起き上がれない。
特技:タップダンス、ムーンウォーク 
好きな食べ物:クッキー
苦手なこと:狭い所を通る
趣味:寄席観賞
みんなに一言:ハートンに会いに兵庫区へ遊びにきてね!




運河には清盛橋が架かっていて、そのたもとにお目当ての清盛塚がある。



これが清盛塚石造十三重塔である。


神戸市教育委員会の掲示板にある如く、高さ8.5mの石塔で県指定文化財になっている。弘安九年(1286年)に造立されたので、相当に古いのだ。今も地域の方が大切に守っているそうだ。そう言えば、少し萎びていたがお花が献げられていた。

清盛像  この像からは、野心に満ちた権力者の清盛は伺えぬ。

 
柳原義達
 
 
         柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - 2004年11月11日)
鳥や裸婦の彫像で有名な彫刻家です。

琵琶塚

 

 

 
琵琶塚は、琵琶の名手・平経正(つねまさ)にちなんで建てられてる。平経正は、清盛の甥で敦盛の兄。

 

Wikiでは、このように説明されている。

一門の中の俊才として知られ、歌人、また琵琶の名手として名を挙げた。
藤原俊成や仁和寺五世門跡覚性法親王といった文化人と親交が深く、とりわけ覚性からは、経正が幼少時を仁和寺で過ごしたこともあり、楽才を認められ琵琶の銘器『青山』を下賜されるなど寵愛を受けた。

これでおしまい。

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