山の辺の道 桜井編の8回目。えらく長くなりましたね。今回は、相撲神社と珠城山古墳群の紹介。
山の辺の道のコースから少し外れて、山側に200m程上ったところに相撲神社がある。相撲発祥の地なのである。穴師坐兵主神社の摂社であり、野見宿禰と当麻蹴速を祀っている。
相撲神社の看板
由緒などをしらべようと思って検索したが、Wkipediaには記載がない。野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)はあるのだが、相撲神社はないのである。
それだけではない。社殿が見あたらないのである。それなりの広さがあるのに、お詣りすべき社殿がないのはいささかか驚きである。
以下では、この 相撲神社のページ を参考にして解説したい。
穴師坐兵主神社の一の鳥居 (この神社はさらに山奥にあり、時間の関係で行けなかった。)
穴師坐兵主神社の一の鳥居の近くに、相撲神社がある。ここは、大兵主神社神域内の小字カタヤケシと呼ばれる場所で、参道脇の広場が相撲神社の境内になっている。
境内の入口に小さな鳥居があり、その奥の広場中央に4本の細い桜の木に囲まれた空間がある。その空間が土俵であり、4本の桜は土俵の4隅の柱のつもりであろう。広場の左手奥には、今にも崩れそうな小さい祠が雑木で囲われてポツンと建っている。野見宿禰(のみのすくね)を祀る社である。
相撲神社の鳥居
ご祭神 野見宿禰 と記された石柱
土俵 青いビニールシートがかかっていて土俵自体は見られない。
桜井ライオンズクラブ寄贈の力士像 微妙に貴乃花に似ている。
相撲神社の由緒書
大鵬や柏戸などの力士が本社の大兵主神社にお詣りに来たそうである。
野見宿禰(のみのすくね)を祀る社。 新しく造り直されたようである。
狛犬二基
野見宿禰の石像と、そのレリーフを描いた長谷川路可画伯。
逸話:
『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこととして、次のような逸話を伝えている。その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいて、何とかして強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。そのことを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させた。そして見つけだしたのが出雲の国の野見宿禰である。早速二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催された。試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わった。當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。天皇は當麻蹶速の土地を没収して、野見宿禰に与えられた。野見宿禰はそのままとどまって天皇に仕えたという。
野見宿禰の名は知っていたが、敗者の當麻蹶速の名は全く知らなかった。やはり、何事も勝者の名のみが歴史に伝わっていくのである。
一の鳥居から巻向遺跡の方角を望む。
ここより、珠城山古墳群へと向かった。
こんもりとして小高く盛り上がっているのが、景行天皇陵。 周辺は田圃である。
アングルを変えて写してみた。古墳のように見えましたね。
珠城山古墳群の看板
前方後円墳3基からなる古墳群である。1.2号墳は当時の姿をとどめており、1号墳の後円部には横穴式石室が開口している。残念ながら3号墳の大部分は消滅してしまっているが、後円部と前方部に横穴式石室があった。
3号墳跡と思われるが不明。このような小高い丘という様子で、登ってみても何もない。
登り口のに鳥居がある。しかし社は見つからず。
珠城山2・3号墳への指示標識
頂上付近。
航空写真では、このように古墳として判別できるが、地上ではただの丘である。
このような石垣が組まれている。どこが古墳のどの部分かわからない。
何だか良くわからない古墳群見物であった。5分ほど巻向駅に向かって下っていく。
垂仁天皇巻向珠城宮跡の石柱 この周辺も巻向遺跡であった。今は資材置き場。
ここより10分程で、無人駅であるJR巻向駅に到着。駅入り口である。
駅には、巻向遺跡の掲示板がある。
無人だが、自動改札の機械が置かれている。私は、イコカを持っているのでタッチしてピッと改札を行ったのであった。
これで山の辺の道散策はおしまい。 あと1回だけおまけの記事をかいて、桜井編は終了にしたい。
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