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2015年9月30日水曜日

天竺徳兵衛

今回は、高砂訪問の最後に出くわした著名人の天竺徳兵衛の紹介記事である。高砂市町散歩
 工樂松右衛門   ヘリコプター世界初の発明者 大西唯次

その名を知ったのは、初めてではない。歌舞伎か何かの登場人物でないかと思ったが、詳細については知っているはずがない。そこで、Wikipedia 様にお教えを乞うた。

天竺徳兵衛

   

天竺徳兵衛、17世紀の肖像画
 
 
天竺 徳兵衛(てんじく とくべえ、慶長17年(1612年)- 没年不詳)
 
江戸時代前期の商人、探検家。
 
播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという。
寛永3年(1626年)、15歳のときに京都の角倉家の朱印船貿易に関わり、ベトナムシャム(現在のタイ)などに渡航。さらにヤン・ヨーステンとともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった。
帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後、見聞録『天竺渡海物語』(『天竺聞書』とも)を作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたが、内容には信憑性を欠くものが多いとされる。
高砂市高砂町横町の善立寺に墓所が残っている。

 
 
面白いというか、世間に知られているのは、この徳兵衛が死去した後に伝説化し、浄瑠璃歌舞伎妖術使いの役回りで人気がでた故である。
特に四代目 鶴屋 南北の『天竺徳兵衛韓噺は大当たりをとった。
 
 四代目 鶴屋 南北
 
 


『市村座三階之圖』(歌川国貞画)より四代目鶴屋南北


四代目 鶴屋 南北(よだいめ つるや なんぼく)、
宝暦5年(1755年) - 文政12年11月27日(1829年12月22日)

江戸時代後期に活躍した歌舞伎狂言の作者。
鶴屋南北を襲名した者は5名を数えるが、単に鶴屋南北または南北というと、通常はこの四代目のことをさす。また5代の南北のなかでもその業績が突出しているため、この四代目のことを特に大南北(おおなんぼく)ともいう。

浄瑠璃では、江戸時代中期以降の近松半二の『天竺徳兵衛郷鏡』 がある。

 

 
南北の『天竺徳兵衛韓噺』を基にした、数々の錦絵や浮世絵が歌川国芳らの画家により描かれている。
 
 

歌舞伎の登場人物としての徳兵衛、18世紀
 
その舞台では、徳兵衛を日本国転覆をねらう謀反人として脚色されている。あらすじの一部を引用する。文化デジタルライブラリーより。
 
吉岡宗観朝鮮国に仕えた木曽官(もくそかん)という外国人でした。日本に侵略された恨みをはらすために密かに来日して復讐の機会を待っていたのです。徳兵衛吉岡宗観息子・大日丸(だいにちまる)であったことを知らされ、日本国転覆の野望を受け継ぐために蝦蟇の妖術を伝授されました。徳兵衛大蝦蟇に乗って大屋根の上に現れ、屋敷を押しつぶします。
 
ということで、多くの絵で大蝦蟇が描かれている。まるで自来也みたいな風体だね。
 
 


 


 






 


 



これは、 『神田川の与吉』で、嘉永2年 (1849年)上演の『天竺徳兵衛韓噺』の一場面。徳兵衛ではないが、関連画像として挙げた。


 

 
 天竺徳兵衛韓噺は、現在も歌舞伎の舞台に演目としてあげられている。
 


ということです。浮世絵がやはり面白かったですね。これでおしまい。
 

高砂 延命寺、薬仙寺、善立寺 

高砂には、十輪寺以外にも幾つかのお寺がある。お寺の紹介がつづいて相済まぬと思うが、見て廻った残りのお寺を写真紹介したい。今回は由緒等の調査は省略した。

延命寺

山門


本堂

ご本尊を写させて頂こうとおもったのだが、光量不足でした。


境内社

境内の墓石とお地蔵さまの石仏群



薬仙寺

山門

 
 本堂 モダーンというか、コンクリ造りです。



魚くよう墓  高砂の漁夫八田治朗大夫夫婦にちなむ墓と思える。


法然上人像と思われるが確認していない。

 
地蔵堂

お地蔵さまの石仏群


 
善立寺

山門


 本堂


善立寺由緒板

 鐘つき堂  前にお見せしたが、コンクリ製である。日中見ると、風情があるとは言い難い。




お寺は、コンクリ造りの建物が多くなっているようだ。見ていてもちっとも面白くない。それと、防犯や管理の必要性からと思うが、閉鎖的である。大きなお寺は別だが、気軽にお参りできない雰囲気のお寺が多いように思う。ご本尊を拝むのは到底無理である。神社はその点は異なる。ゆっくりと思索にふける(馬鹿なことを考える)ことの出来る場所もある。お寺さんも、もう少し開放的になれんかね。お賽銭ははずむから(10円から100円までだが)と思う私であった。

これでおしまい。

高砂 十輪寺

今回は、たかさご万灯祭とその後の取材で訪問した十輪寺の紹介を行いたい。お寺自体は、県指定の文化財である。

これが山門である。中々立派である。市の指定文化財になっている。


山門を横手から写した写真。二重屋根や額、仁王像が威厳を与えている。


山門前の石碑仁王像浄土宗二十五霊場である。

 


ピンボケで済まぬが、左右の仁王像

 
 

もう一つの山門。
 
 

ここで、Wikipediaにより、十輪寺の基礎知識を取得する。

十輪寺
Takasago Jyurinji Temple.JPG
所在地兵庫県高砂市高砂町横町1074
位置北緯34度44分50.3秒
東経134度47分59.0秒
座標: 北緯34度44分50.3秒 東経134度47分59.0秒
山号宝瓶山
宗派浄土宗西山禅林寺派
本尊阿弥陀如来
創建年弘仁6年(815年)
開基空海、中興 法然(開山)
正式名宝瓶山十輪寺
札所等法然上人二十五霊跡 第三番
十輪寺(じゅうりんじ)

兵庫県高砂市にある浄土宗西山禅林寺派の寺院。山号は宝瓶山。本尊は阿弥陀如来法然上人二十五霊跡第三番

御詠歌

生まれては まづおもひ出ん 古里に ちぎりし友の 深き誠を

歴史:

寺伝によれば、この寺はもともと唐より帰朝した空海によって、815年(弘仁6年)「地蔵十輪経」に基づき、勅を奉じて、鎮護国家の祈祷書として、地蔵山十輪寺と号した真言宗の寺院であったが、1207年(建永2年)法然が地元の漁師に説法したことから、法然の弟子の信寂房が、法然を中興開山に迎えて、再興して西山派の流れをくむ浄土宗の寺院になったという。

十輪寺法然上人、四国流罪の際

大永7年(1527年)大坂境の僧十万が讃岐の生福寺に詣で、法然自画自賛の「宝瓶の御影」を得て当寺に寄贈、以来宝瓶山と山号を改める。江戸時代初期には京都所司代を務めた板倉勝重の帰依を得、寺領を寄進されている。

昔から宗旨替えなどとよく言うが、その具体例だったわけである。真言宗→浄土宗

このお寺は、広い境内をもつ立派な寺院です。

それでは写真紹介を始める。

本堂



詳しい説明は省略するが、お寺は県指定文化財で、空海の創設と伝えられており、建物は17世紀初頭の風格をもつものとされている。



本堂の額



本堂を横手から写したもの。



手水舎  水は蛇口から調達する。現代的というか、趣に欠ける。


焼香堂 水子の霊をお祀りするお堂と思われる。


鐘つき堂

高砂市の保存樹木である黒松


地蔵堂

御影堂


大玄関と小玄関
 


  
 
 庫裡






真民さんの石  念ずれば 花ひらく
 


砥部の坂村真民   


地蔵尊


観音様

空海上人像

 
 高麗仏と呼ばれる宝篋印塔


これは1592年に豊臣秀吉が朝鮮に出兵した際、徴発された高砂の水主100人のうち96人が死亡し、その供養のために建てられたものである。

写真ばかりであんまり面白くなかったが、これで紹介はおわる。