赤間神宮 | |
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鳥居と水天門 | |
所在地 | 山口県下関市阿弥陀寺町4-1 |
位置 | 北緯33度57分35.0秒 東経130度56分54.5秒座標: 北緯33度57分35.0秒 東経130度56分54.5秒 |
主祭神 | 安徳天皇 |
社格等 | 官幣大社・別表神社 |
創建 | 建久2年(1191年) |
例祭 | 5月2日 - 4日(先帝祭) 10月7日 |
赤間神宮(あかまじんぐう)
山口県下関市にある神社である。旧社格は官幣大社。壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。
江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。平家一門を祀る塚があることでも有名であり、『耳なし芳一』の舞台でもある。
関門海峡からも見えたが、竜宮城を模した水天門が特徴的です。
Wikiの受け売りだが、この神社の歴史をのべる。
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る為、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まり。
以後、勅願寺として崇敬を受けていたが、 明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。
また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)7月25日、「擬陵」として公式に治定された。
この「天皇社」は明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格された。
そして昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し「赤間神宮」に改称することになった。
ですから、元は阿弥陀寺というお寺であったわけです。 向かいに見えるのが本殿。
本殿の左側には平家一門の墓という石柱が建っていて、
その奥が墓所となっている。七盛塚と呼ばれ、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)となっている。
ここには、以下14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」と称されている。
- 左近衛少将有盛
- 左近衛中将清経
- 右近衛中将資盛
- 副将能登守教経
- 参議修理大夫経盛
- 大将中納言知盛
- 参議中納言教盛
- 伊賀平内左衛門家長
- 上総五郎兵衛忠光
- 飛騨三郎左衛門景経
- 飛騨四郎兵衛景俊
- 越中次郎兵衛盛継
- 丹後守侍従忠房
- 従二位尼時子
壇ノ浦の戦いについては、後述。
そして、その横には小ぶりだが派手なお堂がある。
中に安置してある像を見て、平家物語を語る琵琶法師かと思った。これは正しくて、「耳なし芳一」 でした。 このお堂は、芳一堂 と呼ばれている。
怪談「耳なし芳一」は古くから伝えられていたようだが、小泉八雲の『怪談』にも取り上げられ、広く知られるようになった。
私は、
妖怪に取りつかれて、体中お札を貼ってそれを防ごうとしたが、張り忘れた耳だけ妖怪に持っていかれたという怪談。
と単純に理解していたが、妖怪とは平家の怨霊で、芳一は壇ノ浦の合戦の弾き語りを生業とする琵琶法師でした。 これで、この神社との関連が理解できたわけである。
調べてみると まんが日本昔ばなし~データべース 耳なし芳一 にも載っている。私は、小泉八雲の小説は読んでなかったので、むしろこちらの概略のほうが参考になった。原典に当たりたい方は、 青空文庫 耳無し芳一 をどうぞ。
この近辺で幕末に長州藩と列強との間で武力衝突事件(下関戦争または馬関戦争)おきたことでも有名らしいが、これについては略。
ここで、壇ノ浦の戦いについて述べたい。私は、平家が滅亡した最後の戦いで、大将の平知盛が「見るべき程の事は見つ」とつぶやいて入水して死んだとか、二位尼が安徳天皇とともに海に身を投じたとか、いう事位しか知らない。実際は、二位尼と安徳天皇の名前も忘れていた。それに、 建礼門院と二位尼をゴッチャにしていた。 そんなんで、ちゃんとお勉強をする必要性を感じたのです。 困ったときの、Wikipedia によると、つぎのように書かれている。
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)
平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
壇ノ浦の戦い | |
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『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵 | |
戦争:治承・寿永の乱 | |
年月日:元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日 | |
場所:長門国 赤間関壇ノ浦 (現下関市) | |
結果:源氏軍の勝利、平家滅亡 | |
交戦勢力 | |
指導者・指揮官 | |
戦力 | |
船数:830艘 (3000艘とも言われている) | 船数:500艘 (1000艘とも言われている) |
損害 | |
不明 | 壊滅 |
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平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
治承・寿永の乱 には、数々の戦いがあったんですね。私は、他の戦いは屋島の戦い位しか知りませんでした。 理系の人間ってのは、こんなもんである。 それに私は、高校時代世界史のほうを選択したからねと全く無意味な、自分が無知である言い訳をするのである。
戦いの背景は、Wikipedia に譲ることにして、ここでは合戦の経過を見ていきたい。
信憑性には難があるらしいが、『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語を基にして合戦の経過を述べる。 以下 Wikipediaの記事の要約。
戦線の推移状況を図示すると上のようになる。
1.開戦
1.開戦
彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は840艘の水軍を編成する。
一方、平氏軍は500艘であった。宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。
知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻(12時ごろ)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。
範頼軍は3万余騎をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
2.平氏優勢
関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。 (ここから先は諸説あり、詳細は省略)
3.源氏の反攻と平氏滅亡
やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍を押しまくる。
平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。 (潮の流れだけで勝敗が決まるなんて不思議だ。)
敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。
ここから先が、平家滅亡のクライマックスだね。
『平家物語』による平氏一門の最後の様子である。物語風のおさらいをしよう。
・知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移ると
「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」
と笑った。
・二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。
安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、
二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、
安徳天皇とともに海に身を投じた。
・武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。
・平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまう。
・剛の者である教経は、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。(義経の八艘飛びですね)
・教経に大力で知られる安芸太郎が同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んで死亡した。
そして、最後に
・知盛は「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水した。
(このセリフを何故か覚えていた訳だ)
という事です。
この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡したが、一門そのものは断絶することなくその後も続いている。平家の落人ですね。日本のアチコチに平家の隠れ里というのがあります。
これで、壇ノ浦の戦いも解説したので、ようやく 秋吉台と門司、下関の旅行記もおしまい。
一方、平氏軍は500艘であった。宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。
知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。
3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻(12時ごろ)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。
範頼軍は3万余騎をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。
2.平氏優勢
関門海峡は潮の流れの変化が激しく、平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。
義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。 (ここから先は諸説あり、詳細は省略)
3.源氏の反攻と平氏滅亡
やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍を押しまくる。
平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。 (潮の流れだけで勝敗が決まるなんて不思議だ。)
敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。
ここから先が、平家滅亡のクライマックスだね。
『平家物語』による平氏一門の最後の様子である。物語風のおさらいをしよう。
・知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移ると
「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」
と笑った。
・二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。
安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、
二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、
安徳天皇とともに海に身を投じた。
・武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。
・平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまう。
・剛の者である教経は、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。(義経の八艘飛びですね)
・教経に大力で知られる安芸太郎が同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んで死亡した。
そして、最後に
・知盛は「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水した。
(このセリフを何故か覚えていた訳だ)
という事です。
この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡したが、一門そのものは断絶することなくその後も続いている。平家の落人ですね。日本のアチコチに平家の隠れ里というのがあります。
これで、壇ノ浦の戦いも解説したので、ようやく 秋吉台と門司、下関の旅行記もおしまい。
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