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2017年12月17日日曜日

大阪 四天王寺 I


今回から大阪四天王寺の紹介を始める。府大での講義の後2度にわたり訪れた。このお寺も日本有数の大きなお寺で、私のような無知蒙昧の輩でも聖徳太子所縁のお寺だということは知っている。それと四天王の像(正確には金剛力士像)が有名ですね。丁度良い機会なので、お寺の勉強をしつつ参拝を行おうという算段であった。

地下鉄御堂筋線天王寺駅から北へ歩いて12分のところにある。私は時間の節約のため大国町で下車してタクシーでお寺に向かった。思いの他の出費であったが、充分非常勤講師料で賄える。

四天王寺日本仏法最初の官寺である。

石鳥居の前に到着。

寺碑  大日本仏法最初 四天王寺 とある。かなり大きな石碑です。




まづ四天王寺の基礎データを与える。Wikipediaではこのように記述されている。

四天王寺


四天王寺
Shitennoji06s3200.jpg
中心伽藍回廊
所在地大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
位置北緯34度39分14.04秒
東経135度30分59.22秒
座標: 北緯34度39分14.04秒 東経135度30分59.22秒
山号荒陵山(こうりょうざん)
宗派和宗
寺格総本山
本尊救世観世音菩薩
創建年推古天皇元年(593年)
(『日本書紀』による)
開基聖徳太子
別称金光明四天王大護国寺
札所等聖徳太子霊跡1番
新西国三十三箇所1番
近畿三十六不動尊1番
法然上人二十五霊跡 6番
西国薬師四十九霊場16番
摂津国八十八箇所25番
神仏霊場巡拝の道 第43番
西方四十八願所44番
西国三十三所番外
四国八十八ヶ所霊場番外ほか
文化財紙本著色扇面法華経冊子5帖(国宝)ほか
六時堂(重要文化財)
絹本著色両界曼荼羅図(重要文化財)ほか
八角亭(登録有形文化財)
地図
四天王寺の位置(大阪市内)
四天王寺
法人番号2120005001046


四天王寺(してんのうじ)

大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。
日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。


和宗とは聞きなれない宗派と思ったが、全仏教的な統括宗派という意味でこの言葉を使っているらしい。調べて見ると全日本仏教会に所属するお寺で構成する宗派とされる。

全日本仏教会のホームページより:

現在、日本には約75,000の伝統仏教の寺院、教会、布教所等があり、それらの多くはいずれかの宗派や教団に所属しています。
全日本仏教会は、その中の主要な59の宗派36の都道府県仏教会10の仏教団体、合計105団体(平成29年9月29日現在)が加盟している、日本の伝統仏教界における唯一の連合組織です。

由緒あるお寺なので参考資料は余りに多く引用しだすとキリがないので、適当に端折って紹介する。

歴史:

創建

四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立された。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために建立した。



平安時代以降


四天王寺はたび重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代承和2年(836年)には落雷で、天徳4年(960年)には火災主要伽藍が失われている

寛政10年時の伽藍




現代

明治以後の四天王寺は、まず、明治維新の神仏分離令により、それまで四天王寺に所属していた神社が離され、厳しい状況に置かれたが、人々からは依然として庶民信仰の寺・
太子さまの寺として深い信仰を受け、諸行事は従来どおり行われた。
1939年以前の伽藍。日下部金兵衛撮影。

昭和9年(1934)9月21日、近畿一円を襲った室戸台風によって五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、境内全域が相当な被害を被った。昭和15年(1940)、努力のすえに五重塔再建されたが、それも束の間、昭和20年(1945)の大阪大空襲により、境内のほぼ全域が灰燼に帰した。
室戸台風大阪大空襲四天王子寺自体は壊滅的な状態になってしまったのでした。

室戸台風の被害

大阪大空襲での伽藍炎上(昭和20年3月13日)


そういえば私の祖母(母方のお婆ちゃんです)はこの空襲で電柱が倒れその下敷きになって亡くなったのでした。神戸大空襲については、こちらを見て下されば幸甚です。

終戦後各方面の人々の協力を得て復興への努力がなされ、昭和38年(1963)には伽藍が、昭和54年(1979)には聖霊院奥殿絵堂経堂が再建、その他の建物も次々に再興され現在ではほぼ旧観に復している。
さらに、戦後間もなく太子創建の寺であることから天台宗から独立し、和宗を創立。四天王寺はその総本山として再生した。

現在の四天王子境内



それでは境内参拝を始める。

大石鳥居



鳥居前の立て看板には、
平成三十四年厳修 聖徳太子 千四百年 御聖忌  総本山 四天王寺 とある。
平成31年で終了するのが周知でなかったころの立て看板。5年後の太子1400年に大改修が行われるようです。


石鳥居扁額


変わった形の扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれており、平安時代の昔から四天王寺西方にある極楽浄土へ向かう東門にあたるとされた。

西大門(極楽門)に至る石畳の参道


引導石の設置されているコーナー。梵鐘石灯籠石の祭壇お賽銭箱もある。


引導石

引導とは、釈尊人生無常の迷いの世界より人々を空虚の悟りへの境へと導かれたことを指しています。転法輪石伊勢神宮遥拝石熊野権現礼拝石とあわせて四天王寺四石の一つに数えられています。

これが引導石。玉砂利の中に埋められている。

石灯籠の中には聖徳太子像が祀られている。

仏塔

四天王寺境内地図 案内板

見にくいのでこちらの地図を引用する。大体この地図を見ながらの境内紹介です。
慈母観音像

手水舎


乳布袋堂

四天王寺布袋堂は、創建当初聖徳太子の乳母が住んでいたと伝わる。その場所に建てられているという由縁で、この布袋尊乳布袋尊と呼ばれ、女性の胸に関する悩みを聞いて下さる神様とされる。 布袋様豊乳 ということかね。

ご本尊乳布袋


朱塗りの堂内  ここで御乳守を販売している。


御乳守
昔から、ご婦人がこの乳布袋尊に立願すれば、お乳が出ないとか授乳が不十分の人には乳が授かり、また出過ぎて困る時には乳上げを授かると言われている。

井戸


常夜燈

見真堂

浄土真宗親鸞聖人は「見真(けんしん)大師」というお名前があるので、見真堂 = 親鸞聖人堂として浄土真宗の信者がたくさんご参拝されている。

堂内の阿弥陀様立像

親鸞聖人旧跡 石碑

親鸞聖人像


極楽門 
 
朱塗二層式の桜門である。もとは西の大門と呼ばれ、大鳥居からこのあたり一帯にかけては”日想観”から生じた西門信仰の聖地として古くから信仰をあつめた。 第二次世界大戦後に松下幸之助氏寄進で再建されてから、極楽に通じる門という意味から現在の名前に改正された。


極楽門側面


西大門極楽門)看板

極楽門障壁画  

見えませんね。現在壁画修復作業中でした。

転法輪

参詣者は極楽門をくぐる時に転法輪をまわして通るのが作法になっている。


義経よろい掛け松

源義経は、1185年(文治元年)、壇ノ浦に平家を滅ぼした源平合戦の立役者である。 しかし、兄頼朝と不仲となり、都を落ちて大物浦から西国へ向かったが、難破して行方をくらませた。 伝説によると、和泉国に流れ着いた義経は、吉野山に逃れる途中で四天王寺に立ち寄り、松の木に鎧を掛けたのだという。




石碑と立て看板

納経所  何でこんな建物を写したのかな?


和光館  四天王寺高校の講堂になっているそうです。


五重塔  次々回位で詳しく説明します。


弘法大師修行像石碑


弘法大師修行像

大師堂
弘法大師をお祀りしているお堂。




阿弥陀堂(念仏堂)  阿弥陀様を祀っており、現在葬儀をとり行う式場として使われている。

扁額

側面

納骨堂

萬燈院(紙古堂)

萬燈院御本尊として十一面観音坐像を安置、脇壇に紙衣の羅漢を安置しているのでかみこ堂ともよばれている、紙衣佛を祀るのは四天王寺だけ とされる。




萬燈院前の阿闍梨のブロンズ像 

萬燈院由緒板


清浄水井戸屋形  手水舎ですよね。


かなり長くなったのでこれでおしまい。 II につづく。









1 件のコメント:

  1. 一伝に曰く、、、
    四天王寺は物部本宗家、物部守屋大連の宮殿跡に創建された。
    いわゆる、第30代敏達天皇(オサダ天皇とも)の神祇崇敬路線の庇護の下、蘇我氏の崇仏施策を弾圧した物部守屋大連と配下も敏達天皇が治世14年春3月?に天然痘に罹患なさり御不礼、、、伊勢(鈴鹿市白子)の久留真神(大国主神ほか)を当時の大王宮の真西、淡路島に遷し久留麻神社を創建。
    、、、たぬきの地域の鎮守さま。式内淡路三宮(津名郡次筆)。伊勢大神宮、来馬大明神(明神はどちらかと言うと出雲の神に奉る神号)。因みに、楠木正成御一統(湊川の合戦から密命を帯びた家臣らが落ち延びた)の氏神(美具久留御魂神社(富田林))筋になる)
    行疫神(西から飛来するものとされていた)からの結界とし、玉体護持。当病平愈を天神地祇に加持祈祷(国家、皇室/宮中の神事は物部本宗家の専権事項(同族故に出来るのかと?))、薬石効なく同14年(585年)秋8月15日(当然、満月の日)に崩禦。

    後ろ楯で有った敏達天皇を失った物部守屋大連らは排斥を受けていた蘇我氏(出雲系(葛城)の王家末裔)らの巻き返し、策略から攻め滅ぼされ守屋大連の本宗家は滅亡。
    このときの宮殿(一時は倭国を統治した大王家ですから)が四天王寺の場所に所在した。
    敏達天皇崩禦の585年から約10年、物部守屋大連ら本宗家が滅ぼされ8年?を経て物部王家の宮殿跡に初めて国営の寺院が造営された?

    四天王寺の西には通天閣が有って、この建物は四天王寺の西の神道を遮蔽(邪魔)するような形のため、何らかの魔除け、厄除けのモノ(神仏)が必要となるのですが、それがたまたま彼のビリケンさん。となっているのでは?

    因みに、聖徳太子の諱、豊聡美々の豊は蘇我氏縁の方に付与されていた称号のようです。
    (聖徳太子の聖徳は聖人君子を言い表したと言うのは古代の不文律からしたら間違いで、
    通常、聖や徳の文字は、無念、不慮の死を遂げた(荒び祟り為す可能性大)の貴人に(御霊を慰撫し鎮魂(祟りを成さないのを)を願って)贈られるのが通例で、
    一つでも厄介なのに併せ業で2つも用いられているのは異常な事かと。

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