ページビューの合計

2016年12月2日金曜日

加西市 多聞寺

今回は、加西ハイキングで訪れた多聞寺の紹介である。

山門


前回も書いたが、多聞寺は 大坂五人衆 後藤又兵衛の菩提寺である。 

加西市発行の後藤又兵衛の観光案内パンフ




後藤又兵衛の人物、人生については上のパンフに詳しい。 

Wikiによる説明を引用。

後藤 基次(ごとう もとつぐ)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。黒田孝高(如水)、黒田長政豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆の一人に数えられた。

身長6尺(180㎝)を超える巨漢で「槍の又兵衛」として有名。

大坂五人衆はつぎの五人。

明石全登後藤基次真田信繁長宗我部盛親毛利勝永

大河ドラマ真田丸の主人公の真田信繁と共に大阪夏の陣を戦った。

お寺の本堂に置いてあった真田丸の絵葉書+北条鉄道の一日フリー切符。



後藤又兵衛役は、哀川翔。 似てると言えないこともない。


山門横に、お寺の解説板が置かれている。


パンフの記事を基にして彼の出生、年代記を略記する。

肖像画


後藤基次像(福岡市博物館蔵)



出生

永禄三年(1560年)四月十日、加西郡山下村(現、加西市山下町)に、後藤家の次男として生まれた。彼、後藤又兵衛基次(通称、後藤又兵衛)は六尺(約180センチ)を超える巨漢に成長する。

父は、小寺政職の下にいた後藤新左衛門基国。父の基国は、又兵衛が幼少の頃に亡くなる。又兵衛は、姫路城の城主であった黒田官兵衛の元へと預けられ、青年期を過ごす。後に因縁深い間柄となる長政とは兄弟のような関係で育ったという。

黒田家家臣期

天正十余年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃から、黒田家家臣としての又兵衛の活躍が当時の記録にも書かれるようになった。領地替えを巡る城井氏との戦い、文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵、慶弔五年(1600年)の関ヶ原の戦いなどに従軍し、活躍し数々の武功をあげる。
戦後は、大隈城(益富城・福岡件嘉麻市)16,000石の所領を与えられ、長政に「自分の右腕」とまで言わしめたことで有名。


黒田家出奔後

官兵衛の死から二年後の慶弔十一年(1606年)、又兵衛は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家から出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったものの、結局、播磨国に戻り、領主となっていた輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。
しかし、長政が
又兵衛への「奉公構」という措置を取って干渉していたため、慶長十六年(1611年)より京都で浪人生活を送ることとなる。

大坂の役

後藤又兵衛基次之碑(大阪府柏原市玉手町)


慶長19年(1614年)、大坂の陣が勃発すると、豊臣秀頼の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6,000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。

翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山(現:玉手山公園近隣)に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。 しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁(幸村)らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年五十六歳であった。


Wikipediaをコピペして、加西市発行のパンフがやはりWikipediaのコピペであるのを発見したのであった。あるいは逆かもしれぬと思ったが、逸話の生存説まで同じだから、まあ間違いはない。

後藤又兵衛の解説に手間取りました。

本筋の 曹洞宗 祝融山 多聞寺 の紹介である。 このお寺のWikiでの記載はない。

山門横でお出迎えする小坊主君。 名前は分からない。


本堂


何やら誦経の声が聞こえてくる。祭壇に上ってみて分かりましたが、テープでした。

境内は美しく整備されています。お供えの花も枯れているのはありません。

南無六地蔵菩薩


釣鐘堂

本堂の中  参拝客は私一人であった。わずかばかりの喜捨をさせて頂く。

堂内に展示されていた又兵衛の身に付けていたという鎧、兜、槍(のレプリカ)。


墨絵師 御歌頭さんによる 武将 後藤又兵衛



後藤又兵衛は、 大河ドラマ 軍師官兵衛 にも 真田丸 にも出演しています。現在でも人気者です。


煌びやかな祭壇です。


境内の石徳五訓 の石碑


 石徳五訓

 一、奇形怪状無言にして能く言うものは石なり。
 二、沈着にして気精永く土中に埋れて大地の骨と成るものは石なり。
 三、雨に打たれ風にさらされ寒熱にたえて悠然動ぜざるは石なり。
 四、堅質にして大厦高楼の基礎たるの任務を果すものは石なり。
 五、黙々として山岳庭園などに趣きを添え人心を和らぐるは石なり。




作者不詳です。

菩薩像

お寺の裏手に寂光苑という地蔵尊を祀る一画がある。 その中に入る。


お堂

祠と墓石らしき石碑


モダンな地蔵尊の石像。 ここらあたりは、長石の産地なので石仏は四角っぽくなる(うそです)。


白寿観世音菩薩

子守り地蔵尊


慈母観音

地蔵尊の行列

石灯籠


鹿の銅像  神使としての役割を果たす。


日本書紀応神天皇の項に播州の水域を鹿が渡る記述がある。

応神天皇が淡路島に狩にお出ましになった時に、多くの鹿が泳いで対岸の「鹿子水門(かこのみなと)」 に入るのをご覧になって、人をやって調べられると、日向の豪族の娘(髪長媛)が都に仕えるために東上する船団の一行だった。彼らが角の付いた鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまられたのだ。
水手(ふなこ)を鹿子(かこ)というのは、このときからのことである。」

ここに言う「鹿子水門」とは加古川左岸の加古川市稲屋付近であるとされており、この鹿子(かこ)という言い方が、後世、船乗りの総称に水主の字を当てるようになった時、水主を「かこ」と読ませるようになった理由であるといわれている。


鹿に関連する神話を引用してみたが、あんまりこの銅像とは関係ないみたいだね。

寂光苑を出て、一つ撮り忘れているのがあった。二宮尊徳像である。年期が入っているので、戦前のものかもしれない。昔は小学校の校庭によくありました。


これでおしまい。

0 件のコメント:

コメントを投稿