今回は、島原城案内。島原城は、島原市のシンボル的存在である。Wikipediaによると、島原市はこう記述されている。
島原市(しまばらし)
長崎県南東部の島原半島にある市。島原半島の中心都市。島原城や武家屋敷など旧城下町の街並みが残り、市内に湧水群のある観光都市である。
島原市 | |||
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島原城天守
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国 | 日本 | ||
地方 | 九州地方 | ||
都道府県 | 長崎県 | ||
団体コード | 42203-7 | ||
面積 | 82.97km² | ||
総人口 | 45,793人 (推計人口、2015年2月1日) | ||
人口密度 | 552人/km² | ||
隣接自治体 | 雲仙市、南島原市 (海を隔てて)熊本県熊本市 | ||
市の木 | くすの木 | ||
市の花 | ウメ | ||
他のシンボル | なし |
市は観光に力を入れている、というか観光が一番の産業である。
島原市産業部 しまばら観光おもてなし課が中心となって作成した、小冊子で しまばら観光おでかけナビがある。32頁の冊子で、写真を多用して島原の見どころを手際よく説明している。幸い、この冊子をゲットすることができたので、これを活用する。
これである。 表紙と裏表紙。
2~3頁目に島原の観光案内地図と見どころが書かれている。
その一番の見どころが島原城である。現在復元された天守閣がキリシタン資料館になっている。
まづは、Wikipediaによるお勉強。
島原城(しまばらじょう)
長崎県島原市城内にあった日本の城である。別名、森岳城、高来城。
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。
江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。
明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。
島原駅からずっとお城に向かって登っていくと、石垣の美しい三層の櫓が見える。実はこれは、民具資料館である。後から確認して分かった。ここも内部を見損ねている。 後述するが、お城見学では迂闊なことばかりしていたのだ。
そこを左に折れると、沢山の幟が立てられている城壁が見える。その奥のやはり3層の櫓が、西望記念館である。
城の堀
城の石垣は、このように段差で連なっており見事である。
同じく幟の写真。
例によってお城の写真集です。 天守閣を望む写真その1。
その2。
お城の入り口につながる城壁。
これは、西の櫓。
天守閣を望む写真その3。
その4。
幟と鯉のぼり。同じのぼりだが、何の関係もない。
島原城前の広場にて、天草四郎および誰かとのスリーショット。
(長崎県) | |
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本丸
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別名 | 森岳城、高来城 |
城郭構造 | 連郭式平城 |
天守構造 | 独立式層塔型4重5階(1626年築 非現存) 独立式層塔型5重5階(1964年RC造復興) |
築城主 | 松倉重政 |
築城年 | 寛永元年(1624年) |
主な城主 | 松倉氏、松平(深溝)氏 |
廃城年 | 明治3年(1871年) |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | 島原市史跡 |
再建造物 | 天守・丑寅櫓・巽櫓・西櫓(外観復元) |
位置 | 北緯32度47分21.18秒 東経130度22分2.15秒座標: 北緯32度47分21.18秒 東経130度22分2.15秒 |
島原城(しまばらじょう)
長崎県島原市城内にあった日本の城である。別名、森岳城、高来城。
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴である。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。
江戸時代は島原藩の政庁であり藩主の居所であった。
明治以降は廃城処分となり建物などは撤去され、現在は本丸に天守・櫓・長塀が復興され、城跡公園となっている。
島原駅からずっとお城に向かって登っていくと、石垣の美しい三層の櫓が見える。実はこれは、民具資料館である。後から確認して分かった。ここも内部を見損ねている。 後述するが、お城見学では迂闊なことばかりしていたのだ。
そこを左に折れると、沢山の幟が立てられている城壁が見える。その奥のやはり3層の櫓が、西望記念館である。
城の堀
城の石垣は、このように段差で連なっており見事である。
同じく幟の写真。
例によってお城の写真集です。 天守閣を望む写真その1。
その2。
お城の入り口につながる城壁。
これは、西の櫓。
天守閣を望む写真その3。
その4。
幟と鯉のぼり。同じのぼりだが、何の関係もない。
島原城前の広場にて、天草四郎および誰かとのスリーショット。
左は天草四郎だが、右は島原の乱における、四郎の戦闘服バージョンだと思える。
天草 四郎(あまくさ しろう)
元和7年(1621年)? – 寛永15年2月28日(1638年4月12日)は、江戸時代初期のキリシタン。
島原の乱の指導者とされている。
本名は益田四郎(ますだ しろう)。諱は時貞(ときさだ)。
洗礼名は当初「ジェロニモ」だったが、一時表向きな棄教をしたためか、島原の乱当時は「フランシスコ」だった。一般には天草四郎時貞という名で知られる。
お城の前では、お奉行様とか忍者のコスチュームで観光客を出迎えてくれる。
島原城の観光案内人(がまだす隊)の皆様です。
島原城由来の看板。
入城料は、大人540円 小人270円である。天守閣、西望記念館、観光復興記念館の3館共通である。私は、あわてていた訳でもなんでもないのに、西望記念館、観光復興記念館および民具資料館を見逃してしまったのである。意識にも昇らなかったのである。 西望記念館の方は、返す返すも残念である。
これがパンフ。四つ折りで、その表紙と裏面。
その内面で、島原城内の説明。
キャッチコピー
安土・桃山様式の壮麗な面影を残す島原城
天守閣は、 独立式層塔型5重5階 になっている。鉄筋コンクリート製です。
1階は、キリシタン資料館になっている。幾つかの展示物を見ていく。
島原藩の大砲
1階は、キリシタン資料館になっている。幾つかの展示物を見ていく。
島原藩の大砲
島原城の絵図。
使徒像とマリア像。 右のマリア像は、象牙製である。
島原の乱を描く絵画。
島原の乱(しまばらのらん)
江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末より前では最後の本格的な内戦である。島原におけるキリスト教再興を目的とした一揆だった。島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。 (by Wikipedia)
天草四朗陣中旗
2階の郷土資料展示のパートでは、このような甲冑類や刀剣、鉄砲なども展示されている。
5階が天守閣・展望所になっていて、このような景色を展望することができる。
眼の前にある山が眉山。
島原市内
中央の川が、大手川。
眉山の奥に雲仙岳が広がっており、その周辺で平成2年から5年間の噴火が続き、溶岩ドームが現れた。平成新山の誕生である。
城内に貼られていた平成新山のポスター。
平成新山の写真
島原市の広報より。
島原市は、小浜町(現 雲仙市小浜町)とともに、平成2年からおよそ5年間の噴火によって形成された新たな溶岩ドームを「平成新山」と名付け、長く続いた災害と新たな復興の記念としました。(平成8年5月20日)
平成8年8月に国土地理院が測定した平成新山の標高は1486mでしたが、その後の崩落等により、現在の山頂の標高は1483mとなっています。
平成新山は、平成16年4月5日に国指定の天然記念物に指定されました。
天守閣を降りて、城公園に出たのだが、そこに沢山の彫像が展示されていた。
結局西望記念館は見損ねたのだが、屋外に展示されていたその作品群はチャンと写真に収めたのである。
北村西望は、長崎の平和祈念像でも有名な彫刻家である。無論、私でさえ知っている。
北村西望(きたむら せいぼう)
生年月日: 1884年12月16日
生まれ: 長崎県 南島原市
死没: 1987年3月4日
日本の彫刻家。本名は北村 西望。 日本を代表する美術家のひとり。代表作に大作の「長崎平和祈念像」がある。文化勲章受章、文化功労者顕彰、紺綬褒章受章。日本彫刻会では西望の功績を称え同会展覧会における最優秀作品に「北村西望賞」の名を冠している。(by Wikipedia)
日蓮上人像
はい。 すみません。
以下作品名は省略。
天草四郎
島原城 御馬見所
城内での藩士の訓練状況を見る視察所として使われていた。国の有形文化財。
鐘つき堂
天守閣を望む写真その5。
西の櫓。
この建物を西望記念館と間違えて、観覧後はすっかりその事を忘れてしまったのである。
その中に展示されていたお人形さんやこけし。日本各地のお城の絵も展示してあった。
最後に、天守閣を望む写真その6。
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