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2016年12月28日水曜日

タイ国リアル旅行記 XXVI

昼食を済ませてアユタヤに戻る。ホテルに戻る途中に、アユタヤ日本人町跡の見学をする。今回はその報告と、アユタヤのショッピングセンター内にあるスーパーマーケットでの見物記事である。おまけにレストランのグルメ記事も付け加えた。

その前にアユタヤの旅行者ガイドを紹介する。アユタヤ県観光局が作成した立派なパンフである。非売品で全34ページからなる。

表紙


裏表紙には、アユタヤ遺跡や寺院の写真が沢山掲載されている。


アユタヤの古地図と現在のアユタヤの絵地図  地図を見ると川に囲まれた水の都であることがよくわかる。


アユタヤの歴史の説明ページ


これによると、 アユタヤ王朝は417年(1350-1767)つづき、35人の王が統治した。その間隣国のビルマによる侵略が23回もあった。 タイ国リアル旅行記 XXI  を参照

象を使ってのその戦いはTVドラマにもなっている。

結局アユタヤ王朝は、1767年ビルマ軍により壊滅的に滅ぼされた。


またパンフによると、2011年には町の大部分が浸水し場所によっては3mもの高さがあったと記されている。かなりの洪水被害であったようです。

その写真をアップする。

パンプの写真


ワット・ロカスタヤの寝釈迦仏


ワット・マハータートにある仏頭


アユタヤ遺跡の仏塔群

現在は全て元通りになっている。

アユタヤ遺跡の地図  これだけ周りが川だらけだと、雨期には洪水が起きても仕方ないような気がする。




ワット・プラ・シーサンペットワット・マハタートの解説ページ


ワット・ロカスタヤ日本人村の解説ページ


パンフの解説はこの位にして、日本人町跡の写真報告を始める。

日本人町とガイドブックには書いてあるが、日本人村が本当は正しい。その証拠はこの石碑である。まあ町も村もあまり変わらないということにして、ここでは日本人町を使うことにする。



パンフは4つ折り8ページからなる。


アユタユ旧日本人町の発生と発展
日本人町のいきさつ
が説明されている。 拡大すれば読めますので、興味にある方は試みてください。

日本人町跡日本庭園ミュージアム展示場から構成されている。

ミュージアムは別館1として説明されている。

展示場は別館2である。


Wikipediaから簡単に概要を教えてもらおう。

アユタヤ日本人町(アユタヤにほんじんまち)

14世紀中ごろから18世紀頃までアユタヤにあった日本人町。15世紀後半から16世紀初頭までアユタヤ王朝下、軍事力と貿易による利潤を背景に政治的に力を持つようになった。
当時のアユタヤ中心地をチャオプラヤー川沿いに南に下った東岸にあり、西岸のポルトガル人街とは相対の位置にあった。
南北約570メートル230メートルの敷地に最盛期で1000~1500人の日本人が住んでいたと思われている。なお『暹羅国風土軍記』の資料では寛永期ごろのアユタヤ日本人町の人口を8000人と見積もっている。アユタヤ日本人町の住民は、傭兵貿易商キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の使用人などで構成されていた。

門を入って中央に花壇があり、日本とタイの国旗がその中に掲揚されている。





アユタヤ日本人町の跡の石碑  あれ、この石碑では日本人町となっている。


日本庭園


庭園には竹が植えられており
お堂や常夜灯も置かれていて、日本の庭らしい雰囲気を出している。


ミュージアムの外観

石碑  アユタヤ歴史センターと刻されている。パンフでは別館1のことである。


館内の案内をする。 曲面上に古アユタヤの地図が描かれている。

左半分



右半分

地図の説明文

ユデア」(Iudea)と呼ぶこの地図はアユタヤを描いた最も古くて美しい地図である。この地図は様々な主要な場所が揃っていた頃を描き、レンガの城壁で囲まれた島、遠くに山、河川、家屋の形状、寺院仏閣、壮麗な王宮、レンガを敷き詰めた舗道、網の目のように張り巡らされた運河まで、細かく描きこんであり、さながら「東洋のベニス」と呼ばれた所以が示されている。

当時の貿易品が展示されている。

輸出品は、鹿の皮  壺  象牙  マンゴスチンの形をした陶磁器 などである。




輸入品は、日本の扇子 日本刀 などである。



アユタヤへ至る航路図  東半球西半球からアユタヤへ。 一方琉球王国からもアユタヤへ。 


アユタヤの古地図板


展示館前に掲示されているアユタヤの古地図 
オランダで1665年に出版された「シャム王国首都アユタヤ」(ヨハネス・シーボーンズ著)で描かれた水彩画である。


展示館=別館2の外観  
田長政 オークヤー・セーナーピムック(爵位名) と クーオ・トーンキープマー(官位名) の展示 とある。


山田長政の業績を記した石碑


碑文にはこのように書かれている。 紀行歴史遊学 さんの記事から引用した。読みやすいように段落を付けた。

アユタヤ日本人町跡山田長政

アユタヤは西紀1350年より1767年まで417年間タイ国の首都であった。
この間第16世紀後半より外国人の渡来者は漸増し彼らは貿易や布教に従事した他義勇兵として王朝に仕えるものもあった。

当時日本政府朱印状(外国貿易に従事する許可書)を発行して貿易を奨励したが朱印状を所有しない交易船も東南アジア方面の貿易に従事していた。
これらの貿易船のうちタイの都アユタヤに来たものも多く彼らは諸外国人と同様国王から居留地を与えられた。

アユタヤには時代により800人から3,000人の日本人が居たと伝えられ更にタイ、中国、ヴェトナムなどの従業員を加えるとこの日本人町に8,000人の人が居たこともあると伝えられている。
そして次の人々がその首領であった。

オークプラ純会(1600年~1610年)、城井久右ヱ門(1610年~1617年)、山田長政(1617年~1630年)、糸屋多右ヱ門、平松国助(1633年~1640年)、木村半左ヱ門、アントニオ善右ヱ門(1640年~?)。

この内でも山田長政(静岡県出身と伝えられている)は日本人義勇隊長として実力者となりソングタム王の寵愛を受けオークヤー・セーナーピムックの爵位を授けられた。
1628年王の死後長政は二人の王子に忠義を盡したがナコン・シータマラート(南タイ)に叛乱が起きたので都を離れ叛乱軍平定後同地の太守となったが程なく同地で客死した。

1935年(昭和10年)バンコクに設立せられた泰日協会はオランダ東インド会社の文献に基づきこの地旧日本人町跡を発見しその内約7ライ半(12,000平方米)を入手することが出来た。それ以来泰国日本人会の協力援助をえてこの遺跡の保存に当っている。

1972年12月11日 泰日協会長 ピヤ・マバイサワン


早速館内に入る。

山田長政像


山田長政の肖像画とその業績の解説



 クーオ・トーンキープマー の蝋人形


食卓にお菓子を出す彼女


恥ずかしながら私は彼女を存じあげていなかった。それでWikipdiaさんにこっそり教えてもらった。


ターオ・トーンキープマー(1664年-?)

17世紀のアユタヤ王朝の高官であったコンスタンティン・フォールコンの妻。本名はマリア・ギオマール・デ・ピーニャ(Maria Guyomar de Pinha)。日系人である。

マリアの父は当時ポルトガルの植民地だったインドのゴアから来たFanik Guyomar(またPhanik Guimar)と言い、日本人とベンガル人の間に生まれた子供であり、カトリック教徒であったと報告されている。
マリアの母は山田ウルスラと言い、祖母はポルトガル人で、祖父はイグネス・マルティンス (Ignez Martinz) という洗礼を持つ長崎県平戸出身の日本人で、キリシタン大名の末裔とされる。
1682年にフォールコンの妻になり息子2人を儲けたが、その後1688年のシャム革命フォールコンが殺されたときポルトガルに逃れようとして官吏に見つかり、捕らえられて2年間牢獄に入った。
後に料理の才能を認められ、ターオ・トーンキープマーの官位・欽錫名を与えられ王宮の菓子部長となった。
このときポルトガルの菓子をタイに伝えた。フォーイ・トーン(日本では鶏卵素麺と呼ばれる)、トーン・イップ(卵黄を砂糖で煮て花の形を付けた菓子)、トーン・ヨート(前述の菓子の形を付けたもの)などがそうである。これらの菓子は現在ではタイの名物となっている。
17世紀までは米粉とココナッツミルクと砂糖が主な原料だったタイの菓子の世界において、初めて小麦粉と牛乳といったヨーロッパの食材と玉子を取り入れ、その上に洋菓子のテクニックを取り入れた彼女の功績は大きい。

王宮のお菓子係として活躍しました。お菓子作りの名人です。

山田長政の率いる義勇軍


山田長政ターオ・トーンキープマーの生涯を描いた映像を鑑賞した。


映写がおわり館外にでる。

日本人町跡の敷地の横には、滔々とチャオプラヤ川が流れる。



そして日本人町跡山田長政に思いを馳せながら後にしたのであった。


ホテルに戻る前にショッピングセンターに立ち寄る。

ラッパ型のドームがある。


ショッピングセンター内のスーパーマーケットで休憩となった。それで、私はいつもの如く魚のおいてあるコーナーに向かった。タイの魚を写すためである。

左側の魚にはヒゲが生えている。ナマズの仲間らしい。右側の魚も日本ではお目にかかった記憶はない。


これはハマチ。日本のハマチとは魚相が少し異なる。


 タイの仲間だろうけど魚名が思い浮かばない。日本では見たことがない。


イトヨリとサバであろう。 やはり日本近海の魚とは面構えが違っている。


この魚もわからない。 川魚のような気がする。


これはスズメダイのでかい奴と思う。


紋甲イカの切り身  胴体部分


同じく口吻部分

野菜売り場

果物売り場  結構高い値段がついている。日本とそれ程変わらない。


スーパーマーケットの全景   とても広いのだけど、世界中どこも似た作りだね。


このスーパーで、靴下、タイのハブ酒、タマリンド、乾燥マンゴー、コーンプリッツを買ったのであった。

買い物をおえて、ショッピングセンターを見て廻る。

タイのゆるキャラ発見


ひよこたちの中に、なんとピカチューがいた。


ハルクもいた。びっくりである。


ハルクは映画になりましたね。最近はアベンジャーズで良く登場しています。


そしてバスに戻り5時40分にホテルに到着。チェックインを済ませ部屋の確認をしてから、バスでレストランに向かう。日本人が多く住んでいるというアユタヤ市内の一画にある。

6時50分にレストラン到着。その山田屋アパートメントにある日本料理店 長政がそのレストランである。


レストラン入り口  暗くて良く見えないね。

ここでは経営者が日本人で、その上お客も日本人ばかりで、皆さんの前でマナーに反した料理写真をとることは出来なかった。調理人も日本人だそうです。それでひたすら食べることに専念した。
添乗員さんの記録によると、塩ゆでエビ、エビとカシューナッツの炒め物、空芯菜、肉団子スープ、ポークの甘酢ソースかけ、炒飯、フルーツとなっている。ビールは確か朝日ドライを飲みました。全く日本風の味付けで大層美味しかったです。

これだけでは余りに情報不足で物足りない。それでレストランを調べてみた。

山田屋アパートメントの外観


夜だったので全く気付かなかったが、こんな紫の派手なビルだったんですね。宿泊施設にもなっている。 YAMADAYA

レストラン 長政 

料理写真


これで何となくグルメ報告をおえたような気がする。

ホテルへの帰路  アユタヤの夜の雑踏




かくしてホテルに戻り、シャワーを浴びる。それから寝る前にチビチビと晩酌を始める。 スーパーマーケットで買ってきたビールとハブ酒を、TVを見ながら飲む。 酒の当ての乾き物は、果物だが

乾燥マンゴー、タマリンド(豆の鞘の部分で甘いが美味いとは言いかねる)


コーンプリッツ(日本製)である。 写真右側がハブ酒、その奥がビール缶。


ハブ酒はビールと思いきや焼酎でした。予想に違わずマズかった。惜しかったが半分以上捨てた。私としては珍しいことだ。

TVはタイの時代劇をやっていた。ストーリーは分からんのだが、ビルマ軍と闘戦うタイの王様の話のようである。興味深く眺めていました。でも戦闘に象は出てこないんだよね。


王族(?)の食事風景  何やら問題を抱えている様子。
 戦闘シーン

タイ風木造建築の高床式住居  このお家で暮らしている訳だ。


こちらが主人公らしい。やっぱりイケメンですね。



流し目のヒロイン


役割は分からんが、ドラマに必須の子役。


またTVでは常にプミポン国王の追悼番組を流していた。


夜の王宮での弔問者 



物凄い人数ですね。 国民から国王がどんなに敬愛されていたかがわかります。 夜も更けて来たのでTVを消して寝る。酔っていたせいか熟睡する。
かくして11月17日が過ぎた。

今回はこれでおしまい。





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