かって学内政治家で、私の属していた弱小集団を牛耳り、ボスたろうとして執拗に私を攻撃してくる教授がいて、その対応は難渋を極めた。その記憶は、殆どトラウマになっていたが、幸い定年前に病気で倒れ、その攻撃は止んだ。(その政治家と一緒になって、私を攻撃した人への恨みは、今だに消えていない。時々夢にもでてくる。クソッタレである。)
しかし、依然として学部では2級市民でしかない我々のグループは、というより気にくわない私に対して、イジメや嫌味という攻撃を数名(約3名)の教授から受け続けていた。
ある人はにこやかな顔で近づき、私から情報収集(学問ではないよ)をしてから、必ず私に嫌味な言葉を投げつけて満足するである。
別の人は、教育や学内自治について高邁な自説を述べたのちに、こちらへの非難を冗談まじりに延々と繰り返すのである。
また別の人は、あらかさまに私をコントロールしようとして、それが無理なのがわかると村八分対応であった。こちらとしては、それは有難かったのだが、暇な人がいてわざわざ私に対する悪口を伝えてくれる。聞くのは腹立たしい限りで、気分は最悪というやつだね。
その教授方は、大学内では偉くなりました。権力者は、権力の使い方を知ってるんだね。
とかく学内ではイジメを受けつづけていたのだが、それを緩和してくれる味方はいなかった。
孤立無援です。そんなのが、20年くらい続いていたのだ。
まあ、こんな事は宮仕えの世界では当たり前なのだろう。
一言加えておくと、大方は立派な研究者だったが、こんな権力志向の教授もいたということです。
それで、そんなのは無視して学問の世界で頑張っていたつもりであった。
ここは比較的イジメは少ない。それでも嫉妬が理由と思われるイジメや嫌味の数々は受けた。
全て人間関係から来るものである。
大体私に近づく人は、利用しようとするか、自分の偉さを喋る相手として私を認めているだけだ、という不幸な、だが正しい認識に到達していたのである。
真に優秀な人間はイジメなどしないし威張らない(そんな暇はない)、イジメをしたり威張るのはそうでない人ばかりであるという認識も得て、少しは気分を持ち直していたが。
そんな人間関係は定年で全て無くなってしまい、せいせいして世界は明るくなったのである。
もうそんな世界には戻りたくない。嫌な人付き合いはしたくないのだ。他人に気を使うのはもうマッピラです。
40年以上働いたのだから、再就職はしたくない。お勉強をして気儘に遊ぼうと思った。
しかし、退職すれば研究環境は歴然と悪化し、研究へのプレッシャーも無くなり、従って能力の退化が始まり自己充足が難しくなっていく。それが社会活動から離れるという事なのだ。悲しいことだが、受け入れるしかないというのが現状である。
一昨日、ベッドから落ちて背中と腕に擦り傷を作った。夢の中で、かっての研究仲間から
「お前は、定年後研究発表してないでないか!」
という非難を受け、余りの情けなさと口惜しさで悶々としてベッドから転げ落ちたのであった。
勿論これは事実でない。私の意識の作った夢である。誰もそんなことは言わぬ。
再就職先を探さなかった自分に対する非難が含まれているのだ。再就職など老害でしかないという正しい認識はあったのだけどね。
それに対する自己弁明(言い訳)が、この長い前書きである。
まあこんな下らんことを書いて自分を慰めたくなる時もあるさ、で今回は地元神社仏閣シリーズの兵庫柳原恵比寿神社、正式名蛭子神社である。
真夏の蒸し暑い日である。ワイフのピンチヒッターで、垂水の息子の店の皿洗いに行った、その帰りに取材したのだ。きっかけは、記事 鳴門香川訪問記 VI 譽田神社 で
神戸の兵庫区にも蛭子神社があるが、関連はなさそう。
神戸の蛭子神社は、近々紹介する予定である。
などと書いたので、責任を果たすべく出かけたのである。
JR兵庫駅で下車。うあ~暑い。たまりません。
線路沿いに5分ほど歩いた所に、兵庫柳原恵比寿神社がある。
ここでWikipediaによる神社紹介。
蛭子神社 | |
---|---|
社殿 | |
所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区西柳原町5-20 |
位置 | 北緯34度40分10.1秒 東経135度10分5.3秒 |
主祭神 | 蛭子大神、大物主大神 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 十日戎大祭(1月9~11日) 例祭(4月10日) |
主な神事 | 戎舞奉納神事(1月9日) |
蛭子神社(ひるこじんじゃ)
兵庫県神戸市兵庫区の神社。通称、柳原えびす。
福海寺と神社との間の道路には西国街道の兵庫の出入り口で、東の湊口の惣門と同じく西の柳原惣門があった場所とされている。 兵庫七福神の一人、恵比寿が祭られている。
地元では、柳原のえべっさんと呼ばれている。良く知られている神社だが、規模はそれほど大きくない。 またご存じの様に、蛭子神=えびす様 なんですよね。
神社のホームページにある説明:
兵庫のまちは平安時代の昔から「大輪田泊」と呼ばれる良好な港のあるまちとして知られていました。
平清盛の時代には、中国・宋との貿易の拠点として港の大改修工事が行なわれ、福原には一時都がおかれた事もあります。後に兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれるようになり、海陸要衝の地として発展していくことになります。
兵庫津の道、西国街道という古い歴史を持つ柳原の中心に蛭子神社は建立されています。
元禄5年(1691)、兵庫津の「寺社改帳」に神社のことが記されていることから、元禄以前から祀られていたことがわかります。
御祭神:
蛭子大神(ひるこのおおかみ=えびす様)
大物主大神(おおものぬしの神=大黒様)
えびす様は、我々に親しまれている神だが、古事記等の日本の古典・神々の系譜には、その姿を現していない。御神格が不明の神様なのです。
しかし、鎌倉時代には 、ヒルコ神がえびす神という認識がなされていたようだ。
蛭子神社御神影(おみえ)に描かれたのえびす様
境内は、このようになっている。
兵庫の歴史の古い神社なのです。現在の様子を写真で見ていこう。
大鳥居
神社の石碑
常夜灯 悪ガキがいるんだろうね。きけんですからのぼってはいけません の標識が掛けられている。 奥にみえるのが御社殿。
御社殿
平成22年(2010)に造営された社殿は本殿(流れ造)、拝殿(千鳥唐破風造)、主たる構造はRC(コンクリ製)であるが、屋根は木造銅板葺き、内装も木造で仕上げている。(ホームページより)
手水舎
神楽殿 十日えびす大祭では、ここでお神楽を執り行う。
拝殿の正面
その額
神楽殿から拝殿を拝む。
狛犬
もう一つの出口方面にある鳥居
末社の西本稲荷神社
その額 「正一位 西本稲荷大明神」
鈴、しめ縄と共に、大提灯も飾られていた。
お狐様
他の画像は省略。
今回はこれでおしまい。
今日は、再びワイフのピンチヒッターで息子の店の皿洗いに行くのだ。趣味のお勉強は増々できなくなる。一層の退化が進むのである。そういえば、昔時間遅れ方程式について退化の理論というのを作ったが、それによると、ある時間で退化した空間に入りこんでしまい、未来永劫それっきりになるというのが結論である。自励系ではそうなりやすい。我が事のようである。
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