I の続きである。 紀伊半島山越え一周旅行 2014.7.5-6 I
新宮市は、かなりの広域市である。 知らなかったが、西宮市のように飛び地もあったのである。
(小さな赤丸です。)
JR新宮駅が市街の中心になっていて、市内地図はこうなっている。赤の□で囲ったのが新宮駅。
ホテルでのブッフェ形式の朝食を済ませてから、腹ごなしに周辺の散歩をする。
いつもの如く、食べなければ損とばかり朝っぱらから鱈腹たべたのである。 相変わらず食い意地の張ったジジイである。
ホテルの裏側が、丹鶴城公園になっている。 丹鶴城とは、新宮城のことである。
ここでまた、Wikipedia によるお勉強である。
残念なことに、お城の天守閣はない。天守台、石垣、曲輪が残されているのみである。
従って、画像はない。
新宮城 (和歌山県) | |
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別名 | 丹鶴城、沖見城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 3重5階(非現存) |
築城主 | 浅野忠吉 |
築城年 | 1618年 |
主な改修者 | 水野重仲、水野重上 |
主な城主 | 浅野氏、水野氏 |
廃城年 | 1873年 |
遺構 | 天守台、石垣、曲輪 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯33度43分47.7秒 東経135度59分32.9秒 |
新宮城(しんぐうじょう)
和歌山県新宮市にあった城である。別名を丹鶴城(たんかくじょう)、もしくは沖見城(おきみじょう)ともいう。城跡は国の史跡に指定されている。
新宮城跡である。国の史跡に指定されている。
これが、丹鶴姫の碑である。
このお方である。 (実をいうと、このご当地ゆるキャラを紹介したかったのだ。)
公園の東側の一部は、天理教南海大教会の敷地の一部にもなっている。 デカい敷地だ。
教会の立派な建物は、こんな風です。
現在、新宮市では天守の再建も視野に入れた整備計画が進行中である。
との事である。 立派な天守閣を建てて欲しいものだ。
駅前本通り商店街の通りから少し入ったところに西村記念館がある。
ぼろっちい建物であるが、国の重要文化財になっている。 博物館として公開されている。
ここは、 Wikipedia にもちゃんと載っている。
西村記念館 Nishimura Memorial Museum | |
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施設情報 | |
前身 | 旧西村伊作住宅 |
専門分野 | 西村伊作の作品や資料 |
所在地 | 〒647-0012和歌山県新宮市新宮7657 |
位置 | 北緯33度43分40.3秒 東経135度59分33.5秒 |
かつて与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻や石井柏亭など多くの文化人たちの社交の場であったこの歴史的建造物の保存・活用を目的に設立された。
西村伊作 の壮年期です。 自分の娘のために、文化学院を創立したんですね。
西村 伊作(にしむら いさく、1884年9月6日 - 1963年2月11日)
日本の教育者。文化学院の創立者としても知られる。大正、昭和を代表する、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。
ちなみに、周辺にも似た感じの古い屋根付き2階建ての洋館がある。 こちらは、文化財ではないらしい。
ここから、少し歩くと徐福公園につく。 中国寺院風の門構えですね。
マレーシアでも山ほど見ました。
秦の始皇帝に命じられて、不老不死の妙薬を探した高官として有名ですね。
新宮市の観光協会のホームページより、抜粋すると、
徐福公園
概略: 徐福は、今から2200年ほど前、秦の始皇帝に仕えた高官である。強大な権力を持った始皇帝は、全てのものを手に入れたが、残された最後の望みが「不老不死」であった。当時、多くの人は始皇帝の暴政から逃れたいと望んでおり、そこに登場したのが方士(神仙思想の行者)徐福であった。徐福は海のはるか東方に蓬莱という山があり、そこに不老不死の薬草があると欺き、資金と船、医師や技術者などのスペシャリストを要求し、3千人の人々と船出したことになっている。そして、難破しながらもたどりついたのが熊野新宮である。徐福一行は、気候温暖、風光明媚、人情の温かさにほだされてこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕技術だけではなく、造船、捕鯨、紙すきなど多くの技術を伝えた。
徐福の伝説は日本各地にあるが、新宮には室町末期すでに徐福の墓があったという説や徐福の墓の近くには昔から「七塚」といわれるところがあり、そこに徐福の重臣7人の墓があったとされていることなどからみて、新宮の徐福伝説がもっともらしくせまってくる。
江戸初期に初代紀州藩主・徳川頼宣が建立した「徐福の墓」(市文化財)を中心に1996年に整備され、開園したのが徐福公園である。
この徐福公園を尻目に、JR新宮駅まで歩をのばす。
駅前に、東くめの歌碑がありました。 滝廉太郎作曲 鳩ぽっぽ です。
前回の記事 紀州の童謡とその動画 を参照。
この方です。
明治10年、水野藩主水野家の家老職、由比甚五郎の長女として新宮に生まれる。東京音楽校在学中より作詞を手がけ後に、滝廉太郎とのコンビにより「鳩ぽっぽ」「お正月」「鯉のぼり」「雪やこんこん」など、日本で最初の口語体による唱歌を生み出し、今も愛唱されている。
Wikipedia によると、
東 くめ | |
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基本情報 | |
出生名 | 由比 くめ |
出生 | 1877年6月30日 |
出身地 | 和歌山県東牟婁郡新宮町 (現:新宮市) |
死没 | 1969年3月5日(満91歳没) 大阪府池田市 |
学歴 | 東京音楽学校卒業 |
ジャンル | 童謡 |
職業 | 作詞家 |
共同作業者 | 瀧廉太郎(作曲家) |
死去した翌年の1970年12月20日に、「東芝日曜劇場」にて、東の生涯をとりあげたテレビドラマ『いのちの歌』(脚本:木下惠介)が放送された。このドラマでは、樫山文枝が東を演じた。
との事です。 TVドラマは、覚えておられる方がいるかもしれない。
おはなはんの樫山文枝は、もう72才になります。 おばあさんになった彼女は見たくない、ということで、40年前の文枝ちゃんです。お年寄りVersion もありましたが、アップしません。私には、この顔立ちしか思い浮かばない。
ワイフは、新宮駅で瀞峡等の観光情報を得ようとしたが、適切な資料をゲットできず。
ホテルに帰ろうとしたところ、雨が降り出す。 かなり濡れてしまったが、ホテルに帰りつく。
幸いなことに、ホテルの駐車場に新宮の観光パンフが置いてあった。これで一先ずは、瀞峡めぐりが予約できる。
8時にホテルを出発し、ウオータージェットの乗り口、志古乗船場に向かう。
熊野川沿いの、起伏のある道路である。 道路の向かい側が、川の熊野古道になっている。
50分ほど走って、ウオータージェット(WJ)の乗場につく。 瀞峡めぐりの里 熊野川 とある。
幸い雨は降っていない。
熊野川の石碑である。見ればわかるが・・・。
店舗内に、WJのチケット売り場がある。乗船時刻表によると、9時半の乗船になる。
所要時間1時間55分、運賃大人3440円である。いささか高いが、取材のためには仕方ない。
店舗は、土産物屋になっていて、店の奥が乗船口になっている。
そこから、WJをながめると、こんな風に4台並んでいた。天気の都合で、天窓は開かない。
目を川下に向けると、こんな風で、
川上に向けると、こんな風であった。 何の変哲もない景色である。
WJのパンフである。
ここで、瀞峡をWikipediaで調べてみた。 実に貧弱な解説である。書きかけだから仕方ないのかもしれぬが、新宮市の観光協会の方にもっとしっかりした解説記事を書いて欲しいものだ。
瀞峡
吉野熊野国立公園の一部。
上流から、奥瀞、上瀞、下瀞と呼ばれ、下瀞は瀞八丁の名で特に著名で、巨岩、奇岩、断崖が続く圧倒的な渓谷美は、古くから名勝と讃えられている。
瀞峡のキャッチコピーはこれです。
太地の記憶を辿り、
神と出会う大峡谷、
エメラルドグリーンに写る
自然はあまりにも美しい
後でわかりましたが、これは誇大広告です。
定時になったので、WJに乗り込む。
水深の浅いところを航行するため、船底はフラットになっている。
水を蹴立てて、上流の下瀞へ向かうのである。
窓からの景色を写してみよう。
変わり映えがしないな~ということで、橋の下を写す。
小川口乗船場では、護岸工事をやっていた。レンジャーの人が手を振ってくれました。
ようやく、両岸の岸壁がせりだしてきた。
ここから瀞峡観光コースが始まる。 洞天門である。
下瀞の奇岩がつづく。 夫婦岩
亀岩
屏風岩
寒泉窟
寒玉潭
と奇岩探訪が続いて、 田戸乗船場に到着。 う~ん。 大した奇景とも思えぬ。
ここで、約20分の下船休憩である。 河原には、お土産屋や売店が並んでいる。
ここは、景観スポットにもなっている。 川原から見た風景である。
向かいに見えるのが、十津川村の瀞ホテルである。 現在、食堂・喫茶として営業再開しているそうだ。
川向いにあるのが、瀞ホテルの別館である。こちらは、使用されていない。
ホテルの近くまで登ってみた。 ウエットスーツを着て、カヌーを持った若者たちが石の階段から
降りてきたのに出会う。 確かに川下りには良い流れであろう。
このホテルに興味を持ったので、調べてみた。 築100年以上だそうだ。
画像は、十津川村観光協会のホームページから拝借した。
まづ全貌は、こうである。
ホテルの由緒ある看板は、これだ。
内部は、このようになっている。昭和の時代の電球がともっている。
喫茶室のたたずまいと、そこの窓からの景色です。
なかなか良いではないか。 しかし、ここに宿泊しない限りお茶を飲む時間などはない。
食堂・喫茶 瀞ホテルの facebook があります。 ここに、張り付けておきます。瀞ホテル
こんな料理が食べられるようです。
話は変わるが、ここには鴨がいる。野生ではないように思う。飼っているのではないだろうか?
変化を与えるために写してみた。そっぽを向いている。
乗船場には、お土産屋があり、そこで那智黒石 のカエルを購入した。 木製ではない。
300円である。そこには、こんな穴あき板も売っていた。これは、何じゃと思ったが、後で判明。
碁石を取るためにくり抜かれた那智黒石の原石であった。 この円盤の角を丸くして、碁石を作る訳だ。
ここで、またお勉強である。 Wikipedia より、
那智黒石(なちぐろいし)は、粘板岩の一種、及びそれを加工した宝石。
産出地は三重県熊野市神川町。
江戸時代には、七里御浜で採取された那智黒石が庭園用の玉石として用いられていた。
■那智黒石はなぜ黒いか?
那智黒石は、黒色で細粒、緻密な泥質岩です。多量の炭素を含んだ水性粘板岩(堆積岩)が噴出溶岩と、接触してできた黒色硅質頁岩がきめこまかいため黒くなります。 碁石の黒石といえば那智黒石です。硯の材料にも使われる。
であります。 那智黒石は、この地域でしか産出しないそうである。貴重なのだ。
休憩時間が終わり、上瀞に向かう。
またもや、奇岩の連続である。 望月岩
獅子岩
こま犬岩。 目玉と口元に注目。 こんなのは、判じ絵でみたいでよくわからん。
母子の滝。上にも小さな滝がある。
パンフにある、
川のイメージを超えた深大な総延長31㎞にも及ぶ
渓谷美を作りだすのに、
地球はどれほどの歳月をかけたのだろうか。
なんていうコピーは、 大袈裟すぎである。 世界には、もっと凄いフィヨルド渓谷が山ほどある。
例えば、ニュージーランド最大のフィヨルドランド国立公園のミルフォード・サウンドです。
写真よりもっと凄い渓谷がつづきます。 ここへは、行ってきました。 素晴らしかったですよ。
上のキャッチコピーは、こちらが相応しい。
また機会があればここの記事を書きます(無理かもしれない。)
帰り道。 もやが立ち込めている。川霧である。 船は進む。
船中から 上を見上げると吊り橋。 山彦橋であろう。
調べてみると、山彦橋はこの様な橋なので、間違いはないだろう。
中央の板敷きが何やら怖そうである。 後で、もっと怖い橋を紹介する。
下りは快調に進み、
もとの志古乗船場に到着。
ということです。
II もまた、脱線つづきで長くなったしまった。 後の行程については III につづく。
それでは、ごきげんよう。
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