と、日々の下らない感慨を書いてから記事を始める。
今回は神戸の神社シリーズで、ひきつづき生田裔神八社の一つである七宮神社の紹介である。 前回の四宮神社の記事を書いてから早速取材にでかけた。いつものように母の見舞いに行った帰りである。一昨日の5月15日のことである。
神戸中央区 四宮神社
この地図で確認すると、七宮神社は母の入居している施設から徒歩で5分くらいの所にある。
これはラッキーということで、早速海岸方面に向かった。神戸高速線の向かい側に見えている神社がそうであった。
看板に隠れてしまっているが、本殿の屋根が見えている。
看板には兵庫津🌸産土神 七の宮神社とある。
道路を回り込むように行くと石造りの大鳥居がある。 扁額には七宮神社とある。
社碑
ここでWikipediaから基本情報を引用する。
七宮神社 (神戸市)
七宮神社 | |
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所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区七宮町2丁目3-21 |
位置 | 北緯34度40分18.6秒 東経135度10分32.7秒座標: 北緯34度40分18.6秒 東経135度10分32.7秒 |
主祭神 | 天巳貴命・大日霊貴命・天児屋根命 |
社格等 | 旧県社 |
例祭 | 5月8日 |
七宮神社(しちのみやじんじゃ)
神戸市兵庫区七宮町に鎮座する神社。生田裔神八社の一社。
「白藤家記録」に七宮神社は「延喜式」の八部郡汶売神社とある。主祭神である大己貴命は、大国主命、大物主神、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顧国王神の七つの御名を称えて七宮神社という。
ということで、ご祭神の大己貴命は七つもの御名をもつことより、この神社は七宮神社と呼ばれている。七宮町の地名の由来でもある。七番目の衛星神社という訳ではなかった。
ご祭神:
大己貴命 (おおなむちのみこと)
今回はこの画像
大日霊貴命 (オオヒルメムチノミコト)
天照大神(あまてらすおおみかみ)のことです。
天児屋根命 (あまのこやねのみこと)
鹿に乗るスタイルで有名な春日大明神のことである。神様は別称が多いので憶えきれないですね。
歴史:
神功皇后三韓征伐凱旋の時、大国主神を山の尾の波打ち際に奉斎。また、会下山方面の山麓に衆落を作っていた時代に、北風家が祀つた神が兵庫に移ったともいわれる。
神功皇后三韓征伐
- 応保元年(1161年)、経が島築造で難航した平清盛は、家臣阿波民部重能の進言を受け、社殿を造営。以後平家一族の崇敬が篤かった。
この神社も平家に因む神社です。
経が島は、清盛が明との交易のため兵庫津に築いた人工島である。
島建設以後、島の形は風波による自然現象や家・施設の人工的開発が幾度もなされたので、今日では昔の面影を全く留めていない。 従って、島の位置を正確に特定することは困難で、朧気ながらの推定でしか出来ない。 平清盛と経が島
下の地図で示されている場所と推定される。
- 天正10年(1583年)1月19日、正親町天皇より七宮大明神の勅額及び三種の神宝の絵画を下賜される。
- 慶長7年(1602年)8月、片桐且元・大久保長安が社殿造営の用材・太刀等を奉納。
- 享保20年(1735年)には繁華街を成し、各地の船舶業者が難を避けて当社に祈願した。
- 元禄5年(1692年)10月の指出帳に「七ノ官大明神除地、真言宗高野山学侶方蓼上普門院末寺、神宮寺社僧 眞栄」とあり、維新まで真言宗の神宮寺の社僧がいた。
- 寛政11年(1799年)西出町に住居していた廻船業を営む高田屋嘉兵衛は幕府の命で巨船を造り、国後島・択捉島に向うに先だち、模型船3隻を献納して海上安全を祈願した。
- 明治6年(1873年)6月村社に列す。
- 明治8年(1975年)2月郷社となる。
- 明治10年(1877年)5月県社に昇格。
- 大正11年(1922年)境内を改修。
- 昭和3年(1928年)社務所を改築。
- 昭和20年(1945年)神戸大空襲により、宝物等の全部を焼失。
この神社も神戸大空襲でその殆どが失われた。神戸大空襲については、以前記事を書いたことがある。よろしければご覧になってください。 神戸大空襲
もう一方にある境内への入り口。
ここには真新しい鳥居と常夜灯が置かれている。 参道は拝殿へ一直線でつづいている。
県社 七宮神社 の社碑 元県社である。
七宮神社の由緒板
歴史で記されたようなことが書かれている。
手水舎 台に進という刻字がある。 でもここを進めば塀に当たる。
拝殿
大小狛犬四基
拝殿の扁額
高田屋嘉平に因むということで、この神社には錨が海難お守りとして飾られている。
厄除八社のリスト 三宮、四宮、七宮が取材済で残りは5社だが六宮と八宮は合祀なので実質は残り4社である。
その記念碑 七宮神社社務所完成記念碑 とある。
今回はこれでおしまい。
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