いすれにせよ遺跡の地理がわからない私にとっては皆の後にくっついていくしかないのであった。
帰国後にゲットした下の地図でいうと右端のピンクで円形闘技場、大体育場と記されている場所である。
大体育場の外壁 入場口の赤茶けた煉瓦の部分が残っていて他の壁部分が修復されたそうである。約6mの火山灰の中から掘り出されたのである。
若者や兵士が競技や戦闘の準備としてこの運動場で身体を鍛えたのであった。
方形の大体育場でお隣にある円形競技場と同じくらいの広さがある。
現在は閉鎖されていて中は見学できない。
扉の塀の隙間から体育場の中を覗いている連中がいる。私も恥ずかしながらそれに加わった。
大体育場の内部写真 外周に沿って列柱の回廊が取り巻いている。グラウンドは芝生で覆われていた。ここからは分らないが中央部分にプールの跡があるそうだ。
大運動場の外壁 壁の大部分が壊れていたのを10年程前にほぼ修復したそうだ。
円形競技場
古代ローマの円形競技場としては最古の部類と言われる。紀元前1世紀に建造されたとされる。かなり大きくて甲子園球場並みのサイズである。
上部観客席への階段 見事な階段建築だが現在は使用できないようになっている。
入場門から闘技場に向かう通路 お馴染みの3人の後ろ姿が見えるが無視して欲しい。
闘技場内部 円形になっていて一面に砂利が敷かれている。地下には何も設備はないようである。かわりに観客席の下には通路(鉄格子の奥)がありそこから闘士の控室に通じていた模様。
闘技場の登場口
観客席は3層になっていて約2万人を収容できる。階段状の客席と女性用の上部桟敷席の一部はほぼ原形のまま残っている。芝生の部分が桟敷席になっていたらしい。
ご婦人たちは上部にあった桟敷席で食事などを召し上がりながらグラディエーターがライオンなんかと闘うのを見物していたのである。
現在はグラディエーターのかわりに観光客がたむろしているのであった。
円形闘技場を出て隣の大運動場から通りを2つ隔てたところに石壁で区切られた庭のある一画がある。
ブドウ園のある庭
犠牲者たちの庭 Orto dei Fuggiaschi
掲示板
奥に見える石室に遺体を模った石膏が展示されている。
この石室はもともと家屋で占められていた孤立した建物であった。遺跡の掘削中(1961-62年と1973-74年)に、この場所から大噴火で亡くなった13人の遺体が発見された。大人や若者そして子供の遺体があり、おそらく家族であったと推測される。
石室に硝子張りで展示されている。
ガイドブックの記事を引用する。
イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市「ポンペイ」は、紀元79年8月24日(日本の弥生時代)、ヴェスヴィオ山の大噴火によって噴火開始からわずか19時間で滅亡した。火砕流と火山の噴出物によって街全体は埋もれ、1748年に本格的な発掘がスタートするまで1700年近く、その存在は地中深くに眠ることとなった。
死の灰は一気に町を飲み込み、噴火によって命を落とした人々の姿までをも、そのままの形で封じ込めていた。死者は約2000人から1万人以上とされている。死者は死んだままの姿で灰の中に埋もれ、肉体が朽ちた後もその空洞は残った。人体があった空洞に石膏を流し込むという手法で掘り出した像は、ポンペイ人の石膏像として展示されている。
死の灰は一気に町を飲み込み、噴火によって命を落とした人々の姿までをも、そのままの形で封じ込めていた。死者は約2000人から1万人以上とされている。死者は死んだままの姿で灰の中に埋もれ、肉体が朽ちた後もその空洞は残った。人体があった空洞に石膏を流し込むという手法で掘り出した像は、ポンペイ人の石膏像として展示されている。
子供を含むその13人の遺体の石膏像
苦しそうに身体を折り曲げ、いまにも悲鳴が聞こえて来そうである。
今回はこれでおしまい。次回 ポンペイ遺跡(5)につづく。
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