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2016年11月10日木曜日

タイ王室御座船

今はもう集めていないのだが、現役のころはタイの切手を収集していた。東南アジアの国では格段にその図案が美しかったからである。特に王室関係の切手は金箔とか銀箔を用いた豪華なものであった。






それらの切手の中で私が特に気に入ってたのは、つぎのタイ王室御座船の長大切手であった。

こんな船に乗って遊覧すればさぞ良い気持ちだろうなと思ったのである。

切手とコインのセット



それで今回架空タイ国旅行記を書いてみて、実際の王室御座船がどのように運航されるか知りたくなった。

Thailand Royal Barge で検索すると山ほどデータと画像が出てきた。こちらは遊びなので、詳しいことは無視して面白そうな画像の収集に走った。

その成果(コピペの?)を報告したい。著作権に違反しなさそうな画像を選んだ積りですが、私の写真だから消去せよという場合は証拠つきでお知らせください。善処します(笑)。

御座船にも種類があるそうです。

実際に運航している所。






運航前の御座船




王室御座船博物館での展示

船のへさきの造形が凄いですね。






一度でいいから乗ってみたいけど、無理だろうね。

これでおしまい。 しばらくブログ記事はお休みにします。

2016年11月7日月曜日

タイ国架空旅行記 VII ピマーイ歴史公園とパノムルン歴史公園

今回は2つの歴史公園を紹介する。いづれもクメール遺跡である。

始めはタイのアンコールワットと言われるピマーイ歴史公園である。 本物のアンコールワットについては、以前長い記事を書いた。

カンボジア旅行記 I 
カンボジア旅行記 II
カンボジア旅行記 III 


アンコールワットと同じくクメール遺跡である。 Wikipediaで確認しよう。


ピマーイ歴史公園
อุทยานประวัติศาสตร์พิมาย
寺院の本堂
ピマーイ寺院
所在地ナコーンラーチャシーマー県ピマーイ郡タムボン・ナイムアン
登録日時1936年9月27日 
歴史区分クメール王朝
公式サイト文化省芸術局ピマーイ歴史公園(タイ語)
ピマーイ歴史公園(ピマーイれきしこうえん)


タイの歴史公園の一つ。ナコーンラーチャシーマー県ピマーイ郡タムボン・ナイムアンにあり、クメール遺跡を保存している。


歴史公園の地図
Phimaihistparkmap.png






ピマーイ遺跡は、アンコールへとつながるクメール古道の重要な終着点の一つ。
アンコール遺跡北西260kmに位置し、同じくナコーンラーチャシーマー郊外にあるパノ・ムルン遺跡と、タイ - カンボジア国境にあるプラウィハーン遺跡(プレアヴィヒア遺跡)と並び、タイ国内では屈指のクメール遺跡である。
アンコール王朝の主都アンコール・ワットの副都的な役割を担っていたと考えられている。

歴史:

多くの建築物は11世紀から12世紀の間、スーリヤヴァルマン1世(在位1011年 - 1050年)によって建てられたと見られている。その後、ジャヤーヴァルマン7世(在位1181年 - 1218年)がピマーイ寺院を大乗仏教寺院に改宗した。
また、この遺跡がアンコール・ワット同じ規模であることを考えると、当時ピマーイにクメール人による大きな勢力があったと考えられる。ジャヤーヴァルマン7世の治世の後、クメール王朝の影響が弱まり、スコータイ王朝が勃興すると、ピマーイの重要性は低下し、衰退した。


遺跡群は、外観はアンコールワットとよく似ていますね。

Phimai temple Wikimedia Commons.jpg

ナーガの橋


中央祀堂の踊るナーラーヤナ神


プラッププラー   内部の回廊


他にも名の知られた遺跡として、

プラーン・ヒンデーン

バラモン祠

プラーン・プロマタット

経蔵

があるそうだが、写真は省略する。

つぎはパノムルン歴史公園の簡単な紹介。 段々と調べるのが疲れてきました。

パノムルン遺跡とは、山頂に建てられているクメールの大寺院の遺跡である。



パノムルン歴史公園
อุทยานประวัติศาสตร์พนมรุ้ง
Place PhnomrungPrasat.jpg
所在地ブリーラム県
登録日時1988年
歴史区分クメール王朝
公式サイト文化省芸術局パノムルン歴史公園(タイ語)
パノムルン歴史公園(-れきしこうえん)

タイの歴史公園の一つ。



パノムルンとは、クメール語で「大きな丘」を意味する。タイ東北部ブリーラム県チャルームプラキアット郡タムボン・ターペックにある死火山の山頂(海抜400m)に位置するアンコール期のバプーオン様式寺院で砂岩とラテライトで建築されている。

1971年から1988年まで17年に及ぶ復旧作業の後、1988年5月21日に歴史公園として指定された。



横たわるヴィシュヌ神




歴史:


ピマーイ歴史公園同時期の10世紀から13世紀あたりにかけて増築されてきたと見られる。さまざまな石碑を判読した結果によると、アンコール王朝のラジェンドラヴァルマン2世(AD944年-968年)が最初期に礼拝所をパノムルンの丘に建立し、シヴァ神に捧げたとみられる。
13世紀頃にパノムルン周辺を所領とするマヒンドラプラ家のナレーンドラティットが大規模な寺院を建立したという。


地図



中央祠堂に向かう参道


中央祠堂


ナーガの渡り橋  2つあるそうだ。 もう一つを調べる元気はない。


これでタイ国架空旅行記はおしまい。丸2日がかりで7回分一気に書き上げたのでとても疲れた。

次回はリアルのタイ国旅行記を書きたいものです。

タイ国架空旅行記 VI スリン


6回目はスリンである。スリン県は、クメール遺跡象祭りで有名である。スリン県にあるクメール遺跡については、次回にまわす。

Wikiによりスリン県の位置情報とその歴史を勉強する。

スリン県
จังหวัดสุรินทร์
スリン県の位置
タイの国旗 タイ王国
県庁所在地ムアンスリン郡
面積8,124.056 km²
人口1,388,194 人 (2013年)
人口密度170.87 人/km²
ISO 3166-2TH-32

スリン県(スリンけん)

タイ・東北部の県(チャンワット)の一つ。ブリーラム県、マハーサーラカーム県、ローイエット県、シーサケート県と接し、カンボジアとの国境を有する。


歴史:

スリン県の地域は12世紀のクメール王朝時代には重要な地域であり、県内には現在でもクメール遺跡が残っている。時代が下って1763年に、県庁所在地は現在の場所に移された。当時はムアン・プラターイサナンと呼ばれていた。
チエンプムという男が白象を捕らえ当時まだ王になっていなかったラーマ1世に寄進した、のちにこれによりチエンプムルワン・スリンパックディーの官位・欽錫名を与えられ、集落の長の役を得た。
後にラーマ1世が即位するとルワン・スリンパックディーは知事に任命され1786年、彼の欽錫名の一部からこの県の名前をスリンに改めた。これが機会になりスリン県は象の県になり、毎年11月頃象祭りが開催される。

カンボジアと国境を接している県で、それ故にこそクメール王朝の遺跡が今も残っているのである。


象祭りの様子






タイで有名な3大祭りの中の1つ、スリンの象祭りは1年に1度だけ、タイ全土から300頭以上も集まり開催されるお祭りです。 何百頭もの象たちによる壮大なパレードやショー、パーフォーマンスが繰り広げられ、それを目当てに世界中から沢山の観光客が訪れ、大変賑わいます。
こんな1日に何百頭もの象が見られるのはこのスリンの象祭りしかありません。 タイにいるアジア象はアフリカ象と比較して小柄ですが利口で穏やか、人間の言葉も分かると言われています。

こんなに沢山の象が集まるようです。


象のサッカー


象祭りの動画

World's Largest Elephant Festival in Surin Thailand - 4K!

おもしろそうですね。一度見てみたいものです。

段々記事を書くのに疲れてきたのでこれでおしまい。

タイ国架空旅行記 V アユタヤ

タイ架空旅行記の5回目は、アユタヤである。

市内のタクシー



アユタヤ遺跡の黄昏





有名な木の根っこに埋まった仏頭



仏塔や寺院などの遺跡群






1351年にウートン王によって建都されてから、1767年にビルマ軍の攻撃で破壊されるまでの417年間、アユタヤ王朝の都としてタイの中心であり続けた都市です。
チャオプラヤー川とその支流に囲まれた地形は水運に恵まれ、17世紀はじめにはヨーロッパと東アジアを結ぶ国際貿易都市として繁栄しました。その都市計画や中央集権制度、国際貿易振興といった近代国家の基盤は、その後のバンコク王朝にも受け継がれています。

苔むした仏塔のチェディ、大草原に悠然と横たわる涅槃像、素晴らしい建築美を誇る歴代王の離宮、かつて栄華を極めた古都の壮大な歴史が眠る遺跡の街・アユタヤ。現代にその当時の姿をつたえる荘厳な遺跡群は歴史公園として整備され、1991年にユネスコ世界遺産にも登録されました。

世界遺産なのである。 Wikipedia による解説。

世界遺産古都アユタヤ
(タイ王国)
ワット・チャイワッタナーラーム
ワット・チャイワッタナーラーム
英名Historic City of Ayutthaya
仏名Ville historique d'Ayutthaya
登録区分文化遺産
登録基準(3)
登録年1991年
備考タイ政府およびユネスコは遺産の具体的物件を明記していない。
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図
アユタヤ歴史公園の位置
使用方法・表示

1967年、アユタヤの遺跡を含む地域が正式にタイ芸術局により歴史公園に指定された。
後の1991年には芸術局によるユネスコへの推薦があり、世界遺産(文化遺産)に登録された。

遺跡

ワット・プラシーサンペット

ワット・マハータート

ワット・マハータートにある仏頭

ワット・タンミカラート

大きな画像で遺跡群を見よう。

ワット・プラ・シーサンペット



ワット・マハータート





そして木の根に埋もれた仏頭



ワット・ロカスタヤ





日本人町跡

遠藤周作の「王国への道」という小説がありましたね。山田長政の一生を描いている。


読んだのですが、内容はすっかり忘れています。アユタヤ朝の傭兵隊長でしたね。



関係はないと思うけど、山田長政の邸宅と思いたい アユタヤの遺跡



そのレビューから: 

この小説には、生まれながらにして身分の仕組みがかたく決められた日本の世に飽き足らず、異国の地で一旗あげる為国を飛び出した男と、厚い信仰心を貫いた為に迫害され国を追われた男、祖国を離れはるかかなた異国の地で、現代に生きる私たちでさへ驚嘆するような冒険と行動に生きた二人の男の壮絶な生き様と死に様とが綴られている。

日本が堅く国を閉ざそうとしていたあの時代、黄金のパゴダの国は、居住区を与えていた日本やポルトガルを始め、西洋人アジア人に分け隔てない開放的な包容力を示していたという。

アユタヤ日本人町の跡の碑


Wikipedia の説明。

アユタヤ日本人町(アユタヤにほんじんまち)

14世紀中ごろから18世紀頃までアユタヤにあった日本人町。

15世紀後半から16世紀初頭までアユタヤ王朝下、軍事力と貿易による利潤を背景に政治的に力を持つようになった。

当時のアユタヤ中心地をチャオプラヤー川沿いに南に下った東岸にあり、西岸のポルトガル人街とは相対の位置にあった。南北約570メートル、230メートルの敷地に最盛期で1000~1500人の日本人(タイ族などの使用人を除く)が住んでいたと思われている。なお『暹羅国風土軍記』の資料では寛永期ごろのアユタヤ日本人町の人口を8000人と見積もっている。
アユタヤ日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の使用人などで構成されていた。

これで5回目のアユタヤ編はおしまい。