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2015年8月3日月曜日

兵庫柳原 福海寺

前回兵庫柳原恵比寿神社を紹介したが、今回は、道路を隔ててそのお隣にある福海寺である。
柳原恵比寿神社

 
福海寺の祀り神は大黒天である。
 
 
恵比寿神社えびす様と合わせて、えびす大黒となる。
安い魚料理を食べさせてくれる、寿司屋居酒屋のチェーン店ではない。そういえば最近飲みに行ってない。孤独のグルメも、とんと実行せずだ。日々の業務をこなすだけでアップアップである。西行法師の心境からは遠ざかる一方なのだ。 一人花見

つい下らん愚痴を書いてしまった。

さて、Wikipedia により福海寺の情報を入手する。もはやWiki依存症で、これがないと記事を書いていても不安になる。


福海寺
Fukukaiji2027.JPG
雲會堂
所在地兵庫県神戸市兵庫区西柳原町10-10
位置北緯34度40分11.99秒
東経135度10分5.03秒
山号大光山
宗派臨済宗南禅寺派
寺格諸山(永禄八年・和漢禅刹次第)
本尊釈迦如来
開基足利尊氏、在庵圓有(開山)
正式名大光山 福海興国禅寺
別称柳原大黒天
札所等福原西国33箇所23番
兵庫七福神(大黒天)


福海寺(ふくかいじ)

兵庫県神戸市兵庫区にある足利尊氏が開いた、臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺院。
山号は大光山。正式には「大光山福海興国禅寺」という。
本堂には尊氏書の「福海興国禅寺」の扁額が掛かる。(足利義満も「大光山福海寺」の扁額を書いている。)
明治の初め頃まで、堀と堤で囲まれた福海寺境内は枡形を構成し兵庫津(兵庫城)の柳原総門の防備の役割をしていた。
本尊は釈迦如来大黒天を安置しており柳原大黒天として信仰され、昔から毎年1月9-11日の柳原十日えびす大祭の大黒祭には大勢の参拝客で賑わう。

そうなのである。足利尊氏が康永三年(1334年)に福海寺を開いたのである。
 
史実によると、
 
京都合戦に敗れた尊氏が西国に逃れる途中、新田義貞の兵に追われ、福海寺の前身である針が崎観音堂に隠れて難を逃れた。
その後幕府を開いた足利尊氏がその報恩もあって福海寺を開いたという。
 
寺の歴史と大黒天との由来としては、つぎのように記載されている:
 
1344年(康永3年)に足利尊氏が在庵圓有(現在の兵庫県御津町室津の出身)を京都西賀茂の正伝寺(諸山)より招聘して創建し、足利義満はじめ足利歴代将軍に尊崇された。
五山制度内での格式は諸山。
福海寺に大黒天が祀られているのも足利氏の大黒天信仰があるが、大国主の子孫である、賀茂氏と福海寺が深く関係のあったことにも由来すると言われている。
 
説明するまでもないと思うが、足利尊氏のWikipediaデータ。
 
足利 尊氏
Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg
伝足利尊氏像(浄土寺蔵)
時代鎌倉時代末期 - 室町時代初期
生誕嘉元3年7月27日(1305年8月18日)
死没正平13年/延文3年4月30日(1358年6月7日)
改名又太郎(幼名)、高氏→尊氏
戒名等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿
墓所京都府京都市北区萬年山等持院
神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺
官位従五位上、鎮守府将軍、従四位下、左兵衛督、従三位、武蔵守、正三位、参議、征東将軍、従二位、権大納言、征夷大将軍、正二位、贈従一位、贈左大臣、贈太政大臣
幕府室町幕府初代征夷大将軍(在任:1338年 - 1358年)
主君北条高時→後醍醐天皇
氏族足利氏(足利将軍家)
父母父:足利貞氏、母:上杉清子
兄弟高義、尊氏、直義
正室:赤橋登子
側室:加古基氏の娘、越前局ほか
竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王、他


足利 尊氏(あしかが たかうじ)

鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。
足利将軍家の祖。

私は顔付までは、はっきり記憶していなかった。さらに詳しくは、このページを参照:足利尊氏のホームページ

さて、福海寺を写真紹介する。
 
雲海堂 本堂である。
 
 
堂前には、大黒尊天の題字が掲げられている。
 
 
開基である足利尊氏の石碑
 
 
 
閉錠されており、本堂には入れなかったのだが、ここには尊氏書の「福海興国禅寺」の扁額が掛かっているそうだが未見。検索してみたが、発見できず。誰も写真には撮らないんだね。
 
このお寺は、平清盛公ゆかりのお寺でもある。
 
境内にある「清盛公遺愛の時雨の松」碑
 
 
その説明碑。 上の石碑だけでは、何だかわからないものね。
 
説明板
 
このように書かれている:
 
平清盛遺愛の時雨の松は、兵庫区三川口町にありました。
青葉から玉露をたらし、霊験あらたかであったといいます。
同所に有った兵庫最初の庚申堂と共に清盛の信仰を受けておりましたが、
太平洋戦争の火災により枯れてしまい、残っていた切り株も
阪神大震災で無くなってしまいました
現在は石碑のみが福海寺にあります。


神戸では、多くの物が震災で失われてしまったのだ。万物はやがて消滅する。無限の命を持つものはない。

 
境内にあるお地蔵様の祠


寺内社の義高稲荷大明神の鳥居と社 



木曽義高を祀っていると思われるが、はっきりしない。

 
お寺の壁面にこのような錦絵が掛かっている。太平記合戦図である。尊氏が観音堂に避難する様子が描かれている。
 
 
こんな錦絵を見ると、同様の絵画を探したくなる。それで見つけたのが、つぎの画像。
兵庫の湊での合戦の様子だね。
 
歌川国芳 「太平記兵庫合戦」



歌川芳鶴「足利尊氏兵庫合戦図」  
 
 
そう言えば、3年前にこんな記事が新聞に載った。

某大学運動部の男子学生が、神戸市の福海寺でアルバイト中に下半身を露出して接客した画像がインターネット上に流出した。大学側は「本学の理念に反する行為」として、ラグビー部を13日付で無期限活動停止とする処分を決定。

お寺は神聖な場所である。くれぐれもこんな馬鹿なことはしないように。

今回は、これでおしまい。

 

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