考え事をしていると気持ちが乱れ気が変になってくる。ここは落ち着いて行動あるのみだ。心の整理のため日々の行動記録を書く。
3月21日
午後2時ころに中央市民病院に到着。それ程大事だとは思っていなかった。緊急手術が必要と聞いて吃驚する。CTで調べた結果急性大動脈解離と分かる。最悪の結果だが、早く解ったのが幸運であった。手術の同意書を書くが、医師の説明が飲み込めない。
午後4時から急性大動脈解離の手術。大動脈の1部を人工血管に置き換える手術であった。約6時間で、9時半過ぎに医師から手術は成功したと告げられる。縫い合わせの時間にそれから2時間半ほどかかった。8時間余りの大手術だった。後遺症とかが起こるかもしれぬが、命は助かった。神に感謝する。
深夜息子二人と帰宅。緊急時は連絡が入ることになっていたが、それはなく安心する。
3月22日
ワイフの入院書類等を整える。殆ど寝られず。8時の面会時間に間に合うよう、母の入院している施設にいく。母に余り気にしないように伝えてから状況を説明した。母の世話は全面的に妹にお願いする。当分施設にはいけない。それから私の膝の治療で整形外科にいく。
パンを買って自宅に戻り、朝食後車で病院にいく。
ポートアイランドの中央市民病院は大病院で、入院と面会の手続きに手間取ったが無事にすます。面会許可のカードをもらう。4階の集中治療室にいく。面会は2回に制限されている。12時から3時までと6時から8時まで。
ワイフの長兄夫婦が来てくれていた。一緒に面会にいく。医師から状況を聞く。昨夜大量の輸血をして、心臓部分からの出血が甚だしかったらしい。身体に沢山の管が繋がれている。顔は少しむくんでいる。麻酔は切ったのだが、意識は戻らない。頭のCTを撮ってもらったが、出血はないとのこと。ほっとしたが不安はつづく。ワイフの1つ上の兄が3時前に面会に来てくれる。色々と医師に質問をしてくれたので、状況がわかる。ワイフの眼はまだ宙をさまよっているが、意識は戻ったようだ。私達がわかるようだ。涙が出るほど嬉しかった。息子も同様。3時になったので一旦自宅にもどる。
スシローで息子と寿司をたべて6時に病院にいく。鼻のチューブは外されている。息子達を認識したみたいだ。か細い声だが話をすることができる。頭のダメージは今の所ない。四肢も動く。とても嬉しい。喉が渇くようだが水は飲みにくい。1滴の水でむせるようだ。終止手を握ったり脚をなでる。私にはワイフしかいない。生きていてくれて良かった。
その後三男は長男を奈良の自宅まで送っていった。もう一緒には行けないので孫の誕生日祝いは持って行って貰った。奈良に行って孫に会うのをあんなに楽しみにしていたのに。
退出時の8時まで付き添いをして、ポートライナー、JR、バスを乗り継いで帰宅。9時すぎ。テーブルの上を片付けて、残りものを缶ビールと一緒に食べてから寝る。爆睡。
3月23日
6時に目覚める。昨日の洗濯物をかたづける。全てワイフ任せだったので、収納場所がわからない。自分の家なのにわからない所だらけ。仕方ないので適当に収納する。手際が悪いので時間がかかってかなわぬ。植木に水は昨日やったので今日はパス。
ワイフが気にしているボランティアの仕事の処理をしなければならない。しかも至急にだ。友人の携帯に連絡するも繋がらず。この記録を書いている途中で連絡があった。11時ころに会計報告書類と声のボランティア2016年春号の編集書類を渡すことにする。ワイフは朗読と編集録音を担当していた。
午前中は、借りている図書の返還と高額医療費減免の申請をしに市役所に行く予定。
朝飯は隣でインスタントコーヒー。自宅でコールスローを作ってパン1枚食べる。ニンン、ピーマン、茗荷の細切りをいれる。マヨネーズ過多で味をごまかした。ワイフは親戚中が認めるように非常に料理が上手。しばらくは食べれない。その後食器洗い。
息子が来るまで、母の生協退会の書類を書く。出資金返還は、1332円のみ。残りの1万5000円弱は没収らしい。ウ~ム。ぼったくりだが、文句をいう気力はない。
洗濯物残りの取り入れ整理。靴下が残っていた。ワイフの長靴下を見て、突然涙が出そうになる。回復しているというのに。老人性感情失禁の始まりかもしれん。気をつけねば。
マンションの玄関屋根が滑落しているという連絡が会長からあった。その後すぐに管理会社から自宅の給水器からの水漏れが原因かもしれぬので調べるとの連絡が入った。自宅に居れる時間帯を考慮して明日の朝9時にして貰った。
その後三男の車で私は図書館と区役所へ、息子には日赤にボランティア関連の書類を届けて貰った。図書館の本は返却したが1冊はまだだった。母親の時にも経験したので、思いのほか早く国民健康保険の限度額適用認定書を入手できた。待ち合わせの古本屋では息子の方が先に用事を済ませて待っていた。車で中央市民病院に着いたのは12時丁度であった。
長姉と姪が見舞いに来ていて、涙ぐんで話をしている。ワイフの意識ははっきりしていて、聞き取りにくい発音だが話をすることができる。声帯の一部に不都合が起っている。誤嚥しやすいので注意が必要とのこと。表情にも生気が戻ってきている。すぐ上の姉も見舞いに来てくれた。これで入院中の2番目の姉を除き兄妹全員が来てくれた。皆から元気をもらったようだが、やはり疲れたらしい。疲れないためには見舞い客は早めに帰ってもらうのが患者には一番と思う。ボランティアの仕事の引継ぎはすませたと知らせるとほっとしたようだ。ワイフの役に立てたのちょっぴり嬉しい。気にする事を無くして治癒に専心するのが一番である。
医師から説明を受けたが、左肺から800mlの血水を取り出したそうだ。右肺にも溜っているがこちらは管が通っているので今はそのまま。依然心臓の部分からは3本の管が繋がれ、かなり減ったは溜った血や水が流れ出している。
呼吸が苦しいのか鼻からチューブで酸素を送って貰っていたが、喉がとても渇くようだ。親切な看護師さんに舌と上あごを冷たい水で湿らせてもらっていた。寝返りを打てないのも苦しいようだ。上体を動かすと痛みが走るのでとてもつらそうだ。面会終了の3時が来たので、入退院受付所で医療費減免の手続きを済ませてから自宅に戻る。
唇の乾燥を防ぐためリップクリームが必要ということで家中探したが見当たらない。ワイフが言うのは、ピンクの巾着の中にあるということだがその巾着がどこにも見当たらない。
自宅について洗い物と植木の水やりをして、義姉に頂いたお菓子で1人でコーヒータイムをする。その後30分ほどうつらうつらしてから5時半に息子と病院に行く。6時すぎに着いたのだが長男が先にきてくれていた。ワイフは酸素マスクをつけて眠っている。悪い事が起ったのかと、ビクリとしたが、自力での呼吸が苦しそうなので楽にするためと肺を圧力をかけて膨らますために麻酔をかけているいるので心配することはないと医師が説明して下さった。心臓部分からの3本の管は取り外されている。一歩づつ回復に向かっていると、その若くてハンサムでその上親切なお医者さんが言ってくれたのだ。息子達は車で帰った。
ワイフは苦しそうな表情は見せるがずっと眠っている。ワイフに安心してね、がんばれよと心の中で呼びかけつづけた。声にも出したけど、聞こえてないみたいだね。8時が来たので、明日また来るよと言って集中医療室をでた。夕食にポートライナー駅前の蕎麦屋で春定食を食べてから自宅に戻る。交通の接続が悪くて自宅に着いたのは10時ころ。帰りのバスの中で妹からケータイに連絡があった。自宅に戻ってから妹にワイフの状況の電話報告をする。見舞いに行こうかと言ってくれたが、容態が落ち着いてからにしてもらうことにした。妹となにかと話をしていると気持ちが治まる。
なにはともあれワイフは徐々にだが回復に向かっているのだ。医療スタッフに感謝しなければ。
疲れたが心は軽くなっている。明日も行動あるのみ。おやすみ。
3月24日
6時半に目が覚める。新聞を読んでから朝食の用意。ピーナッツバタートーストと昨日の残りのコールスローを食べる。コーヒーは事後処理が面倒なのでインスタントにした。カップは1つでいいのだ。
9時に業者が来るので、それまでに洗濯の用意。隣の家で「朝がきた」を見てから1月ぶり位に掃除をする。思いのほかほこりが溜っていた。洗い物済ます。昨日風呂に入らなかったので、朝シャワーを浴びる。薄くなった頭を洗う。
考えてみれば生まれて初めての単身生活になる。家でのワイフロスは身に応える。一人屁をひっておかしくも無しだ。
9時に業者が来る。点検の結果やはり自宅給湯器の排水管につながる管が劣化して水漏れを起こしていたのが原因らしい。修復作業が始まるが、すぐには修復できないと分かる。応急措置をして、後日こちらから作業日を連絡することになる。修繕費用はこちら持ちだそうだ。悪い時には悪い事が重なるものだと思う。
その作業の間に植木の水まきをする。アロエは何故か枯れかけているが他の植木は元気。
息子に車で来てもらうようにワイフの携帯で連絡する。待つ間にワイフの友人のメールに返信しようとするが携帯のメールを打ったことがなく四苦八苦する。何とか送信する。
渋滞のため息子は遅れるようなので、直接病院に向かった。気が気でなかったのだが12時時30分に病院到着。ワイフは昨日よりも元気そうであった。ほっとする。息子は先に着いていた。声はまだかすれているが随分聞き取り易くなっている。呼吸をするのはまだ苦しそうだが、寝返りは打てるようになったので楽にはなっているようだ。喉が渇くのでしきりに水を欲する。水はまだ飲み込めないので、スポンジで舌と上あごを湿らせる。要求するたびに、小まめに看護師さんがやって下さっている。2時20分ころに状態を診察してから右肺から溜っている水を抜くことになった。約800mlの血水があったそうだ。左右の肺に同じくらいの水が溜まっていたようで、水が無くなったので随分と呼吸が楽になった様子だ。長男も来てくれた。ワイフは息子達と楽しそうに話をする。読書やTV視聴も可能になるという事で、漫画本を差し入れることに決まる。
3時になったので退出して本屋に向かう。HAT神戸ブルメールの本屋では見当たらなかったが、JR六甲道駅高架下のつたやで見つける。7冊購入する。青春ジャズ漫画で、「岳」の作者が描いている。今調べてみた。石塚真一でした。タイトルは、BLUE GIANT。長男とつたやで別れて、早めの昼食兼夕食を取ろうということになり、高架下のモルトボーノに行く。ワイフと1度行ったことがある。私は春野菜と海鮮のペペロンチーノ、息子は石焼風のチーズスパゲッティ。美味。
それから時間がないので病院に戻る。面会時間の6時になったので、集中治療室に入る。食事を摂っている! 全てがドロドロの流動食というのか、ヨーグルト状の食事である。全部ではないが、幾らかは自力で食べられたのだ。ペースト状のおかゆと芋とエビのすりつぶしたもの。それとヨーグルトの小パックがあった。これは全部食べたようだ。とろみをつけた水もむせずに飲める。
ワイフの血色が随分良くなっている。むくみも取れてきている。3時間ほどなのに劇的に改善。手足も完全でないにしろ、殆ど支障なく動かせる。喋るのはまだかすれ声だが、以前のワイフである。嬉しくてまたもや涙が出そうになる。それから息子を交えてワイフとよもやま話。元気になったら花を見にこうね。 もう手足のリハビリも開始されている。左足はまだだが、それ以外は不自由なく動かせる。発症後直ちに病院に運ばれ手術を受けたお蔭だ。妻の友人たちや何より市民中央病院の最新の設備、優秀なスタッフのお蔭だ思う。心から感謝する。
8時になったので退出する。息子に自宅まで送ってもらい、9時になったので妹に報告する。母もリハビリで歩くのが改善されたと聞いた。好い事があるとそれもまた重なるものだと思う。
洗濯物を取りこんでから、缶ビールで一人乾杯。すぐ就寝。
3月25日
5時半に目が覚める。新聞を読んでから家の片づけ。ワイフに見せてやろうと思ってハーブ園の写真を編集してコピーする。ワイフのパソコンを持っていきそれで再生する予定。
24日の記録を書きながら朝食の用意。キャベツとトマト半個それに腿ハムでオープンサンドを作る。我ながら上出来で美味い。それとインスタントコーヒー2杯。
食後洗濯物のたたみ込み。相変わらず収納場所がわからないので適当にぶち込む。時間ができたので母の介護施設に立ち寄り、母を安心させられそう。10時に孫のバースディーケーキのキャンセルをダニエルにする。今度は快気祝いに来てもらう予定でその時に延期。
10時23分のバスで自宅出発。11時ころに施設について母と話を5分ほどして安心してもらう。それから病院に向かう。12時15分前についたので、パソコンに写真がすぐ見れるようにセットしてから、12時丁度に三男と一緒に集中治療室にはいる。ワイフは流動食を取っている所だった。食欲はなく洋梨のペーストを食べたくらいである。鼻からの酸素吸入器を付けているので口が開いたままになり喉が渇くらしい。水を欲しがるが飲むのに困難があるので、とろみをつけた水をゆっくりゆっくり流し込むようにして飲む。それでも時折むせて苦しそうに咳をする。自力で痰を吐けるようになったのでこれは回復の1つだ。少し話をして、パソコンで10数枚の写真を見せたのだが苦しそうなのでやめる。漫画は1ページ読んだだけ。食事と話すことで疲れたらしくうつらうつらする。口を開け、苦しそうに胸を上下させ息をしている。肺に水が溜まってきて呼吸が苦しくなっているらしい。この状態のまま3時までつづく。見ているのが辛い。
3時の退出時間になったので、自宅に帰る。30分ほど横になってから昼食兼夕食のラーメンを息子と食べてから病院に向かう。6時に集中治療室に入る。夕食の途中だったが、鶏肉のペーストと果物のゼリーは食べられたようだ。苦い薬を飲んでからヨーグルトで口直し。話をしたが、やはり疲れるらしく半覚醒の状態になり苦しそうに息をする。次男が見舞いに来るので、三男が車で新神戸駅まで迎えに行った。7時40分すぎに次男が治療室にやって来た。ワイフは喜んでいたが、話をする元気はなさそうで頷いているだけ。またまどろみの状態になる。身体に付けられている管は点滴の管1本になったので回復に向かっているのだろうが、ワイフはずっと苦しそうでウトウトしている。胸を切り開いて8時間もの手術をしたんだから、水が溜まっても仕方ないよね。
8時の退出時間になったので車で自宅に戻る。息子達は、お見舞いのイチゴ大福を食べてから垂水に帰っていった。今日はかなり疲れた。昨日の嬉しい気分は無くなってしまっている。回復に向かっていると言い聞かせているが、ワイフのやつれた顔を思い出すと気分は沈む。一喜一憂とはこのことだ。妹には電話せず。缶ビールを1本飲んですぐ寝る。
3月26日
朝4時に目が覚めた。新聞を取りにいって読もうとしたが頭がぼーとしている。これではいかんと、パソコンを立ち上げ日誌を書き始める。昨日の見舞いの記録を書いた所で、一旦休止。昨日の食器洗いと、冷蔵庫のお茶が無くなったのでやかんで湯沸し。洗濯物は私の分だけになったので随分と減った。今日は天気の予想なので毛布を洗うことにした。次回はワイフの布団の毛布。
朝食を作る。昨日の残りのトマト半個とベーコンとキャベツを炒めて人参の輪切りでオープンサンドを作る。美味くない。新聞を読みながらインスタントコーヒー2杯飲む。昨日はプロ野球の開幕戦だったんだね。阪神は負ける。朝食後シャワーを浴びる。頭と身体の洗濯。晩は疲れてしまうので、当分風呂はやめて朝シャンにする。
誰もいないので独り言を言いながら作業をする。つぎは洗濯物の片づけで、残り物の野菜で炒めものを作ろう。その前に部屋の掃除。ココロボ君には任せられない。洗濯物乾しも完了。リビングの掃除が終わったところで、時間がきたので隣に「あさが来た」を見に行く。つづきは終わってから。何やら単身生活の実況中継のようになってきたね。
雨の日、あさに孫が生まれた。旦那はもうすぐ亡くなるような展開だがどうなるのか?話はもう終盤で盛り上がりはない。
自宅に帰ってきてから掃除完了。チンゲン菜、ニンジン、ピーマン、キャベツをべーコン炒めする。しめじは腐っていたので捨てる。ウエイパー、ごま油、だし醤油で自己流に味付け。買い置き野菜を全部使ったったので大量にできた。三分の一位食べる。ワイフの味付けより格段に落ちるが、食べれないことはない。でも朝から食べ過ぎ。残りは夜に回そう。
隣に行って書類や文献の整理。もう読めそうもないのは捨てる積りだが、捨てる残すの判断が難しい。10時10分までやって、昨日と同じく23分のバスで母の居る施設と市民病院に行く予定。ワイフが集中治療室に入ってもう5日目になる。少しでも回復していると良いのだが・・・。
母の入居施設には10時50分ころに到着した。母は個室にいた。11時10分までワイフの状態報告をする。妹が言ってたように母は歩くことについては可成りの改善をしている。階段を昇る練習もしたという。リハビリのお蔭である。理学療養士さんに感謝するのみ。母はむしろ歩けるようになって施設を出されて自宅に戻るのを恐れている。私にはワイフと母の二人の自宅での世話は困難と解っているからだ。
施設を出てポートライナーで12時10分前に病院到着。膝の具合が良くないので、さっさと歩けないのが腹立たしい。12時丁度に見舞いの控え場所に着いたが、息子達が集中治療室から出てきて、今診察中で看護師さんが呼びにくるまで待機するようにとのこと。すぐに呼びにきてくれたので入室する。エコーで肺に溜っている水の量を調べたが、それ程多くないとのこと。顔色を見ると昨日ほど悪くない。食欲はなく、流動食もリンゴのペーストとヨーグルトは殆ど食べたが後は口を付ける程度。相変わらずかすれ声(斜声というらしい)だが、話はできる。相変わらず呼吸するのは苦しいようだ。息子達と無理しない程度に話をする。肺や心臓に水が溜まっており、それを自力でおしっことして体外に排出するとむくみも治まってくると伺った。利尿剤で排尿を促していて、順調に出ているそうだ。リハビリ用のスリッパを病院の売店で購入する。相変わらず苦しそうなワイフを見守る。鼻の酸素チュープは外せないが、口を閉めて息をできるようにはなっている。改善には違いない。3時になったので退室。
車でHAT神戸のブルメールに行き、飲食店街にあるカプリチョーザで食事を取る。息子二人は朝から食べてなかったので空腹。次男の注文で3人用のセットメニューを頼む。飲み物、サラダ、パスタ2皿とピザのセット。パスタは、イカスミスパとカルボナーラで濃厚であった。3人で完食。食後自宅に戻る。看護師さんから頼まれていた洗髪のためのシャンプーとワイフに頼まれた顔につけるクリームを見つける。洗顔用品一式を納めた袋を息子がもってきたのでその中のそれらを入れる。朝野菜の炒め物を作った大なべやその他の皿を洗う。洗濯物の取り入れ。暫しベッドの横になり休息。遅れるといかんので、5時10分に自宅を出る。渋滞がなく、30分ころには市民中央病院近くまでくる。ポートアイランドの先まで行ってまた病院に戻ってきた。
6時前に病院到着。ワイフは食事中であった。食欲は相変わらずない。流動食は梅のペーストとヨーグルトは食べたが後は少し。鶏肉と野菜の炊き合わせのペーストもあったが食べたのは2口ほど。相変わらず胸が苦しいらしく、何度も何度も寝返りを打つ。喉に絡んだ痰を自分で吐きだせるようにはなっているので、昨日よりは大分楽になっている。リハビリで5分間座る練習をしたそうだ。また数秒だが立ち上がる訓練もした。本人がいうには立つととても胸が苦しいそうだ。また肺のリハビリで、肺活量検査の様な器具で息を吸い込む練習を始める。100㏄も吸い込めない。目標は250㏄である。苦しくて今はとても無理と言っている。左の手足のむくみはまだ引いていない。苦しそうに寝返りを度々うっている。体内に溜った水はそう簡単に無くならない。これからは徐々にしか回復して行かないのだ。そのためにも苦しいけど気長に頑張ってリハビリをしようね。
8時までワイフを見守って自宅に帰る。疲れて車でウトウトする。息子にワイフの買って来たホワイトソーセージを渡す。息子達は垂水にすぐに帰る。
朝の残りのチンゲン菜炒めを当てにして缶ビールを1本飲む。古本屋で見つけた、楡周平の「介護退職」を読みながら飲んだ。働き盛りのサラリーマンが母の介護のため追い詰められていくという話。重っ苦しい話だが、最後はハッピーエンドになった。
実際の介護は先が全く見えないので辛いものがある。ビールを飲み終わってもまだ炒め物が残っていたので、ワインをグラス2杯ほど飲んで食べきった。今日は食べ過ぎ、飲み過ぎの日だった。反省する。妹にワイフの容態報告。少し泣き言をいう。10時ころ寝る。
3月27日
4時半に目が覚める。新聞を取ってきて読み始める。5時半ころから昨日の記録をこの日録に書いている。時間はかかるが却って余計なことを考えないので精神衛生上は良い。今日の午前中の予定は、ワイフがまとめ役になっていた乳製品のグループ購入の来月からの中止の連絡をグループの皆さんと事務局にすること。代金の集計振り込みはワイフに聞けば分かるだろう。
7時に朝食の用意。コーヒー2杯とトースト1枚。昨日食べ過ぎたので、今朝はピーナッツバターのみ。新聞を読みながら何とはなしに考え事をしているともう8時。隣に「あさが来た」を見に行く。今日は日曜なのを忘れていた。ドラマはなく代わりに「あさが来た」SPを放映していた。広岡浅子の実録。村岡花子とも関係があった。浅子の開いた御殿場での夏の勉強会に出ていたそうだ。浅子は本当に偉い女性である。彼女の残した言葉は「九転十起」。転んで起きて歩くのでなければ本当に歩くことにならない。その通りだね。
11時までゆっくりする。心臓が時々息苦しい。私も冠動脈にステントが入っているもんね。無理はしない。洗濯は明日以降に回す。文献整理はやめ。今日日曜日は来てくれるが、夜遅くに次男は東京に帰り、月曜からずっと休んでいた三男の店を開けるので、来週からはワイフの見守りは私のみになる。私こそ一番元気であらねばならない。
共同購入の皆さんへの張り紙は済ます。事務局の方へは日曜日だったのを忘れていて、留守電に伝言しておく。
今週の日録はこれでおわる。
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2016年3月27日日曜日
2016年3月22日火曜日
ワイフの手術
悪夢のような事が起った。今も受け入れがたい。昨日大学のクラブの友人達と食事会にでかけたワイフが救急車でポートアイランドの病院に運ばれた。その友人から知らせを受けて病院に駆けつけた。検査の結果脳梗塞ではなく、胸が苦しいというので胸部のCT検査を受けた。検査室に入る前にワイフは手術台から私を見て分かったらしく笑ってくれた。
医師から緊急手術を行うとの説明があり同意書にサインしたが手が震え説明の意味が良くわからない。前日にワイフの行きたかった中華料理のレストランに行き、布引のハーブ園に行った。母の介護の休息日で、夫婦水入らずでとても楽しかった。彼女は膝の悪い私よりはるかに元気だったのだ。
大きな悲しみが急に押し寄せた。何でこんなことが起こるのか、意味がわからない。なんでなのか。
急性大動脈解離で6時間の緊急手術を受け、命は幸い助かった。縫合でさらに2時間程かかったので8時間余りの大手術だった。心臓の上部動脈が裂けて、下肢の動脈まで裂けているという説明を受けた。上部の大動脈は人工血管に置き換えることができた。東京にいる次男を除き息子達二人が手術待機に付きそってくれた。手術は上手く行ったが意識が戻るかどうかはまだわからない。どのような後遺症が出るかもわからない。今まで病院からの緊急連絡がなかったので容態は安定しているようだ。息子達が家に泊まってくれた。これから入院の準備を始めねばならぬ。ワイフと一緒にいたい。私自身も気持ちを強く持たねばならぬ。出来る事はなんでもやる。
なぜ倒れたのが私ではなくワイフなのか。悲しくて心臓が張り裂けそうだ。苦しくて、悲しくて死にそうだ。痛かっただろうな。涙が止まらない。
医師から緊急手術を行うとの説明があり同意書にサインしたが手が震え説明の意味が良くわからない。前日にワイフの行きたかった中華料理のレストランに行き、布引のハーブ園に行った。母の介護の休息日で、夫婦水入らずでとても楽しかった。彼女は膝の悪い私よりはるかに元気だったのだ。
大きな悲しみが急に押し寄せた。何でこんなことが起こるのか、意味がわからない。なんでなのか。
急性大動脈解離で6時間の緊急手術を受け、命は幸い助かった。縫合でさらに2時間程かかったので8時間余りの大手術だった。心臓の上部動脈が裂けて、下肢の動脈まで裂けているという説明を受けた。上部の大動脈は人工血管に置き換えることができた。東京にいる次男を除き息子達二人が手術待機に付きそってくれた。手術は上手く行ったが意識が戻るかどうかはまだわからない。どのような後遺症が出るかもわからない。今まで病院からの緊急連絡がなかったので容態は安定しているようだ。息子達が家に泊まってくれた。これから入院の準備を始めねばならぬ。ワイフと一緒にいたい。私自身も気持ちを強く持たねばならぬ。出来る事はなんでもやる。
なぜ倒れたのが私ではなくワイフなのか。悲しくて心臓が張り裂けそうだ。苦しくて、悲しくて死にそうだ。痛かっただろうな。涙が止まらない。
2016年3月21日月曜日
バルセロナ旅行記 XVI
今回はガウディの家博物館を紹介する。 一旦はグエル公園を出て、この博物館を探したのだが、見つからない。道行く人に尋ねると元来た方向にあるという。公園の横にあるという地図を見ての思い込みが間違っていて、公園内に博物館はあったのである。案内役の私としては全く面目ない次第であった。
それで再度グエル公園に入園して、目的の博物館を見つけ出した。正面エントランスの右手方向にあった。
木立ちの向こう側に見える建物がそのガウディの家である。
Wikipediaには博物館の詳しい説明が見あたらなかったので、ガイドブックからの記事を引用する。
ガウディの家博物館
グエル公園のモデルハウスとして、ガウディの協力者であるフランセスク・ベレンゲールが設計した。しかし中々買い手がつかなかったため、ガウディが買い取り、病気の父親と、両親を亡くした姪、女中とともに移り住んだ。1906年から亡くなる少し前の1925年まで約20年間をこの家で暮らす。ガウディが住んでいた当時を再現した館内には、彼の設計したテーブルや椅子、協力者達の作品が展示されている。
レウス出身。父親はガウディの学校の先生であった。ガウディとの制作協力は長く、グエル邸のファサードのドローイングから始まり、没年のサグラダ・ファミリアまで続いている。
庭の意匠はガウディっぽく設えてある。 カテナリー型の生垣のトンネル。
サグラダ・ファミリア教会の尖塔にあったようなシンボルの塑像
パンフ 日本語版があり、6つ折りの一枚ものである。
表紙 ガウディの家の調度品(椅子)の拡大写真
裏面 ガウディの家の遠景写真
館内展示品の説明
解説の一部を引用する。ガウディの晩年の様子がこの文章から伺える。
1906年ガウディは父親と姪と一緒にこの家に住み始めました。二人が亡くなった後も彼は一人で住み続け、カルメン会修道女が家事を手伝い、また健康管理のために友達が時折訪れました。
この家に住んでいた約20年間、建築家は壮年期の作品を生み出しました。その中には1914年から一筋に捧げてきたザグラダ・ファミリア教会の仕事がありました。彼がかかわっていたこのプロジェクトへの献身の度合いは非常に大きなものとなり、最終的には建築現場近くにいられるように教会作業所に居住することにしました。
晩年は、この家を出てザグラダ・ファミリア教会の仕事に没頭するため教会内に住み込む。目指す仕事のためには、住み慣れた家といえども捨て去ってしまったのだ。
さて、館内見学と参りましょう。
1階部分
ガウディ晩年期のスチール写真
ガウディの設計した家具が展示されている。カサ・ミラで見たような椅子や長椅子が展示されている。 バルセロナ旅行記 VII
ガウディの肖像写真。70歳ころの写真と思われる。
2階の展示室
見晴らしのよい小部屋には、ガウディ関連の資料が並べられている。設計した数々の建築物の写真やバルセロナでの位置を示した掲示板などがある。
2階の住居部分に至る通路
係員の方も格好良いが、廊下の照明具もモデル二スモ風で格好良いのである。
室内の展示品を見よう。
グエル伯爵の肖像画
ガウディの胸像
サグラダ・ファミリア教会の模型
当時の写真などが展示されている。日本語説明はないので眺めるだけ。
洗面所
祈りの部屋 ガウディは、ザグラダ・ファミリア教会の設計に携わるようになって以来熱心なキリスト教徒になった。
寝室
衣裳ダンス
映像コーナー
ガウディの使用した手帖、カップ、所有する十字架なども展示されている。
これで、 ガウディの家博物館の紹介はおしまい。 XVIIにつづく。
それで再度グエル公園に入園して、目的の博物館を見つけ出した。正面エントランスの右手方向にあった。
木立ちの向こう側に見える建物がそのガウディの家である。
正面玄関
2階窓の意匠
Wikipediaには博物館の詳しい説明が見あたらなかったので、ガイドブックからの記事を引用する。
ガウディの家博物館
グエル公園のモデルハウスとして、ガウディの協力者であるフランセスク・ベレンゲールが設計した。しかし中々買い手がつかなかったため、ガウディが買い取り、病気の父親と、両親を亡くした姪、女中とともに移り住んだ。1906年から亡くなる少し前の1925年まで約20年間をこの家で暮らす。ガウディが住んでいた当時を再現した館内には、彼の設計したテーブルや椅子、協力者達の作品が展示されている。
フランセスク・ベレンゲール
庭の意匠はガウディっぽく設えてある。 カテナリー型の生垣のトンネル。
サグラダ・ファミリア教会の尖塔にあったようなシンボルの塑像
入館券の販売所。あの建物がガウディの家博物館かと聞いている私。
入館料は大人5.5ユーロで、高齢者割引はなかったようである。
ガウディの家の前 階段に立つ私と息子達をワイフが写してくれました。
息子たちには私がボカシを入れました。
パンフ 日本語版があり、6つ折りの一枚ものである。
表紙 ガウディの家の調度品(椅子)の拡大写真
裏面 ガウディの家の遠景写真
館内展示品の説明
解説の一部を引用する。ガウディの晩年の様子がこの文章から伺える。
1906年ガウディは父親と姪と一緒にこの家に住み始めました。二人が亡くなった後も彼は一人で住み続け、カルメン会修道女が家事を手伝い、また健康管理のために友達が時折訪れました。
この家に住んでいた約20年間、建築家は壮年期の作品を生み出しました。その中には1914年から一筋に捧げてきたザグラダ・ファミリア教会の仕事がありました。彼がかかわっていたこのプロジェクトへの献身の度合いは非常に大きなものとなり、最終的には建築現場近くにいられるように教会作業所に居住することにしました。
晩年は、この家を出てザグラダ・ファミリア教会の仕事に没頭するため教会内に住み込む。目指す仕事のためには、住み慣れた家といえども捨て去ってしまったのだ。
さて、館内見学と参りましょう。
1階部分
ガウディ晩年期のスチール写真
応接室の様子
ガウディの設計した家具が展示されている。カサ・ミラで見たような椅子や長椅子が展示されている。 バルセロナ旅行記 VII
ガウディの肖像写真。70歳ころの写真と思われる。
2階の展示室
見晴らしのよい小部屋には、ガウディ関連の資料が並べられている。設計した数々の建築物の写真やバルセロナでの位置を示した掲示板などがある。
2階の住居部分に至る通路
係員の方も格好良いが、廊下の照明具もモデル二スモ風で格好良いのである。
室内の展示品を見よう。
グエル伯爵の肖像画
ガウディの胸像
当時の写真などが展示されている。日本語説明はないので眺めるだけ。
ガウディの説明パネル
洗面所
寝室
衣裳ダンス
映像コーナー
ガウディの使用した手帖、カップ、所有する十字架なども展示されている。
これで、 ガウディの家博物館の紹介はおしまい。 XVIIにつづく。
2016年3月19日土曜日
バルセロナ旅行記 XV
グエル公園のラ・ナトゥーラ広場を出たところにブガデラ(洗濯女)の回廊がある。斜めに支えられた柱の並ぶ回廊である。回廊は奥の所で折れ曲がっている。
回廊の名の由来は、 柱の1つにこのような洗濯女の立像があるためである。
支柱は2本で出来ており樹木のようなイメージである。手の加えられていない石を組み合わせて作られている。石の連なりで蔦がからみつくような造形も見せている。
回廊の外観
くの字型の回廊の末端部分から回廊の湾曲が始まり、その上部の通路を捩じりん坊のような柱が支えている。
その柱部分
その湾曲回廊の外観 石のすだれと言って良いかもしれぬ。
この回廊の下もまた回廊である。 2層の構造になっている。 またもや爺さんの出現。
そしてエントランス部分に到着する。
かってのグエルの家で、1930年初頭第二共和国時代に小学校となった。現在も市立学校として使用されている。
カルバリの丘
ここから公園正門にある管理小屋に戻る。この建物はグエル公園に関するミニ博物館になっている。
その内部を見ていこう。 1階部分
2階部分には、色んなグエル公園やガウディ関連の展示がなされている。
出窓部分にも1950年代のグエル公園のパネルが掲示されている。
2階から見たモニュメント階段と市場の全景
屋上からの眺め
お隣の守衛小屋の尖塔
守衛小屋の入り口
中は土産物店になっている。
観光客の増えてきたグエル公園のエントランス部分の写真を再度アップする。半数位は東洋人の観光客である。
市場の屋根部分、つまり広場のへりの部分。
柱のホール前
最後に私の好みなのだが、奇怪な形状の高架橋の写真をアップする。
グエル公園編はこれでおしまい。 実は同じグエル公園内にあったのだが、次回の XVI ではガウディの家博物館を紹介する。
回廊の名の由来は、 柱の1つにこのような洗濯女の立像があるためである。
支柱は2本で出来ており樹木のようなイメージである。手の加えられていない石を組み合わせて作られている。石の連なりで蔦がからみつくような造形も見せている。
回廊の外観
回廊の壁には、このように湾曲して自然石が積み重ねてある。その回廊内の私。
くの字型の回廊の末端部分から回廊の湾曲が始まり、その上部の通路を捩じりん坊のような柱が支えている。
その柱部分
湾曲部分の回廊
この回廊の下もまた回廊である。 2層の構造になっている。 またもや爺さんの出現。
そして坂道を巻くように下っていく。
そしてエントランス部分に到着する。
かってのグエルの家で、1930年初頭第二共和国時代に小学校となった。現在も市立学校として使用されている。
カルバリの丘
その内部を見ていこう。 1階部分
2階部分には、色んなグエル公園やガウディ関連の展示がなされている。
1916年のラ・ナトゥーラ広場でのお祭りの様子。
出窓部分にも1950年代のグエル公園のパネルが掲示されている。
2階から見たモニュメント階段と市場の全景
屋上からの眺め
お隣の守衛小屋の尖塔
2階中央出窓よりの眺め
トレンカディス方式と規則的なタイルを用いた装飾
守衛小屋の入り口
中は土産物店になっている。
市場の屋根部分、つまり広場のへりの部分。
柱のホール前
最後に私の好みなのだが、奇怪な形状の高架橋の写真をアップする。
グエル公園編はこれでおしまい。 実は同じグエル公園内にあったのだが、次回の XVI ではガウディの家博物館を紹介する。
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