地図
地図では県道82号線、通称「大沢西宮線」沿いにあるので車でいくのが一番である。それで休みの日に次男に無理を言って車で連れて行って貰うことにした。帰りは有馬の太閤の湯に入るというおまけ付きでお願いをした。まだ脊柱管狭窄症が出現していない元気一杯であった2月18日の事でした。
現在は長く歩けないので遠方の神社参拝は無理になっている。歩けないとなると行動半径は急速に狭まってしまう。とにかく早く腰痛が改善してほしいものだ。と、また愚痴が出てしまった。
自宅から六甲山トンネルを越えて箕谷にでる。
バス停の横に立つ地蔵尊石塔 ベンチに座る仲の良さそうなカップルも写ってしまった。個人情報の保護に抵触しないと思えるのでそのままにしておく。
大沢町に到着。 おもしろ市場の壁に掲示されていた大沢町マップ
これによると二社とばかり思っていたが素盞雄尊を祀る神社は大沢町には何と三社あることが分かる。知りませんでした。神戸の神社一覧で調べて見ると残りの1社は番外で記載されていました。気付かないはずです。
当神社は県道からやや上がった小高い地にあり静かな佇まいである。
上大沢素盞雄尊社 外観
参道の石段
社碑
石の大鳥居
この鳥居をくぐった先が広い駐車場になっている。20台くらいは駐車できるそうです。しかし参拝者は我々のみでした。
この神社の基礎情報はいつもの様に兵庫神社庁と神戸の空の下で。~街角の歴史発見~ から取得した。
上大沢素盞雄尊社 (かみおおぞうすさのおのみことしゃ)
所在地:651-1522 神戸市北区大沢町上大沢字岸ノ奥下552
地元では氏神さんと呼ばれている。
ご祭神:
主祭神 素盞雄尊 (すさのおのみこと)
今回はこの博多山笠祭りのお人形
由緒:
当社の創建は不詳であるが、昔播磨国の廣峯神社よりご分霊を勧請し、当村平の森に牛頭天王(素盞雄尊の別称)と称して祀ったといい伝えられている。文明10年(1478)、村の中央の字岸の奥下に社地を定め新社殿を造営し、社名を感神社と改めた。
やがて戦国の世に入り、赤松氏一族が神社近くの「ケシ山」に砦を築き、居を構えるに、当社を鎮守神と仰ぎ厚く崇敬し、天正8年(1580)の羽柴秀吉の三木城攻略の際、士卒に下知して神霊を背後の山中に匿遷したため兵火を免れたという。
明治維新となって、三田九鬼藩家臣小寺泰次郎の取調べあるに、「祭神威容厳然たり、以後慎重に祭祀を行うべし」と命ぜられる。その後、社名を素盞雄尊社と改称した。
その後天和4年(1684)如月九日に社殿を改修、宝暦14年(1764)申吉日に社殿を再建、明治11年4月に拝殿を再建、明治38(1905)年4月に社殿幣殿並びに拝殿を新築竣工し正遷宮・奉祝祭を行なう。
その後天和4年(1684)如月九日に社殿を改修、宝暦14年(1764)申吉日に社殿を再建、明治11年4月に拝殿を再建、明治38(1905)年4月に社殿幣殿並びに拝殿を新築竣工し正遷宮・奉祝祭を行なう。
大正四年には神職特置を許されて池上市松宮司が勤務されたという。
更に、昭和56年(1981)に全社殿を銅板葺に改修すと記されている。
以上がこの由緒板に刻されている。
それでは境内の参拝を始める。
手水舎 手水鉢の横に貯水槽がある。
手水舎横に鎮座する蛙の石像
渡し鳥居
拝殿 屋根は見事な銅板葺きである。
拝殿前 常夜燈三基 右側にも同じものが並んでいる。
金ピカの社額 右書き横額で 素盞雄尊社 とある。
拝殿前の鈴
拝殿中 電灯が吊り下がっているだけで何もありません。木の階段がありその奥が本殿に続いている。
拝殿前狛犬二基 愛嬌のある可愛いタイプの狛犬です。胴体は磨いたようにツルツル。
社殿は拝殿から幣殿、本殿へと連なる。
本殿
本殿の吊り灯籠 屋根の木組みが見事である。
本殿屋根
境内社を祀る社殿 拝殿横にあり屋根は銅板葺で立派だが社殿の造りは板塀でいかにも貧弱である。
この社殿中に 祭神名の記された3枚の表札が祀られている。それ以外にもありそうだが現在はこのような状態になっている。祀られているのは 事代主大神 月夜見尊 日天子 の三神である。
この社殿(覆殿)内には木造の三境内社がある。木造なので雨よけのためにこの覆殿に安置されているのであろう。それぞれ次の神々を祀っている。
稲荷大神
平野大神
八幡宮
その横にもこじんまりとした境内社ある。
こちらは拝殿前に常夜燈を構えそれなりの威厳を保っている。
拝殿 残念なことに神額が掛っていないので社名はわからない。
境内に並ぶ三社殿
由緒板の裏面には 当社の伝説 行事 が記されている。
秋季大祭には「練り込みの行事」と「かき地車」があるそうだ。関連の記事は見つからなかった。これでおしまい。
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