さて今回から
ポンペイ遺跡の紹介を始める。ホテルから高速を通って約30分くらいで
ポンペイに到着する。
この駐車場で降りて入口ゲートに向かう。巨大な松の木(笠松)が印象的である。
ゲートに向かう道路 ガイドのTさんに先導して貰う。
道路脇から見える遺跡内の施設
外から見ると城壁に囲まれた都市というイメージが湧く。実際はそうではないんだけどね。
チケット売り場 入場料は大人13ユーロ。Tさんが4人分をまとめて購入してくれた。
遺跡に至る通路から見える建物 遺跡ではないそうです。
この舗装路をずっと歩いた先に最初の見学となる
剣闘士の兵舎がある。
通路横の壕向かいにづっとつづく壁面
遺跡のように思っちゃいますね。
歩道脇にある現代彫刻
鉄板と鉄棒の組み合わせによる造形。
松(笠松)なのだが日本では見られないような姿をしている。低い枝は全て切り取られ上部のみ枝を茂らせている。
ここで
世界遺産 ポンペイの歴史についての基礎データをWikipediaから取得する。いささか長いがこれを読んでおくと遺跡の鑑賞に役立つ。
ポンペイ遺跡の航空写真
ポンペイ
座標: 北緯40度45分3.6秒 東経14度29分13.2秒 / 北緯40.751000度 東経14.487000度 / 40.751000; 14.487000
ポンペイ(ラテン語: Pompeii、イタリア語: Pompei)
イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。79年8月24日の昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されている。
ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれる。18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。この遺跡は、カンパニア州ナポリ県所属の基礎自治体(コムーネ)・ポンペイの市域に所在する。
歴史:
イタリア先住のオスキ人によって集落が形成された。紀元前7世紀頃はサルノ川の河口付近の丘に集落があった。その後紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。
ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが、現在この説を裏付けるものはない。
カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。
ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。
ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。
町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。
ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える。
碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。
79年のヴェスヴィオ火山噴火
79年のヴェスヴィオ山(ラテン語名:ウェスウィウス)噴火による降下火山灰の被害地区(黒色部分)。火砕流による被害地域よりもはるかに広い。
遺跡内の通り。車道と歩道が区分され、飛石状の横断歩道もある。
62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらない79年8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降下火山灰はその後も続いた。
軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。
当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」(当時こんな言葉はない)がおきた。
噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。
ポンペイの発掘
発掘された肖像画、フレスコ、国立ナポリ考古学博物館
噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはなかったが、その後1000年以上「町」という地名で呼ばれた他、散発的に古代の品が発見されたので、下に都市が埋まっていることは知られていた。
1738年にヘルクラネウム(現在のエルコラーノにあった)が、1748年にポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われた。
これはドメニコ・フォンターナという建築家がサルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見つけてから150年が経過していた。
この時点までヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていた。
ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。
ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあった。西暦79年8月24日、町の北西 10 kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。
一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存した。ポンペイが人々の前にその姿を再び現した18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられている。
地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕したが、その美しさの秘密は実は火砕流堆積物にあった。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。
当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれている。ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになった。
ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られている。ポンペイこそが最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には家と店がある。建造物は石でできていた。
居酒屋のメニューも残っていて、こう記されている。
「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀(くじゃく)などを用意してあります。」
79年の爆発のときに発生した火砕流の速度は時速 100 km 以上であり市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになった。後に発掘されたときには遺体部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現した。
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えている。
保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。
爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡がある。
長い引用だったが大体の概略は分って頂けたと思う。
遺跡地図
以下ガイドして下さったTさんの案内順に従って様々な遺跡を写真紹介していくことにする。今となってはどこをどのように巡ったかは不確かになっている。まあ遺跡写真をお見せするだけだから構わないよね。
剣闘士の広場(訓練場)
入り口の
回廊 この
回廊部分のみ屋根がある。 後方は
兵舎。
目の前に
広場が広がっている。
ここで
剣闘士が戦いの訓練をする。
かなりの広さがある。
広場左側
右側の
回廊と
列柱
兵舎の壁
通路横の
兵舎跡
小劇場
小劇場の歴史は古く紀元前3世紀ごろ建てられたものとされる。ローマ時代に入って拡張され、階段などが作られた。
小劇場入り口
観客席の石段とステージ
ステージに近い席ほど上席です。
ステージで手を叩くと音響効果で大きく音が広がる。
小劇場の欄干を飾る彫刻テラモン像と翼を持つライオンの席
当時の貴族用特別席でした。
この
小劇場は
オデオン(音楽堂)として、コンサートやパントマイムの公演が行われていたそうである。他の劇場と違い、この
オデオンには屋根があったとされる。
小劇場壁面と
通路 大勢の観光客がいました。
ステージの敷石 大理石などの化粧板が使われている。
壁上で一休みの鳩
大劇場
約5000人を収容した馬蹄型の観客席をもつ
野外劇場跡である。客席には天幕が張られていた。
この劇場も紀元前3世紀ころに建てられた。
ここでは主に悲劇や喜劇が上演されていたという。
観客席 ぐるっと左から一周して写してみる。
こちらの最上階からもステージに降りることが出来る。
一人貴賓席で佇む美女
前方の桟敷席は大理石の化粧板が張られており、その席には番号が打たれている。
大理石がそのまま積まれている上席もあるがこれは修復されたものらしい。
貴賓席の古い大理石に彫られた文字
そして大劇場を見学しおわってつぎの遺跡見物へと向かったのであった。 今回はこれでおしまい。