ブログの記事といっても、私のは単なる暇つぶしの写真日記でしかない。取材の記事とは、物見遊山の報告にすぎぬ。こんなもんに大した意味がないのは、重々承知している。見る価値が幾許かあるとすれば、最新の写真を使っているという所くらいである。
まあそれでも、(私としては)時として襲ってくる鬱状態をうっちゃるのに、何等かの役割を果たしている。きっと、何も考えずに作業できるからだ。コピペ勉強もできるしね。
と恒例の、聞き飽きたであろう言い訳を述べてから、
平賀源内記念館、旧邸の紹介を始める。鳴門在住の友人を訪問した際に見学した記念館である。書くことが多くて後回しにしていた。
平賀源内は、讃岐の生んだ天才・奇才学者であり、教科書にも書かれている。高校の時の日本史の教科書でエレキテルの実験を行ったというのを習った記憶がある。試験の時しか、憶えていない記憶だが。
健忘症の私としては、Wikipedia様に相談して、ある程度の知識を得ておかないと不安である。
平賀 源内
『平賀鳩渓肖像』
『戯作者考補遺』表紙絵より。絵師の木村黙老は高松藩の家老で、源内の死から65年を経た弘化二年 (1845) に源内と親交があった祖父や源内をよく知っていた古老の述懐などをもとにしてこの肖像を描いた。慶應義塾図書館収蔵。
平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年)- 安永8年12月18日(1780年1月24日))
江戸時代中頃に活躍した本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。
すごい肩書ですね。何でも屋で、あらゆるジャンルで活躍した奇才です。日本のレオナルド・ダ・ビンチと称せられているのも、むべなるかな。
源内は通称で、元内とも書いた。諱は国倫(くにとも)、字は子彝(しい)。数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん)、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうち きがい)の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)などといった別名でも知られていた。
ユーモアのある人だったようです。超有名人で、亡くなって200年以上たつが、小説、映画、漫画、TVドラマ、演劇、ゲームなどでも取り扱われている。愛好家が多い所以である。
Wikiの記事にあるが、
杉田玄白の書いた『
蘭学事始』では、源内との対話に一章を割いているそうである。
玄白については、
養生七不可 を参照。
さらに源内の墓碑を記したのも玄白で、
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」
(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)
とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。
源内の銅像と、その下にある玄白による
源内の墓碑の写真も写してきた。
「何ぞ非常に死するや」 の意味であるが、つぎのような顛末である。山田風太郎 「人間臨終図鑑 2」 を読んで知りました。
田沼意次が別荘を作るに当たって、ある請負業者に見積もりをださせ、それを源内にみせた。
源内が自分ならばその二、三割引で作ってみせると言ったので、田沼は工事を彼にまかせようとした。
最初の請負業者が抗議に来、源内は自分の設計図をみせて説明した。
相手は納得し、和解の酒盛りをして、その業者は源内宅に泊まった。
翌朝、酒からさめた源内は自分の設計図が紛失している事に気付き、その町人仕業と思い込む。
そして口論となり、興奮のあまり相手を斬った。その後、設計図はちゃんとある事が判明。
別説もあるようだが、源内が突発的に殺人をやったことは事実。
そして、源内は小傳馬町の牢に入り、1か月もたたないうちに破傷風に罹って牢死する。
非常の死というか、馬鹿馬鹿しい死に方である。得てして天才の死はこんなもんである。
以上予備知識をゲットしてから、
平賀源内記念館の写真説明。
平賀源内記念館
平賀源内記念館は 平成21年3月、平賀源内先生遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。
施設としては、記念館本館と、別館として550m西に在る旧邸・銅像・薬草園などとの2か所で構成しています。
これは、新装開店した
平賀源内記念館の本館の写真。
基本情報はこれ:
所在地
①平賀源内記念館 〒769-2101 香川県さぬき市志度587-1
②平賀源内旧邸 〒769-2101 香川県さぬき市志度46-1
開館時間
9:00~17:00
休館日
月曜日(祝日、振替休日の場合はその翌日)
年末年始(12/29~1/1)
入館料
記念館と旧邸と一緒で
一般 500円
大学高校生 400円
小中学生 250円
15名以上の団体は、2割引
残念だが、老人割引はない。
パンフ
裏面では、本館の案内図と
源内小路の説明がある。
館内の源内奇才劇場で、ビデオ放映をしている。
平賀源内の一生である。私の浴衣の着付けがまずくて、ここでFさんに直してもらっていて、ゆっくりは見れなかった。残念である。
コピペで相済まぬが、館内の展示内容はつぎのようになっている。
- 1. 源内 神出奇没
平賀源内は全国をまたにかけ、各地に足跡を残しました。各地で様々な分野で交流していて、その神出鬼没ぶりが一目瞭然にわかります。
好奇心が旺盛で、無類の旅行好きだったのだ。異分野交流のエキスパートで、様々なアイデアを得ていたのでしょう。学者としての王道を行ってると言える。
- 2. 志度・高松
からくり掛軸「おみき天神」は源内11歳のときの作。
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若年の砌から、独創性、アイデアに満ちていたのだ。
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源内の指導で志度の陶工達に焼かせた、精緻な模様の源内焼。
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その原点となった「陶器工夫書」はその内容もご覧になれます。
陶芸の研究者でもあった。しかも、商才もありスーパーマンといか言いようがない凄い人です。
源内焼は、分厚い焼き物です。これはかざり皿だろうね。実用向きではない。
- 3. 長崎
ドドネウス著『コロイドボック』等、源内が入手した8種の洋書の一部を展示。
- 紅毛本草と書かれてある。薬学植物学の専門書なのだろう。大部の書籍で、図版が沢山入っている。源内はオランダ語は読めないものの、図版で本草学の参考にしていたらしい。
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- 4. 伊豆・秩父・秋田
江戸中期の画家に影響を与えた、源内唯一の油彩画や、鉱山開発なども展示。
源内は、西洋画も描いていた。何たる才能であることか、ダビンチとよく似ているね。画家としての技量についてはわからんが、相当なものと推測される。この絵は、切手にもなっていたので良く知っていた。
2003年に発行された江戸開府400年シリーズ第3集のうち、「西洋婦人図」。
- 5. 江戸
博覧会の創始者と言われる由縁、『物類品隲』の発刊等々
本草学者としての活躍とともに、戯作者の側面も展示。
博覧会なども企画、興行をしていた。本草学者としての薬草の記述だけでなく、戯作者のとしての文章も物していたのである。凄いお方である。
エレキテル(さぬき市指定文化財)
日本最初の摩擦静電気発生装置。
現存する江戸時代中期の2台のエレキテルの内の1つ。
これも切手になっており、飾り模様のあるエレキテルが描かれている。
ふるさと切手「地方自治法施行60周年記念シリーズ 香川県」より。
- 6. 源内奇才劇場
平賀源内の一生を、10分間の映像で紹介。
前述のごとく、見ていないのだ。
- 7. 源内玉手箱
源内と杉田玄白、源内と大田南畝などあの有名人との関係や、
源内がアメリカで紹介された記事などを展示。
杉田玄白とか太田南浦の良く見た画像を用いてのパネル説明である。
- その他に、体験コーナーや源内博士認定Q&Aコーナーなどがある。
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- 本館を出て、源内通りを歩き平賀源内旧邸へ向かう。
ここである。壁面には、
平賀源内先生遺品館とある。古い名称がそのままになっている。
その入り口。
こちらの見学記は、平賀源内記念館 II でのべる。 今回は、これでおしまい。