神社巡りをするようになって、古代の人々の生活に興味が起り、古墳にも興味が出てきた訳です。以前は全く興味がなかったので、不思議なもんです。やっぱり年齢のせいかね。 仁徳天皇陵古墳
古事記のこんな世界ですね。
天照大神
五色塚古墳へは、JR垂水駅から西側に歩いて10分少々なのだが、山陽電車を利用すれば霞ヶ丘駅で下車5分くらいの距離にある。
長い間降りたことはなかったので、こんなに立派な構えの駅になっているとは知らなんだ。駅自体は、昔ながらの狭いホームである。
ここから線路沿いを山側に向かって歩く。
まづ最初に遭遇するのが、小壺古墳である。五色塚古墳のお隣にある。芝生の生い茂ったこんもりとした小山という感じである。
柵と石碑がなければ、古墳と思わずに通りすぎてしまう(私が)。
神戸市教育委員会は、学童のためにこの古墳の解説を行っている。神戸の名所旧跡巡りを始めて分かったのだが、教育委員会の掲示板がそこかしこに設置されている。神戸市の教育委員会は偉いと思ったのであった。
Wikipediaの解説(掲示板とほぼ同じ)より:
小壺古墳は、直径67メートル、高さ約9メートルの円墳である。
墳丘は二段に築かれ、墳頂部と墳丘斜面のテラス面には、埴輪が並べられており、多くのヒレ付円形埴輪と家形埴輪が数体分が発見された。
東側に隣接する五色塚古墳と異なり、斜面には石は葺かれていなかった。また、濠の中には、土橋が設けられている。
築造時期は、埴輪の形などから、五色塚古墳とほぼ同じ5世紀初め頃と推定されている。
これが、史跡 「五色塚(千壺)古墳・小壺古墳」 の石碑である。国指定の史跡になっている。
その入り口。見学者は、私以外に1名のみ。事務所に立ち寄り、見学者名簿に記載してから見学する。無断入場しても別に怒られないが、午後5時で閉鎖するのでそれまでに退場すること。
管理人のおじさんに伺ったのだが、インターネットのお蔭で五色塚古墳も良く知られるようになり、最近も東京や神奈川から学生さんが見学に来たそうだ。確かに仁徳陵ほどは、有名ではないが古墳の中に入れるというのは大きなメリットである。
古墳をかたどった石碑。そのお左隣は、出土した鰭付円筒埴輪のレプリカ。
神戸市教育委員会による解説板。
ここで、いつもの如くWikipediaにより五色塚古墳の基礎情報をゲット。
五色塚古墳 | |
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五色塚古墳(1985年) 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成 | |
所在地 | 兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目 |
位置 | 北緯34度37分47.47秒 東経135度2分45.18秒 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長194m 高さ18m |
築造年代 | 4世紀末-5世紀初頭 |
被葬者 | (推定)播磨地方の首長 |
出土品 | 円筒埴輪 |
史跡指定 | 国の史跡「五色塚(千壺)古墳・小壺古墳」 |
特記事項 | 兵庫県第1位の規模 佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)と同形 『日本書紀』神功皇后紀に記述 |
五色塚古墳(ごしきづかこふん)
兵庫県神戸市垂水区にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。
別名「千壺(せんつぼ)古墳」。播磨地方ひいては兵庫県最大の規模で、築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。
墳丘は前方部を南西に向けた三段構築の前方後円墳で、全長194メートル、高さは前方部で11.5メートル、後円部で18メートル、墳丘は葺石で覆われている。兵庫県下最大の古墳である。
「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。
古墳は三段に築かれ、一番下の段の葺石は付近のものであるが、上二段の葺石は淡路島東側で産出するものである。
黒く見える写真中央の二段の葺石です。淡路島から運んだわけで、相当の財力を持った豪族の墓とわかる。
パンフ(神戸市教育委員会作成)
パンフには、発掘調査や復元整備についての説明がある。上の写真を見て欲しい。
調べてきた薀蓄話に移る。
古墳は、全体が角の取れた拳大の河原の石で被われている。これが所謂葺石と呼ばれるものである。
左側の白い石垣と右側の黒い石垣が、葺石で覆われている。白い葺石は、復元の際新たに運びいれたもので、淡路島出自のものではない。
この墳墓は天皇家のものではなく、淡路島を含むこの地区一帯を支配していた豪族の墓と考えられている。『日本書紀』では、仲哀天皇の偽の墓とされ、葺石は淡路島から運んだと記載されている。
その文章:
「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」
復元整備:
第二次大戦中は、古墳に生えている松を船材としたり、その根から油を採取しており、戦後は食糧難から開墾され荒廃していた。
1965年(昭和40年)から1975年(昭和50年)の整備事業により、造られた当時の様子に復元されている。表面には葺石が約223万個敷き詰められているが、前方部のものは発掘された葺石を利用し、後円部のものは新たに入れたものである。
整備事業時
五色塚古墳管理事務所のホームページから要約引用:
現在の復元された部分の写真は、私が写したもの。
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