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2017年7月2日日曜日

伊勢市 朝熊岳 金剛證寺 I

先日の6月22日の事であったが、息子達が志摩スペイン村の絶叫マシンに乗りたいということで、伊勢市に向かってドライブをした。ワイフのお供で私もくっ付いて行きました。志摩スペイン村には行ったことがないので、ついでに写真を撮って記事にしようという算段である。

ドライブ日誌は別の記事に書くことにして、今回は伊勢志摩スカイラインに入ったときに立ち寄って参拝した金剛證寺の記事を書きたい。伊勢神宮に因む広大な敷地をもつ伊勢志摩最大のお寺です。車でないと容易には行けないお寺なので、お詣りできたのはラッキーでした。

金剛證寺の境内案内板

山門前の常夜燈

山門 朱漆塗りの立派なご門である。 表札には 勝峰山 金剛證寺 とある。


山門には、朝熊岳 と記されている。


ここでWikipediaから金剛證寺の基礎情報をゲットする。

金剛證寺

金剛證寺
Kongoshoji(Mie) 08.JPG
境内
所在地三重県伊勢市朝熊町岳548
位置
北緯34度27分26.68秒 東経136度47分7.56秒 / 
北緯34.4574111度 東経136.7854333度 / 34.4574111; 136.7854333座標: 北緯34度27分26.68秒 東経136度47分7.56秒 /
北緯34.4574111度 東経136.7854333度 / 34.4574111; 136.7854333
山号勝峰山
宗派臨済宗南禅寺派
本尊虚空蔵菩薩
創建年(伝)6世紀中葉
開基暁台上人
正式名勝峰山 兜率院 金剛證寺
札所等伊勢西国三十三所観音霊場2番
文化財朝熊山経ヶ峯経塚出土品(国宝)
本堂、九鬼嘉隆像他(重要文化財)


金剛證寺本堂(重要文化財)

九鬼嘉隆の五輪塔

1979年に再建された仁王門

岳参りに向かう人々

金剛證寺(こんごうしょうじ)

三重県伊勢市朝熊町岳にある臨済宗南禅寺派の寺院である。山号は勝峰山、院号は兜率院と称する。本尊は虚空蔵菩薩である。朝熊山(あさまやま)南峰(経ヶ峯)東腹にあり、「朝熊山」と呼ばれる場合がある。

沿革:

創建は6世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。
平安時代の825年(天長2年)に空海真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお鳥羽市河内町丸山539の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。
金剛證寺はその後衰退したが、14世紀末の1392年(明徳3年)に鎌倉建長寺5世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより東岳文昱を開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗し禅宗寺院となった。

室町時代には神仏習合から伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった。

関ヶ原の戦いから敗走したのちに答志島(現・鳥羽市)で自刃した九鬼嘉隆のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い金剛證寺に出家し、金剛證寺第12世となった。

江戸時代には徳川幕府が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した。1609年(慶長14年)には播磨国姫路城主で豊臣秀吉の七将の一人、池田輝政公が火災で失われた本堂摩尼殿(まにでん)を再建した。この本堂は1701年(元禄14年)に徳川綱吉の母桂昌院による修復を経て現存し、重要文化財に指定されている。

1925年(大正14年)にケーブルカーが開通、昭和になってからは内宮前から登山バスが運行されるなどで朝熊山へ登る人が激増したが、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)ケーブルカーの線路が軍用のため金属供出により徴収され廃線となり、一般の朝熊山への入山が禁止され金剛證寺は衰退した。

戦後には伊勢湾台風などで被害を受けるなど衰退の一途をたどった。1964年(昭和39年)の伊勢志摩スカイライン開通後には参拝客も再び急増し、1979年(昭和54年)に仁王門が再建されるなど、往時の賑わいを超えるまでに復興した。

ということで、時代の栄枯盛衰を経てきた由緒ある古寺なのでした。

それでは境内の参拝とまいろう。

 由緒舎

境内の絵図  江戸時代に描かれた鳥瞰図である。


金仏 (阿弥陀仏) 諸人の幸福と亡き人の冥福を祈る仏様をお祀りしている。



小さいが舎に安置された、優し気な表情の阿弥陀仏である。


仁王門 現在の門は意外に新しくて1979年に再建されたものである。



門額



門の左右に仁王像が安置されている。何度か書いているが狛犬と同じく、口を開けたのが阿形、口を閉じたのが吽形となる。「阿吽の呼吸」の語源ですね。


阿形の仁王 

吽形の仁王

仁王像の裏側に祀られている仏様

鐘楼  堂の中に入って鐘を突く形式で、格式が高い。

道標常夜灯  道標には 左さんけい道 とある。

連間の池に架かる朱塗りの太鼓橋

弘法大師が掘ったと伝えられる池で、ハスが浮かんでおりその下を緋鯉が泳いでいる。

 太鼓橋は、連珠橋という名で、此岸と彼岸を結ぶ橋とされる。


彼岸には雨宝堂が建っている。


弘法大師が感得して刻まれたと言い伝えられた神像、雨宝童子尊をお祀りしている。


雨宝童子は神仏習合思想によって説かれたもので、天照大神とも大日如来の化身とも言われている。

参拝のコースから外れているので、実際はお詣りできなかったのだが境内におちんこ地蔵と言う地蔵様が祀られている。

この記事を書きながら架空参拝することにした。

おちんこ地蔵

大小2体のお地蔵様があられもなくおちんこをさらけ出している。小さい方のお地蔵様のおちんこは立派で黒光りしているそうです。さもありなん。撫でてさすって子宝の願をかける。

ほのぼのとした大らかさを感じさせるこの地蔵尊は、子宝に恵まれない人々に広く信仰されています。

与楽院の堂宇



厄除け六地蔵尊が石台の上に安置されている。

重軽地蔵尊 六角柱の石像です。 お祈りの仕方は上に書いてあります。マニ車みたいだね。


堂宇の額 教養が欠如しているため私には読めない。 

お堂の祭壇 神社みたいに神鏡が祀られている。ここにも神仏習合思想が現われている。


同じく堂宇内には、

弘法大師観音菩薩像とを祀っている。ピンボケですまぬ。


また福徳を授かるという蓮華庚申(れんげこうしん)が祀られている。これは得体のしれぬ木像に思えるが、実はさにあらずで蓮の花雲の形を表している。これは下段にある
三猿の状態「見ざる、言わざる、聞かざる」を表わしている。

日本の様々な信仰と結びついて江戸時代に最も盛んになり、庚申を守れば七福が生ずると信じられたとされる。

本堂に向かう石段がつづいているのだが、その手前にご本尊の説明板がある。お札や祈祷料の説明が主で、大木札は5000円です。

本尊 福威智満虚空蔵(ふくいちまんこくぞう)大菩薩 


20年に一度だけご開帳されるそうで、前回は2014年でした。画像を探してようやく見つけたのがこれです。



また石段前には、ブロンズ製の多重塔が二基安置されている。

三重塔
五重塔 塔部分は石製

仏足石を祀る小堂


日本最古の仏足石摸刻である。紋様をご覧ください。


石段を上り切ったところに本堂がある。


手水舎


摩尼堂(と思われる) このお堂でマニ車を廻して、お経を読む代わりとする。


本堂(摩尼殿)

慶長14年(1609年)姫路の城主池田輝政公の寄進により再建されたもので七間六間、一重寄棟造り、向拝三間、檜皮葺の堂々たる巨宇で桃山時代の精華をつくした建物です。外部は朱漆、内部は金箔押です。伊勢神宮の奥の院ともいわれる如く、御本尊福威智満虚空蔵菩薩とともに、天照大神をお祀りし神仏習合の思想を表しています。


本堂全体朱の漆塗りで実に立派で貫禄があります。

本堂前の福丑  傑作なのは、頭のところにミニ大黒様がいることです。こんなご神牛を見たのは初めてです。


同じく智慧寅   頭を撫でると智慧が増す。今更手遅れだが・・・。

青銅製の常夜燈
通常の石製の常夜燈

摩尼殿の入り口  祈祷 という金字の額が掛かっている。内部は撮影禁止である。


本堂横にあるお堂

本堂庫裡

ここで参道を折れて、奥の院へと向かう。

その途中に明星堂がある。仏神である明星天子を祀っている。

明星堂

八大経王 経ヶ峯 参詣道入り口

ここから朝熊山経ヶ峯へ向かうことができるが、そこでは40基以上の経塚が発掘された。数多くの出土品が得られ、その一部は国宝となっている。文字通り、経塚にはお宝が埋まっていたわけです。


時間もないので、ここはパスする。しかし経塚の画像があったのでアップする。

朝熊山経塚群


八大龍王社登山口から奥の院に向かう参道脇に2つの社がある。

ひとつは阿弥陀仏石塔を祀るものであり、


もう一つは供養塔であった。


奥の院に入口にあたる極楽門がある。



極楽門 竜宮城の門みたいですね。



朱漆塗りの門は宝殿のような造りになっている。中には仏像か宝物が祀られているものと思われる。

門額


極楽門脇に立つ天衣菩薩

奥の院に向かう塔婆建立番地の案内図


極楽門をくぐって、初めて見る巨大塔婆の連なりにびっくり。次回は奥の院探訪塔婆の案内である。今回は、これでおしまい。

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