平尾誠二はラグビー界を代表する人物となり、病に倒れたとはいえ充実した人生を生き抜いた。
本当にかっこいい人でしたね。ラガーマンのみならず、一般人にとっても憧れの人でした。
三笠宮様は、戦前は軍人として、そして戦後は学者として業績をあげ、教育や文化行政にも多大の功績を遺した。立派な尊敬すべき皇族の重鎮でした。古代オリエント史の専門家としては、著書を9冊も出版されている。私は、シリーズの一冊である『生活の世界歴史 1 古代オリエントの生活』河出書房新社 というのを読んだ記憶がある。
でも家庭的には、三人の息子に先立たれて淋しいものではなかったろうか。何となくだが、そのお気持ちが解るような気がする。
幸い彬子様はじめ5人の孫にあたる女王殿下がおられるので、残された百合子様はお寂しくはないと思う。健やかな晩年を送って頂きたいと願っている。
平尾誠二と三笠宮様のご冥福を謹んでお祈りしたい。
神戸の神社記事を書く積りが、思わず最近お亡くなりになられたお二人の事を書いてしまった。まあ、このブログは勝手気儘に感じたことを記しているので良いだろう。
またもや間隔が開いたが、兵庫区の神社の2回目である。 時間を気にすることなく調べながら記事を書ければよいが、なかなかそうはいきません。 神戸兵庫区 熊野神社
熊野神社からその山側にある氷室神社に廻った。名前だけは知っていたが、訪問するのは初めてであった。 坂道を登ったところにある。 自然の冷蔵庫である氷室がある平家に係わりのある神社ということだけで、もちろんその由緒は知らなかった。
行ってみてわかったのだが、氷室神社は清盛七弁天のひとつで、恋愛弁天として知られているそうだ。
私は全く知らなかったが、研究家によると 神戸最強恋愛パワースポット なのだそうです。
ここでWikiによる基礎情報を述べる。
氷室神社 | |
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所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区氷室町2-15-1 北緯34度41分15.7秒 東経135度9分21.2秒 |
主祭神 | 市杵島比売・大国主命・仁徳天皇 |
札所等 | 清盛七辨天 夢野弁天 |
例祭 | 6月1日 |
氷室神社(ひむろじんじゃ)
御祭神:
市杵島比売(いちきしまひめのみこと)
八戸市三島神社の市杵島比売像
この女神が通称弁財天と呼ばれている。水の神様です。
大国主命
言わずと知れた大黒様である。何度も画像を出しているけど、今度は錦絵風の一枚。
仁徳天皇 仁徳天皇陵古墳 で画像は紹介している。今回は古事記での有名なシーン。
天皇が高殿に登って、庶民の暮らしぶりを眺めると、家々のあちこちから、ゆうげのための煙が上がっている。
仁徳天皇が家臣に、「民のかまどは賑わいにけり」 とおっしゃる場面。
歴史:
平清盛が福原遷都の際、兵庫七弁天の一社として市杵島比売を奉斎した。平教盛がここに別邸を建て、後白河法皇を幽閉した場所であった。
平教盛は、平家の武将であり、清盛の異母弟。
良く知られているように、天皇譲位後長きにわたり(34年!)院政を行った。戦乱の世を持前の政治力で生き抜いた人物ですね。 後白河法皇
源平合戦の際に平清盛のおい、通盛と妻の小宰相が今生の名残を惜しんだ場所とされる。このことから恋愛成就の神社として、もともと知られていたという。
また氷室という名通り、氷を保存するために使用したという洞窟が残っている。
境内には伊勢神宮の内宮、春日大社、猿田彦神社、京都伏見神社から請した氷室稲荷神社が遷座されている。
鳥居
この鳥居左横は人の住まなくなった洋館であり、右側はアパートである。付近には民家が密集している。鳥居は真新しいのだが、神社の境内にあるのは本殿始め古びたものが多い。
手水舎
本殿
屋根瓦は長い間葺き替えられていないようだ。境内の小木には最強の恋愛パワースポットという事で、枝に恋愛成就のおみくじが鈴なりになって結び付けられている。
本殿のしめ縄と社額
本殿の中ではおみくじとかが売られている。 境内では雅楽のテープが流れていた。しかし、社務所には人の居る気配はなかった。
平通盛と妻の小宰相との由緒を記した掲示板。ここ夢野には、平氏の有力者の家屋敷があったのです。平通盛と小宰相の菩提寺は、湊川の願成寺にある。
どんなエピソードかというと、以下のような事である。
通盛は平清盛の弟教盛(のりもり)の長男。
『平家物語』では、生田森・一の谷合戦で敗走途中、湊川付近で七騎の敵に囲まれ討ち死にしたとされています。
小宰相局は都で評判の美女とされ、実際に通盛の妻だったことは同時代史料によって確認できます。『平家物語』では、通盛が一目惚れをして三年もの間手紙を送り続けても色よい返事を返さなかったのですが、やがて仕えていた上西門院(じょうさいもんいん)に諭されて通盛と結ばれたといいます。そして仲睦まじく暮らしていた。
そして源平合戦が始まり、通盛戦死の知らせを屋島へ逃れる船上で聞き、しばらくの間信じられずに泣き伏していましたが、七日目に乳母に決意を伝え、その晩船上から身を投げた、とされています。
境内にある氷室清瀧の石碑とそれを祀るしめ縄。
コケのついた稲荷社の小鳥居とお狐さまの小像。周囲はトタンで囲われていました。
稲荷鳥居 その奥が社務所になっている。
狛犬二基
裏山という場所柄、この神社は湿気が多くてコケが狛犬に付着している。
右から、春日大社、伊勢神宮の内宮、猿田彦神社、の三摂社が祀られている。
本殿裏に氷室稲荷神社がある。
赤稲荷鳥居 奥に見えるのが本堂
その足元のお狐様 相変わらずこわいお顔をしている。
この神社は、京都伏見神社から明治8年に勧請された。
稲荷社の本堂の中
本堂は、言葉は悪いがブロック作りで、あばら家に近いです。手入れは行き届いていない。人手不足で無理ないのでしょう。
稲荷社奥に氷室がある。 その掲示板。
古跡となっているが、洞穴を石で囲っただけという感じで、余り有難味はない。
内部はこのようになっている。 天井の岩盤
地面の砂利石
中の温度は常に低いので、自然の冷蔵庫になる。
この洞窟は夢野の氷室と呼ばれている。その由縁は、田辺真人著 「神戸の伝説」 では、このように記載されている。
仁徳天皇の六十二年、天皇の兄の額田大仲彦皇子が夢野で狩りをしていたことがあった。狩りのあいまに小さな山に登った皇子が、広々とした夢野の原をながめていた。
「おや、夢野の中に、ぽつんと何かみえるぞ。ちいさないおりのようだが」
調べてみると、それは何かいわくありげな洞窟であった。そこで、闘鶏稲置大山王という土地の古老を呼んでたずねることになった。
そのシーンですね。
「あれは、氷室でございます。あの岩屋の中は、いつもつめたくひえびえしております。そこでこの土地の者は、冬の間に大きな氷を切り出し、あの岩屋の底の地面を一丈ばかりも掘って底に草を敷き、そこに氷をつめますのじゃ。その上にたくさんの茅などでおおい、土地をかけます。そして氷を保存し、暑い季節になると、氷を掘り出しくだいて水や酒に入れて飲むのです」
「それはめずらしい、よいことをきいた。さっそく天皇に氷をさしあげよう」
とどけられた氷を食べた天皇はとても喜ばれた。こうして毎年、冬にこの氷室に納められた氷は暑くなるころ天皇にとどけられるようになったという。
氷室町1丁目の氷室神社本殿の西には、この氷室のあとと伝える岩屋がある。中には清らかな湧き水がたまっていて、江戸時代には夢野の清水とよばれていた。源平合戦のときにこの清水のそばに、平教経が陣取っていたので、夢野清水は、一名陣馬の井とも呼ばれていた。
という事です。天皇に差し上げる氷を保存していた訳だね。
これでおしまい。
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