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2015年10月5日月曜日

壮烈な美食家 古川ロッパ

コメディアンの古川ロッパは、大の美食家・健啖家、読書家、そして日記魔であった。


ふるかわ ろっぱ古川 ロッパ
古川 ロッパ
本名古川郁郎
別名義古川緑波
生年月日1903年8月13日
没年月日1961年1月16日(満57歳没)
出生地日本の旗 日本・東京府東京市麹町区
職業俳優、コメディアン、エッセイスト
ジャンル舞台、映画
著名な家族加藤照麿(実父)
古川武太郎(養父)
古川清(息子)

古川ロッパ(ふるかわ ろっぱ)(1903年8月13日 - 1961年1月16日)

東京生まれ。早稲田大学英文科中退後、文藝春秋社「映画時代」の編集に携わり、映画・演劇批評の筆をとる。昭和7年喜劇俳優に転身。昭和8年徳川夢声・大辻司郎らと「笑の王国」を結成。同10年には早くも「ロッパ一座」を組み、以後敗戦に至るまでロッパ・エノケンと並称される黄金時代を築いた。

日記については、古川ロッパ昭和日記が出版されており、青空文庫でもWeb上で読める。


昭和9年の日記より:

十月六日(土曜)

 
 雨、寒くなった。座へ出る。「ガラマサ」相変らず気がいゝ。一回終ってすぐ、講談社へ呼ばれ、例の如きヘンテコな速記をとられる、まるで警視庁の調べ室だ。金がある時ならこんなの断はっちまふんだが――何しろ貧なので。而も今日は帰りに金をよこさず、くさる。西村小楽天とポンチ軒へ寄りカツレツを食ふ座へ帰ると表で配役してる。渡辺が一本だから、こっちも一本にして呉れと言ってみたが、「二つのネクタイ」のアルバースと、「青春音頭」に、何と有閑マダムをやることになった。四十近い女ださうだ、これは自信がある。夜の部終って、友田等と日本館へ「空襲と毒瓦斯」“I Was a Spy”を見た、前半で草疲れて出る。英国トーキー、芸のないもので材料のまゝ見る感じがいやだった。
 下谷御徒町ガード傍のポンチ軒、名は古くからきいてゐたが、初めて行くと、カツレツ、ビフシチュウその他二三、メニューはそれだけ。カツレツは生パン粉で、よくあがってゐる、之はいたゞける。ビーフシチュウは、軟くよく出来てはゐるが、安いブラウン・ソースの味がいけない。こゝのカツレツは、ソースもいゝが、卓上に出てるケチャップで食ふとよさゝうだ。

西村小楽天


彼の日記にも伺われるように、彼は無類のグルメであった。美食に並々ならぬ情熱を傾けている。
この日は、カツレツビーフシチュウの2種類を一度に食べたようだ。

ポンチ軒は、現在も営業している。そのカツレツビーフシチュウの画像。うまそうですね。



ロッパの食べたものと、それ程の違いはないと思える。

今回は、彼のグルメとしての観点から記事を書きたい。

Wikipedia の記事より引用する。

晩年には、『ロッパ食談』や『悲食記』を出している。それだけに戦時中の食糧事情の悪化には悩まされ、あらゆる伝手を用いて美味を追い求めている。それだけに悲惨な食事に対しては、

何たる東京!ああもう生きていてもつまらない……涙が、出そうな気持。食うものがなくなったからとて自殺した奴はいないのかな

と深刻な思いを述べている。彼の美食癖は晩年まで続き、経済的に苦しい状況になっても止めることはなかった。
          
文庫本の ロッパ食談 完全版 (河出文庫) には、食に関する薀蓄話が山盛りである。                    



内容は、3部に分かれている。その目次。


 
I  悲食記 昭和十九年の日記抄

II 食談あれこれ
想い出
氷屋ぞめき
清涼飲料
駄パンその他
うどんのお化け
下司味礼賛
食べたり君よ
牛鍋からすき焼きへ
甘話休題
色町洋食
ああ東京は食い倒れ
冨士屋ホテル
神戸
このたび大阪
八の字づくし
浅草を食べる


III  食日記 昭和三十三年の日記抄



第一部が面白く、大戦末期でも美食にこだわるロッパの悲惨な姿が描かれている。食糧事情がよいロケ先の農村から大量の食糧を持って帰る話や、闇の食べ物についても書かれている。

昭和9年

十二月二十六日(水曜)

 
 九時に起きて、江戸川の講談社へ、三益愛子と行き、講談倶楽部のため万才の写真をとる、来年の三月号だから可笑しい。ツナシマで理髪し、舟和でチョコレートアイスクリームソーダをのむ、宿酔気味で色々水分を欲する朝だ。座へ出てひるの部を終ると、講談倶楽部へ今日の万才の原稿四枚書いた。大阪屋のビフテキと飯、森永のハンバクサンド。夜の部終ると、オーゴンレコードの田口勝三郎来り、サロン春のクリスマスに招かれた。


三益愛子 川口松太郎の妻

 

チョコレートアイスクリームソーダ (画像なし。写真は類似のチョコパフェ)
 
 
 
ビフテキハンバーグサンド(但し、大阪屋と森永のではない。)
 
 



 
戦中でも、ロッパはつてをたどって戦中とは思えないほどの美食をしている。世間では肉が手に入らなくなったい時代なのだが、ロッパは肉も白米も結構レストランで食べている。お酒の方もかなり飲んでいる。ある所にはあるのである。

第二部では、食に関する想い出話や和食洋食中華料理の蘊蓄話が書かれてある。また、滞在中の冨士屋ホテルのメニューを上から下まで全部平らげたりしている。

冨士屋ホテル


第三部では、人気は凋落し病気に苦しみながら、あちこちの店で美食を追いもとめる日々が記されている。苦境であっても食に対する欲望が全く衰えていないロッパの声が生々しく書れている。全く、食い意地の張りようが半端ではないのである。



 美食家になった経緯

ロッパが学生時代、菊池寛に西銀座の一流レストランで西洋料理をおごってもらい、その美味さに感動、

ああいう美味しいものを、毎日食える身分になりたいそれには、何しても千円の月収が無ければ駄目だぞ

と発奮する。

その結果時代を代表するコメディアンとなり、古川緑波一座を率いて大活躍し、お金持ちにもなったのである。二重アゴの福々しいお顔を見てください。この時は、横暴な一面も見せている。


左から横山エンタツ、秋田實、古川ロッパ(1935年撮影)



そして戦中からつづく美食生活を追求し、戦後となる。

この頃より長年の美食・鯨飲馬食が祟ったことによる持病の糖尿病の悪化に加え、あらたに結核を患い、体調の悪化と戦いながらの活動が続いた。その一方では金銭感覚に乏しく、食事や遊興に浪費するだけでなく、劇団経営の出費がかさみ、戦後には税金対策に無頓着なたこともあって、晩年は借金まみれでその日の暮らしにも困る有様だった。

舞台出演中に倒れ、1961年1月3日東京順天堂病院に入院。16日午前11時55分に肺炎と全身衰弱で死去した。57歳であった。

ロッパ死去の報を伝える新聞記事の扱いは小さく、往年の人気を知る者には寂しい哀れな最期だった。

ロッパは、美食のみならず、飲酒・喫煙を病気になってもやめられない、意志の弱い人間でもあった。ロッパの様に有名人ではないが、糖尿病の私は他人事ではないぞと思ったのであった。
これでおしまい。

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