マサダ、ヘブライ語で要塞を意味するこの岩山は、死海から一気に400mの高さまでそそり立っている。
Wikipediaでは、このように説明されている。
マサダ (イスラエル) |
マサダ(ヘブライ語: מצדה、英語:Masada)
第一次ユダヤ戦争の遺跡で、イスラエル東部、死海西岸近くにある岩山の上の要塞跡。「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」を意味する。
ユダヤ戦争末期、ローマ軍の包囲に対し籠城したユダヤ人集団が2年にわたり抵抗し、集団自決で幕をおろした戦いの古戦場として知られる。
マサダ
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英名 | Masada |
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仏名 | Massada |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3),(4),(6) |
登録年 | 2001年 |
拡張年 | - |
備考 | - |
公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
地図 | |
戸原さんのイスラエル紀行 より。
今に残る遺構のほとんどはヘロデ時代のもので、北側の崖面に「ヘロデの北宮殿」と呼ばれる遺構が突き出している。北宮殿は3段構えで、長方形宮殿と半円形テラスを組み合わせた上段、円形の中段、正方形の下段に別れている。斜面沿いに残る急峻な九十九折りの階段をつたって中・下段宮殿に行くことができる。
中央に見えるのが、ヘロデの北宮殿跡と思われる。(行ったことがないのでわからん)
宮殿跡から見る北に広がる荒野の展望は、絶景というか壮絶というか、ただ荒涼たる風景が広がっている。
今回は、この要塞をめぐる戦記を書きたかったのである。 Wiki の記事より、適当に改変。
西暦66年にローマ帝国との戦争が始まり(ユダヤ戦争)、70年のティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムが陥落した後、
『エルサレムの包囲と破壊』。
19世紀イギリスの画家デイビッド・ロバーツ(David Roberts)による絵画
熱心党員を中心としたユダヤ人避難民967人がマサダに立て籠もる。
籠城側は兵士のみではなく、民間人も含まれていた。
1万5千のローマ軍団が周囲を包囲したが、さすがのローマ軍も、攻撃軍を寄せ付けないマサダの峻厳な地形に攻めあぐねる。
やがてローマ軍はイスラエルの捕虜と奴隷を大量動員して、土を運び崖を埋め、防壁を乗り越える突入口の建設を開始。
ユダヤ側は執拗に防戦したが、城壁は日々着実に埋められ、やがて陥落は目前となった。
敗北が確実となったある日、指導者たちは集まって、今後の方針を協議した。抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となる。
ローマ軍部隊は完成した侵入路を通り城内に突入する。死にもの狂いの抵抗を予想していたが、意外にも防戦する者は1人もいなかった。突入の前夜に、奴隷となるより死をと、籠城ユダヤ人は全員が集団自決していたのであった。
西暦73年のことである。
ユダヤ戦記では、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけが生きのびたと伝える。
マサダ陥落によってユダヤ戦争は終結をみた。
陥落後のマサダはローマ軍により徹底破壊され、長い間その所在が分からなくなっていたが、1838年にドイツ人考古学者によって所在が確認された。
マサダの指導者は、
「まちがいなく、神ご自身が、われわれの生きのびる希望を断ってしまわれた」
と説いて、人々を死に赴かせたという。 神は、厚く信仰を寄せる民を見捨てたのである。
ユダヤの神は、おっかないのである。
以降ユダヤ民族は祖国を失い、1948年のイスラエル建国まで。千九百年間にわたり、世界をさまようことになった。
その後、パレスチナ問題は現在までつづき解決の目途は全く立っていない。
現在は、ロープウェイがついていて容易に頂まで登れる。
地上駅は、遥か彼方である。途中に支持塔も見受けられない。
こわそうだが一度乗ってみたいものだ。
ということで、今回はおしまい。
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