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2017年3月5日日曜日

エジプト旅行記 XXIV

1月6日

待望のピラミッド見物である。人類史上最大の遺産といわれている。また世界七不思議の一つでである。  世界の七不思議  新世界の七不思議

虚心になって考えるとまったくその通りで、こんなドデカい建造物をどのようにして造ったかとか、何の目的でとか、不思議に思うのが当然である。これらのピラミッドまつわる謎は今だに完全には解決されていない。

私も御多分にもれず古代史の謎とか巨石建造物なんかが好きで、興味本位で色んな本を読みました。吉村作治さんの本だけでなく、ピラミッド関係の本も沢山読んだのだけど内容はすっかり忘れてしまっている。それでWikipedia、ガイドブック、手持ちの書籍、YouTubeの映像なんかを参照して、ピラミッドの見学記を書いていくことにする。

ピラミッドといってもエジプト全土には100基近くあり、最大のものがギザのクフ王のピラミッドである。その近くにカウラ―王メンカフラー王の2つのピラミッドがある。その3つを合せてギザの3大ピラミッドと称している。

今回はその3大ピラミッドの観光編の前篇である。

ホテルから5分位で、ギザピラミッド遺跡の入り口に着く。

平面地図 

北から南へクフ王カフラー王メンカウラ―王のピラミッドが並んでいる。



検問所


朝靄の中 クフ王のピラミッド  入場チケットの売り場


最初は目前のクフ王ピラミッドで、内部の見学ができる。 

バスを降りて舗装された石畳を、巨大なピラミッドを目の前にしつつその麓まで歩いていく。


隣にあるカフラー王ピラミッドが薄っすらと見えている。


ピラミッドの稜線。 ギザのピラミッドなのでギザギザである。必ず言われるダジャレ。

巨石が何層にも積まれてピラミッドが造られているのが実感としてわかる。
観光用の馬車がいる。法外な料金を要求される場合がある(多い)ので、乗らないのが無難とのこと。


反対方向の稜線。 逆光になるので暗くなってしまい靄もあり石段ははっきり見えない。


大ピラミッドの全体像  近づいてみると巨大で、整然と並べた瓦礫の山と言う気がする。


ここでWikiやガイドブックから基礎知識を習得しておく。


ギザの大ピラミッド

 / 29.9791750; 31.13435

ギザの大ピラミッド


ギザの大ピラミッド(ギザのだいピラミッド、英語: Great Pyramid of Giza

エジプトギザに建設された、世界の七不思議で唯一現存する建造物である。
紀元前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』において、「クフ王のピラミッド」として報告されているが、この時点で建設から2000年以上経過していた。


ヘロドトスの胸像

その文章より:

ケオプス(クフ)王は50年間統治したと言われている。ケオプス王が崩御した後。兄弟のケフラン(カフラー)が王となった。ケフランもピラミッドを造った。それはケフランのピラミッドよりも12メートルほど低かった。だがそれ以外は同じような大きさのピラミッドだった。ケフラン王は56年間国を統治した。その後はケオプス王の息子ミケリノス(メンカウラー)が王位を継承した。ミケリノス王は父親よりも小さなピラミッドを残した。」

建築年代については諸説あり、一般的にエジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓として紀元前2560年頃に20年前後かけて建築されたと考えられている。

4500年も前に建設された壮大な墳墓である、と書きたいところだがそうでないという説もある。

なお、19世紀のフランス人考古学者オーギュスト・マリエットによってギザで発見され、現在カイロ博物館にあるインベントリー石碑には、ピラミッドは「ピラミッドの女王女神イシスに捧げられたものであり、スフィンクス大ピラミッドも、クフ王が王位につくはるか昔から存在していたのであり、またクフ王の墓は東側の脇にある3つの補助的建造物の一つがそれであると書かれている(他の幾つかの遺跡も同じ)。


オギュスト・マリエット

インベントリー石碑

これによると神殿の1種だということになる。でも内部の構造を見れば石棺などがあり、王が死後に復活するための建造物と思えるので、やっぱり墓でしょうね。

完成時の高さ146.6mは、14世紀にリンカン大聖堂が完成するまで世界で最も高い建造物であった。


リンカン大聖堂

この聖堂は紀元後の建築なので、クフ王のピラミッドは4000年近く世界で最も高い石造りの建築物であったわけである。これだけでも凄いよね。

ここでギザの大ピラミッドのデータ:

クフ王が建設したギザの大ピラミッドは、ピラミッド建築の頂点とされ、最大規模を誇る。
現在高さ138.74m(もとの高さ146.59m)、底辺230.37m、勾配51度50分40、容積約235.2万m3で、平均2.5tの石灰岩を約270万-280万個積み上げたと計算される。

ほぼ真下から眺めたピラミッドの写真をアップする。


写真右中央に見えるのが本来の入り口で閉鎖されているらしい。


入り口は抉られたようになっていて、その下に観光客用の入り口がある。かっての盗掘口らしい。

この入り口からピラミッド内部に入れるようになっている。


建設当時のピラミッドはこのように凸凹した石積みではなく、その上に化粧板が置かれツルツルピカピカの状態であった。その化粧板は全て盗み取られてしまったのだ。


これがその化粧板の名残。




ピラミッド内部の構造



クフ王のピラミッド断面図
1.入口 2.盗掘孔 3.上昇通路入口 4.下降通路 5.未完の地下室 6.上昇通路 7.女王の間 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間 11.控えの間 12.脱出孔


内部は撮影禁止なので上図で説明すると、つぎの順序で見学をする。全てが見られる訳ではなく、王の間までの往復である。 画像を探してみるとあるもので、幾つか見つけたので断りなし(禁止撮影?)に引用する。

1) 1の入り口から3の上昇通路入り口に向かって狭いトンネルを降りていく。


2) そこから6の上昇通路を登り、さらに9の大回廊を登る。

大回廊 長さ46.7m、高さ8.7m、下の幅2m 

3) 11控えの間に到達すると、その奥が 10王の間になる。

王の間の通気口。このように王の間は堅牢な御影石により寸分の違いなく方形に設計されている。



王の間には石棺が置かれていて、天井には大きな重量拡散装置である巨大な花崗岩の積まれた空間がある。重量軽減の間と呼ばれるており、最上部にはクフ王の名前が残されている。

重量軽減の間


王の間の石棺

 
4) 王の間から逆のコースで入り口に戻る。なお女王の間は入れない。


王の間女王の間にはそれぞれ通気孔が存在する。これは「シャフト」の名で呼ばれ、部屋の温度を一定に保つためのものと考えられている。

ピラミッドは奴隷の使役により造られたと、私が中学生の時代に教わったが、この説は現在は否定されている。ナイル川の氾濫する時期の失業対策として建設事業が行われたというのが事実であるようだ。 Wikiの説明より:

ギザの大ピラミッドに使用された石灰岩は、ピラミッドの500メートル手前の石切り場由来とされる。すぐ近くに建設に関わった人々の街も築かれた。ナイル川の氾濫する7-9月に仕事を失った農民が集められて建設に動員され、4000人の作業員が建築に関わったとされる。
以前は奴隷がピラミッドを作ったとされていたが、街には二万人以上が生活した痕跡があり、作業員は家族とともに暮らし、報酬やパン、ビールも与えられていた。切り出された石灰岩は平均2.5t程度の重量があり、300万個が使用された。これとは別に1個60tを超える花崗岩の石材が王の間に多数使用されている。

さて、どのようにしてピラミッドが建設されたかは大きな謎だが3つの説が提唱されている。

建設法

1.直線傾斜路説

ピラミッドまで緩い斜面をもつ1本の直線の通路を作り、ソリで石材を引き揚げて建築する方法。斜ピラミッドが高くなるにつれて通路も長くなり、最終的にピラミッドと同じ容積の材料が通路を作るために必要となる欠点が指摘されている。一方、ピラミッドは高い部分になるにつれ必要な石材の量は減るので、建設が進行すればするほどピラミッドより通路の設置のほうが大変になることになる。斜面の傾斜を5度とするとピラミッドの頂上を作るときには長さ1.6kmの傾斜通路が必要となり、石切り場からピラミッドから逆の方向に1km運んでから直線傾斜通路に乗せることになる。またピラミッドが完成した後に、ピラミッドと同じ体積の石材をつかって作った通路を撤去する必要がある。

2.らせん傾斜路説

ピラミッドの外周に沿って、らせん状の細い傾斜通路を設けたという説。細い通路しか使用できず、通路自体によってピラミッドが隠されてしまい、建築中の測量が出来ずに稜線が曲がってしまう危険が指摘されている。

3.内部通路説

フランスの建築家が提唱した説。元々は同じ建築家だった父親が、ピラミッドの中にらせん状の通路があるはずだという発想から始まっている。この説を受けて現地の調査でも内部通路がふさがれた跡が見つかったり、1986-1987年のフランスのピラミッドの重力分析によって内部に15%のらせん状の空洞の存在が示唆されていたことが改めて着目されるなど、注目を浴びている説。内部の通路の傾斜は4度、総延長は1.6kmで内部の比較的浅い場所を4-5周まわって頂上近くにまで至っていると予想されている。下1/3の建築には直線傾斜路が使用されたとされる。これは前述の60tの花崗岩などを運ぶ必要があるため、内部トンネルだけでは建築できないためである。この時に大回廊にはバラストと搭載したソリが設置され、エレベーターの原理で石材の引き上げがおこなれていた。用が済んだ直線傾斜路は解体され、その石材はピラミッドの建設に転用された。崩壊したアブグラブ神殿でも同様の内部トンネルが確かに存在したことが確認されている

3の説が現在有力視されている。これについてはつぎの動画が詳しい。ピラミッド内部の映像もあり、大変面白い。


ピラミッドはこうして造られた 1/5



ピラミッドはこうして造られた 2/5



ピラミッドはこうして造られた 3/5



ピラミッドはこうして造られた 4/5



ピラミッドはこうして造られた 5/5

英語版だけど、ピラミッドの建造法だけでなく内部構造や周辺の建築物、さらにはミイラの作り方などの解説もある興味深い映像です。




The First Construction Of Pyramid - Geographic History


息子達はピラミッドの内部に入ることが出来て歓声をあげている。


私もまた巨大ピラミッドを目の当たりに見て、さらにその中にまで入ることができ甚く感動したのであった。


今回はこれでおしまい。

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