ここである。桜はもう七分咲き。花びらまつりというのをやっていました。
Wikipediaにも記事が記載されている。社格は、村社なので、それ程高くはない。
やはり、阪神淡路大震災で、大きな被害を受けたが現在ではほぼ旧に復している。
弓弦羽神社 | |
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所在地 | 兵庫県神戸市東灘区御影郡家2丁目9番27号 |
位置 | 北緯34度43分27秒 東経135度15分18秒 |
主祭神 | 伊弉册尊 事解之男命 速玉之男命 |
社格等 | 村社 |
創建 | 嘉祥2年(849年) |
本殿の様式 | 流造 |
例祭 | 10月15日 |
兵庫県神戸市東灘区御影郡家にある神社である。旧社格は村社。
伝統ある神社で、創建は849年。1000年以上の歴史を持っている。
御祭神は、上に記述されているように、つぎの3柱。
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
左の女性神
事解之男命(ことさかのをのみこと)
日本書紀に登場する神。イザナギが黄泉国にイザナミに逢いに来た際、互いにある約束事を交わした時に、発した言葉から生まれた神様。別名泉津事解之男。(下の解説参照)
画像は、見当たりませんね。
速玉之男命(はやたまおのかみ)
『日本書紀』の神話に登場する唾の神。絶命して黄泉国へ去った伊奘冉(イザナミ)を連れ戻しにいった伊奘諾は、見ないでくれといわれたイザナミを見てしまい、喧嘩して妻と別れることになったが、その別れ際に唾を吐いた。その唾を吐く神をハヤタマノオと呼び、(両神の関係を)掃う神を泉津事解之男と呼ぶ、とある。
こちらも適当な画像は、見当たりません。
さらには、天照皇大御神・素佐男尊を配祀する。八咫烏をシンボルとしている。例の3本足のカラスですね。
月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。
これが、神社境内の地図。
さて、境内を見ていきましょう。これが、常夜灯。
境内から、神戸で最も大きいとされる椋の木と鳥居を望む。
手水舎。桜がきれいですね。
手水舎に掲げられている額。勿論はっきりとは読めません。後で調べておきます。
お百度石
これが拝殿。
拝殿の額。立派な金文字で書かれています。
この満開の枝垂れ桜を見てください。これだけで、この神社に来た甲斐があったというものだ。
沢山の願掛け絵馬が飾られていました。
これが本殿。中には、入れません。
なんと、このようなサッカーボールの石碑があるのだ。弓弦羽神社とサッカーの御縁については、ここに記事がある。 御影石のサッカーボール
神餞所
末社の十二社を祀っている横長の社。一遍に末社を纏めてしまえという発想です。いささか乱暴ですな。
末社の内訳は、このようになっている。お祀りする神も記載されている。
それぞれの社には、額が掛かっている訳だが、それを確かめてみた。暇人の所作です。
秋葉社
稲荷大明神
八幡宮
高良宮
金乃毘羅社
松尾神
船玉神社
水神宮
霊符神
猿田彦大神
蛭子宮
の十二社である。
そして、こちらは松尾社。 現在隣の十二社の1つに間借りしています。
社の傷みが激しいので、葺き替えをすることになったと書いてある。
再び境内の満開の桜。
狛犬
弓弦羽神社の由縁が記載されている掲示板です。興味のある方は拡大して読んでください。
社伝によれば、往古、神功皇后三韓より御凱陣の時、長門國豊浦より摂津國難波浦に向かわれる途中、忍熊王(おしくまのみこ)が兵を挙げたのをお知りになり、皇后自ら当地で弓矢甲冑を納めて熊野大神を斎奉しご祈念されたところ、戦には大勝し、それより後は諸々の願い事は、全て御心のままに叶いました。
この故事により、神社背後の秀麗な峰を弓弦羽嶽(弓矢)とも六甲山(甲冑)とも言います。又、神功皇后がこの里の泉(澤の井・阪神御影駅南)に、お姿を写しになった故事によりこの里は「御影」(みかげ)となりました。
8世紀末に、この弓弦羽ノ森(ゆづるはのもり)を神領地と定め、嘉祥2年(西暦849年)正月14日神祠を造営して改めて熊野大神をお祀りいたしました。この時、熊野那智大社の別當慶覚は「摂津國灘浦遊鶴羽之峯権現の故事当文庫に記録あり云々……」と祝文を送ったと言います。
というような事が書かれてあります。
そして、拝殿には羽生結弦選手のパネルが架かっているのです。皆さん献血しましょう。
社
もう1本の枝垂桜。こちらは満開とはいえぬ。
そして、このような石碑もあります。
力石。これは、力量をためし又は祈念するために奉納された石です。
明治天皇がお詠みになった和歌の歌碑。
明治天皇 御製
「日の本の国の光のそびゆくも 神の御稜威によりてなりけり」
と刻まれている。
その他にも犬の水飲場なんかもあるが、写真は省略。
この記事では、枝垂れ桜を愛でて頂ければ満足です。明日も桜の話の予定。
これで今回はおしまい。
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