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2015年9月10日木曜日

五色塚古墳

  
恒例の神戸名所案内である。今回は、五色塚古墳を紹介したい。昨日垂水に行って息子の店のお手伝いを済ませてから、取材に出かけた。と言っても実際は、写真を撮りに行っただけ。

神社巡りをするようになって、古代の人々の生活に興味が起り、古墳にも興味が出てきた訳です。以前は全く興味がなかったので、不思議なもんです。やっぱり年齢のせいかね。 仁徳天皇陵古墳

古事記のこんな世界ですね。

天照大神

五色塚古墳へは、JR垂水駅から西側に歩いて10分少々なのだが、山陽電車を利用すれば霞ヶ丘駅で下車5分くらいの距離にある。


長い間降りたことはなかったので、こんなに立派な構えの駅になっているとは知らなんだ。駅自体は、昔ながらの狭いホームである。

ここから線路沿いを山側に向かって歩く。

まづ最初に遭遇するのが、小壺古墳である。五色塚古墳のお隣にある。芝生の生い茂ったこんもりとした小山という感じである。


柵と石碑がなければ、古墳と思わずに通りすぎてしまう(私が)。



神戸市教育委員会は、学童のためにこの古墳の解説を行っている。神戸の名所旧跡巡りを始めて分かったのだが、教育委員会の掲示板がそこかしこに設置されている。神戸市の教育委員会は偉いと思ったのであった。


Wikipediaの解説(掲示板とほぼ同じ)より:

小壺古墳は、直径67メートル、高さ約9メートルの円墳である。
墳丘は二段に築かれ、墳頂部と墳丘斜面のテラス面には、埴輪が並べられており、多くのヒレ付円形埴輪と家形埴輪が数体分が発見された。
東側に隣接する五色塚古墳と異なり、斜面には石は葺かれていなかった。また、濠の中には、土橋が設けられている。
築造時期は、埴輪の形などから、五色塚古墳とほぼ同じ5世紀初め頃と推定されている。
 

これが、史跡 「五色塚(千壺)古墳・小壺古墳」 の石碑である。国指定の史跡になっている。




その入り口。見学者は、私以外に1名のみ。事務所に立ち寄り、見学者名簿に記載してから見学する。無断入場しても別に怒られないが、午後5時で閉鎖するのでそれまでに退場すること。


管理人のおじさんに伺ったのだが、インターネットのお蔭で五色塚古墳も良く知られるようになり、最近も東京や神奈川から学生さんが見学に来たそうだ。確かに仁徳陵ほどは、有名ではないが古墳の中に入れるというのは大きなメリットである。

古墳をかたどった石碑。そのお左隣は、出土した鰭付円筒埴輪のレプリカ。


神戸市教育委員会による解説板。



ここで、いつもの如くWikipediaにより五色塚古墳の基礎情報をゲット。

五色塚古墳
Goshikizuka-kofun 3.jpg
五色塚古墳(1985年)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
所在地兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目
位置北緯34度37分47.47秒
東経135度2分45.18秒
形状前方後円墳
規模墳丘長194m
高さ18m
築造年代4世紀末-5世紀初頭
被葬者(推定)播磨地方の首長
出土品円筒埴輪
史跡指定国の史跡「五色塚(千壺)古墳・小壺古墳」
特記事項兵庫県第1位の規模
佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と同形
『日本書紀』神功皇后紀に記述
前方部
後円部
後円部墳丘
夕暮れの後円部
五色塚古墳のステレオ空中写真(1979年) 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成


五色塚古墳(ごしきづかこふん)

兵庫県神戸市垂水区にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。
別名「千壺(せんつぼ)古墳」。播磨地方ひいては兵庫県最大の規模で、築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。

墳丘は前方部を南西に向けた三段構築の前方後円墳で、全長194メートル、高さは前方部で11.5メートル後円部で18メートル、墳丘は葺石で覆われている。兵庫県下最大の古墳である。

五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。

古墳は三段に築かれ、一番下の段の葺石は付近のものであるが、上二段の葺石は淡路島東側で産出するものである。

黒く見える写真中央の二段の葺石です。淡路島から運んだわけで、相当の財力を持った豪族の墓とわかる。



パンフ(神戸市教育委員会作成)




パンフには、発掘調査や復元整備についての説明がある。上の写真を見て欲しい。

調べてきた薀蓄話に移る。

古墳は、全体が角の取れた拳大の河原の石で被われている。これが所謂葺石と呼ばれるものである。


左側の白い石垣と右側の黒い石垣が、葺石で覆われている。白い葺石は、復元の際新たに運びいれたもので、淡路島出自のものではない。



この墳墓は天皇家のものではなく、淡路島を含むこの地区一帯を支配していた豪族の墓と考えられている。『日本書紀』では、仲哀天皇の偽の墓とされ、葺石は淡路島から運んだと記載されている。

その文章:

「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」

復元整備:

 第二次大戦中は、古墳に生えている松を船材としたり、その根から油を採取しており、戦後は食糧難から開墾され荒廃していた。



1965年(昭和40年)から1975年(昭和50年)の整備事業により、造られた当時の様子に復元されている。表面には葺石が約223万個敷き詰められているが、前方部のものは発掘された葺石を利用し、後円部のものは新たに入れたものである。

整備事業時

五色塚古墳管理事務所のホームページから要約引用:

現在の復元された部分の写真は、私が写したもの。

前方部の復元
 
前方部は、築造当時の葺石が残っているところはそのまま保存し、葺石の残っていないところは落下した石を集めて葺きなおし、築造当時の姿に復元しました。
また、東・西隅は電車の軌道で切断されているため復元できませんでした。
     
 

当然だが、古墳は見晴らしの良い所にある。現在では明石大橋が見える。

 

前方部の左側。こちら側からも登れるようになっていたが、現在は閉鎖。

 
・後円部の整備
 
後円部は、造られたときの形を保護するため、築造当時の形の上に盛土を行い、浸透水を防止するため、その上に石灰と真砂土を混合した土でおおい、石を噴き上げています。前方部と違った工法を採用したため、築造当時の形よりも後円部全体が50㎝高くなっています。また、後円部に使用した葺石は、新しく購入したものです。


後円部の頂上。埴輪がその頂上を取り囲むように円型に並べられている。

 
 
説明板によると、五色塚古墳は、上段・中段の小段と墳頂の3段に埴輪が並べられていて、いずれも10mに18本の割合でたてられており、古墳全体では2200本もの埴輪がめぐらされていたと推定されている。

埴輪の大部分は鰭付円筒埴輪で数本に1本の割合で朝顔形の埴輪がたてられている。
 埴輪列の復元にあたっては、後円部墳頂のみに鰭付円筒埴輪朝顔形埴輪を合成樹脂で復元した埴輪をめぐらせました。

 
 

・下段と堀の整備
 
下段は、直径5~10㎝の石が葺かれていました。復元してもすぐ落下してしまうおそれがあったため、築造当時の葺石の上に盛土をして芝張りを行いました。
堀は、築造当時も空堀で、復元は不可能で法面に芝張りを行うにとどめました。


堀の一部

後円部から見た下段。向こうに見えるのは、小壺古墳




後円部からみた景色。前方部の全体が見える。 


 
 このような掲示板もあり、墓に葬られた人物は明石海峡を中心とした地域を支配した豪族とされる。


江戸時代には、司馬江漢はじめ様々な文人がこの古墳を訪づれている。江戸時代の文献によると、石棺が見えていたと記されている。墓の盗掘も行われていたようである。 

前方部からみた後円部。 



 ここで、またもや電波状況が悪くなり、文章作成が困難となった。まだまだ書きたいことはあったが、今回はこれでおしまいにする。 
 

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