1月25日に母の見舞いに行った帰り、足を延ばして立ち寄ったお寺である。長田区にある明泉禅寺で、通称大日寺である。神戸駅から神戸市バスの4系統にのって大日前停留所を降りてすぐの所にある。
防犯の意味もあり、多くのお寺では山門が閉められ無断では入れなくなっている。あらかじめ見学の予約を入れるというのも面倒なので、そういうお寺は拝観を遠慮している。その点では、この明泉禅寺は開放的でしかも手入れが非常に行き届いている。比較的小さいお寺ではあるが、由緒ある古いお寺なので、参拝するには良いお寺だと思われる。このようなお寺は是非紹介しなければという事で記事にしたい。
かなりの坂を上ったところにあるバス停の横に禅宗明泉寺の看板がある。
山門に至る階段
大日寺の寺碑
お寺の由緒舎
山門
山門に掲げられている寺の名札 明泉禅寺とある。
本堂
ここで、明泉禅寺の簡単な説明を行う。 明泉禅寺のホームページがあるのでそこから適宜引用する。 臨済宗南禅寺派天照山明泉寺
宗派: 臨済宗南禅寺派
ご本尊: 大日如来像 (だいにちにょらいぞう)
開基: 天平七年(七三五) 行基菩薩
明泉寺(通称大日寺)は寺伝によれば天平の昔、行基菩薩が大輪田の泊を改修され、さらに真野の荒野を開墾し、そ の用水のために西代の蓮池を開掘された。蓮池の水源である上流の地、現在の大日丘に自刻の大日如来の尊像を祀り、明泉の永久に尽きることのないよう祈願されたのが始まりである。
行基菩薩
行基(ぎょうき) 668年 - 749年
奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。
その後、大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。 (by Wikipedia)
明泉寺略縁起:
寺伝によれば天平の昔、行基が大輪田の泊を改修され、さらに真野の荒野を開墾し、その用水のために西代の蓮池を開掘された。蓮池の水源である上流の地、現在の大日丘に自刻の大日如来の尊像を祀り、明泉の永久に尽きることのないよう祈願されたのが始まりである。
山号は天照山、大日寺、大日さんで知られている。また牛の寺としても信仰を集めている。
境内 この時は蕾も小さかったが、現在はしだれ桜が咲いているのでしょうね。
境内から見た山門
本堂左横にお墓がある。
孝子 知章のお墓
父・平知盛公の命を救うために若い命を散らした平知章公の墓。
ちょっと長いけど、神戸の空の下で。~街角の歴史発見~ さんのブログに詳しい記事があるのでそれを引用する。神戸・明泉寺(大日寺)。 このブログはとても参考になります。
当時明泉寺があった場所は生田から夢野を経て須磨・白川へと抜ける街道沿いの要衝の地でした。ここは平盛俊公を中心に守りが固められていましたが、予想だにしなかった山上からの奇襲を受けて平盛俊公の軍勢は大混乱に陥ります。生田口と塩屋口の東西を固めた平家軍はその中央部に源義経公の軍の侵入を許したことで総崩れとなり、兵たちは我先に海へと逃げ出します。その中には平清盛公の4男で実質的に平家の総大将格だった平知盛公とその息子・16歳の平知章公たちの姿もありました。
苅藻川沿いを海へ向かい、沖合いに停泊する味方・阿波重能公が守る軍船へと脱出を図った一行は、海岸までたどりついたところで源氏方の児玉党と遭遇してしまいます。平家の総大将の首を取ろうと平知盛公めがけて殺到する敵に対し、息子の平知章公と郎党の監物太郎頼方公は身を挺して平知盛公を逃がし、壮烈に討ち死にします。総大将としての立場から、ここで命を落とすわけにはいかない平知盛公は父親としての心情を押し殺し、須磨沖まで単騎落ち延びて軍船へと辿り着きます。しかし、息子を置き去りにして逃げた慙愧の念から「人々の思はれん心のうちどもこそはづかしう候へ」と泣き崩れたといいます。
本堂前 お詣りをして心ばかりのお賽銭をあげさせていただきました。
牛の寺だけあって、牛を描く絵馬が奉納されている。
本堂の左右にある登り龍 双方ともに玉を咥えている。
石灯籠の中には小さな行基さまの像が置かれている。
寺崎方堂の句碑 彼の人となりは写真を拡大して読んでください。
青嵐 ちぎれ雲さへなかりけり
枯山水 小さいお庭だけれど風情があります。
思い出の松 昭和初期に平知章の墓を明泉寺に移設したときの前後に植えられた
松がありそれを記念した石碑のようです。松はその何代目かでしょう。
牛のブロンズ像
先に記したように、この明泉寺は江戸時代に「牛の寺」と呼ばれていた。
その頃には、農家が牛の健康を祈るためにこのお寺に連れてくる風習があったそうである。
お堂 なにが祀られているかは確認してなかった。
常夜燈の土台みたいだが不明。上には龍の焼き物が置かれている。
手水所
ここにもブロンズの龍が手洗い所を見守っている。中央にあるのは仏足石である。
足元に釈迦牟尼仏の石柱がある。
仏足石
今から2500年前にお釈迦様がお亡くなりになり(涅槃)、インドでは仏像はおそれおおいのでこのように石に足跡を刻み礼拝しました。
足の真ん中の車輪(千輻輪相(せんぷくりんそう))はいわば仏のシンボルです。
鬼瓦
ユーモラスな表情をしていますね。
今回はこれでおしまい。
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