左下の場所にある。この地図は2006年時のものなので、大歳神社の位置は現在とは異なっている。
石鳥居 道路沿いに立っていてここから参道が始まる。
社碑
常夜燈
鳥居の神額 木製の額で 八多神社 とある。
ここで神社の基礎データを与える。Wikipediaには記載がないが、神社のホームページがあり、またいつもお世話になる神戸の空の下で。~街角の歴史発見~ にも記事があるのでそれらから引用させて頂きました。
八多神社 (はたじんじゃ)
住所:兵庫県神戸市北区八多町下小名田248
ご祭神 多くの神社を合祀したのでご祭神も沢山おわせられる。つぎの通りである。
天照大御神/稲荷大神/廣田大明神/八王子大明神/ 春日大明神/生野大明神/子安大明神/住吉大明神/ 八幡大菩薩/加茂大明神/松尾大明神/熊野大明神/ 布留大明神/白山大明神/大原大明神
主祭神は天照大御神なので、いつものようにその画像をあげておく。今回はアニメのアマテラスの画像。その他は画像省略。
由緒:
八多は古くは「幡多」と記され、「秦氏の居住地であった」「攝津の端の地である」「機織りに関係がある」「畑である」等、諸説があり、定かでない。
古い記録によると、三十一代用明天皇の時、物部守屋が六甲の嶺より遥か西北に杉・檜の森を望み、神霊の宿る聖なる杜であると信じ訪ねたところ、樵がいて、「天照大御神は神代の昔からこの杜に鎮座され、神功皇后に付き添って三韓を親征し、皇后は神のおしえに従いお祀りになった」と告げた。
守屋は斎戒し謹んでお祀りし、神のお告げを受け、殿舎を建て荘田を献じた。
(『幡多明神御由来記』文亀三年 神祇大副卜部兼具撰)
その後、延喜の朝、神誨によって稲荷大神を奉祀し、さらに十三社を合祀した(その後、惣社、十五社とも呼ばれる)。歴朝、大社に準じて崇められ、即位、大嘗、祥瑞、災害等、いやしくも事があればすぐ使いを遣わして祭告し、祈謝された。
(『明神分霊記』明應元壬子八月朔別当明王院清順記)
弘安四年、元が我が辺境を冠し、朝命により調伏を祈る。結願の日、大風雨で賊艦漂蕩、皇兵勢に乗じて追撃し磯部に敵を亡ぼした。
源頼光は大江山の賊追悼の途、九郎義経は一ノ谷に向かうに当たり、当社に詣でた。
(『八多明神霊現記』天文二年 卜部兼右)
頼光の大江山の夷賊討伐
寛仁元年(1018年)3月、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津大江山へ向かい夷賊討伐を行う。
最近では、明治四十二年五月に近隣の九つの神社を合祀した。
という歴史で中々の由緒ある神社です。
それでは神社の参拝を始める。
参道の石段 左側が車道になっていて拝殿前まで車で行ける。
渡し鳥居
常夜燈
拝殿に至る参道
由緒舎
参道左には田圃が広がりその奥には鬱蒼とした鎮守の森がひろがる。
コスモスの花が咲いていました。
神社の境内には八田保育園がある。この神社が経営している。
神社保育の精神に基づき、子どもたち一人ひとりが持っている個性を大切に育み、鎮守の森に囲まれた豊かな自然環境、たくさんの人たちとの出会い、音楽教育などさまざまな体験や行事を通して、心も体も感性に富んだ“子どもらしい子ども”に育つよう、日々の保育に努めています。
幼児の情操教育のため小鳥やウサギなどの小動物を飼育している。
鳥舎
うさぎ舎
八田保育園 二階建ての建物が2棟ある。かなりの規模である。
母屋 前は広場になっていて園児たちの運動場になっているのであろう。
朱鳥居
朱鳥居側面
収納蔵
手水舎 鐘楼のような造りである。
手水鉢
狛犬二基 年代物で一基は顔の部分が崩れている。
石灯籠
ここにも由緒板がある。本殿が平成9年10月には神戸市有形文化財に指定されたとある。
拝殿に至る石段
拝殿 風格のある歴史を感じさせる造りです。古びているが屋根の意匠は見ごたえがある。
拝殿前の鈴 いたって小さいので却ってびっくりします。
拝殿前石灯籠
拝殿前狛犬二基
拝殿中
本殿屋根 後方に森が迫っていて社殿全体を写すのは難しい。
地守神社
さいごに田園の黄昏写真
これでおしまい。
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