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2015年5月2日土曜日

長崎旅行記 VII 五島列島 教会巡り

五島列島祈りの島とも呼ばれているほど、カソリックの教会が数多くある。福江島にあるそれらの教会墓地、信者の閉じ込められた牢屋跡などを見学するのが今回の目的。

タクシーでまづ最初に向かったのは、浦頭教会堂である。

運転手さんに車中から、キジがいると教えられた。鮮やかなその姿が見えたのだが、写真を撮ったときには、草むらに隠れてしまった。と言うことで、道路横の畑の写真のみ。このような田圃の畔のような所にも卵を産むそうである。


途中にあったキリシタン墓地

山の斜面に張り付いて、よじ登るように造成されている。
 

色々なスタイルがあるのは、日本のお墓と同じ。このような立派なお墓も多々ある。



墓石には、フランシスコ本村○○等のように洗礼名が刻まれている。


この教会堂が浦頭教会堂。コンクリ造りの新しい建物です。我々は、側面の入り口から入堂。


正面はこのようになっている。

入り口横のマリア像

教会堂の中。我々以外誰もいない。敬虔な雰囲気が漂っている。



イエス像

マリア像

この教会を見させて頂いてから、 タクシーで堂崎教会堂に向かう。15分程走ったであろうか。静かな入江に着く。タクシーから降りて、徒歩で教会に向かう。その途中の入江の景色。



入り江に浮かぶ岩石群。


 
入り江の風景。 
 

途中、五島高校の生徒さんに出会いました。皆さん、気持ちの良い挨拶をしてくれました。
「こんにちわ」  「こんにちわ」

堂崎教会に着いた。
 
左が受付事務所。不在であったとしても、無断で入ってはいけない。必ず拝観料を支払うこと。
いつものようにデブの爺さんは無視。
 
 
 
五島高校の全学年の生徒が、地元の文化財や歴史を学ぶという学習と清掃のボランティアを目的として、高校から歩いてここまで来たそうです。学年により、色分けのトレーナーを着ている。




これが福江島で最も美しいレンガ造りの教会である堂崎教会堂


立派な赤レンガ造りの教会である。現在は、キリシタン資料館になっている。長崎県指定有形文化財。 Wikipediaによる解説ではこうなっている。

堂崎天主堂



堂崎天主堂(2005年9月撮影)

堂崎天主堂(どうざきてんしゅどう)

長崎県五島市福江島にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂である。
江戸時代からのキリスト教禁教令廃止以降、五島列島で最初に建てられた聖堂で、1974年(昭和49年)に堂崎教会(どうざききょうかい)の名称で長崎県指定有形文化財に指定され、現在は堂崎天主堂キリシタン資料館として活用されている

拝観料は、つぎのようである。

観覧料一般300(250)円、 中高生150(100)円、 小学生100(50)円

開館時間は、 9:00~17:00(夏休み期間中は~18:00、11/11~3/20は16:00閉館)である。

パンフは、3つ折りでサイズがB4より大きいのでスキャンすると切れてしまう。それで、以下の画像では、読めない部分が出来てしまった。ご容赦。

 記念スタンプをゲットしたので、その画像も加えておく。



長崎県の美術館情報のサイトではこのように説明されている。



堂崎天主堂は、弾圧後の五島における宣教活動の拠点として1879年(明治12)パリ外国宣教会のマルマン神父によって建立された仮聖堂に始まり、後任のペルー神父によって建替えられ1907年(明治40)に完成したものです。
建物の施工は野原与吉で、後に教会建築を数多く手がけた鉄川与助も参加したことが知られ、県指定有形文化財となっています。
天主堂内には、帳方に受け継がれてきた「お帳(太陽暦)」(1634年)、ド・ロ聖教木版画(県指定文化財)など、キリスト教弾圧時代から明治以降の信仰の歴史を物語る資料が展示されています。
また、五島生まれの二十六聖人のひとり聖ヨハネ五島の聖骨もマカオから里帰りし天主堂内に安置されています。
厳かな空間で、信仰を守りぬいた人々の姿に思いを馳せることのできる展示となっています。

 
 内部は撮影禁止なので、展示物は紹介できないが、パンフや利用できる画像があったので、これらで概略を示す。採光はとても良くって、ステンドグラスが美しい。

このように聖教木版画や、マリア像ロザリオメダルなどがガラス棚に陳列されている。


 

 
聖ヨハネ五島聖骨とかマリア観音も展示されていた。(パンフ参照)

資料館の周辺がキリシタン庭園になっていて、銅像や石碑が置かれている。

マルマン、ペルー像

 
台座の説明板

概略、次のように書かれてある。

マルマン、ペルー像(復活の夜明け)

明治政府により、信仰の自由が認められや五島に宣教師が来島した。最初に来島し宣教を再開したマルマン神父と、のち現在の赤レンガの天守堂を建てた後任のペルー神父像である。
神父の宣教と福祉活動の創始を記念するものである。


こちらがペルー神父。


マルマン神父

聖ヨハネ五島殉教像



パンフの解説には、このように記されている。

聖ヨハネ五島

日本二十六聖人の一人。1578年福江で生まれ、長崎と天草でセミナリオを学び、伝道師を志す。19歳で大阪にて捉えられ(1597年)長崎まで33日間の道程を耐え忍び、西坂において、他の信者、神父、25名とともに十字架上で殉教した。
この像は、死の直前、神に祈りを捧げる瞬間をとらえたものであると言われており、その強い信仰心は世界の聖者として、全キリスト教徒の尊敬の的となっている。


アルメイダの宣教碑


 


同じくパンフの解説より。


ザビエルの鹿児島上陸ののち、五島にはアルメイダロレンソがキリスト教を伝えた。
彼らは時の領主 宇久純定のまねきにより、城中でキリストの教えを説き多数の者を洗礼に導いた。この碑は島の人々と キリスト教との「出会い」を記念するものである。

ロザリオのサンタマリア像




見学がおわり、運転手さんはここ(時計塔でなくトイレ)で待っていてくれた。
 


つぎの目的地は、水の浦教会。 

途中の戸岐湾の風景。周囲は、西海国立公園に指定されている。風光明媚なわけである。

 
 戸岐大橋。 戸岐湾を跨ぐようにして架かる橋で、開通は昭和54年(1979年)。それ以前は、渡し船を用いていた。渡し賃10円であったそうな。





これが、水の浦教会水の浦の入江を望む丘の上に建っている。
木造教会堂として最大の規模の天主堂とある。1938年に天主堂が完成する。


白亜の天主堂である。



天主堂の内部。 写真は厳禁です。念のため。 これは、許可済みの画像。


 


その横にある、日本風の家屋。神父様の家なのかどうかは分からない。
 
 
 
 
その横にあるマリア像。
 

教会の側面。

 
教会の構内の写真。  鐘つき塔と思える。

私は門である。 私を通って入る人は救われる。

 
 
 
教会を眺める美しい海辺の景色です。







 裏山は広い花園になっている。聖者(イエスキリスト)のレリーフも沢山設られている。それらを見ていこう。



退職後、お花を見るのが好きになりました。しかし、花の名前は半分もわからんので省略。




 




 


 

  イエス像

20年前に創立100周年でした。その記念碑。

ヨハネ五島の像である。こちらは、十字架上の磔像に比すと穏便ですね。


キリシタン墓地もある。 

 
後で説明するが、ここにもキリシタンを閉じ込めた牢屋跡があった。

水の浦のキリシタン牢跡のレリーフ。


 


 
つぎに向かったのが、楠原天主堂
 
 
この赤レンガ造りの教会です。
 

 

 

 


パンフによると、このように記述されている。

水の浦の信徒が捕えられたのち、この楠原でも弾圧が始まり、33名が牢屋に入れられ拷問を受けた。 迫害をくぐり抜けた信者らは、それから30年もの間こつこつ貯蓄を増やして土地を買い、明治44年(1911)に教会を設立する。大正元年(1912)には、現在の赤レンガ造りの重厚な教会堂を建てたという。

その故事を歌った詩。



ファチマの聖母と牛使いのシーン。


教会の内部。

楠原教会から少し離れたところにある、楠原牢屋跡


五島列島のキリシタン史によると、つぎのような弾圧が行われた。by Wikipedia

幕末の1865年、長崎の大浦天主堂で浦上の潜伏キリシタンが信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始めたが、神道の国教化目的のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、明治最初期に「浦上四番崩れ」と呼ばれる悲惨な宗教弾圧を引き起こした。
この頃には五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていったが、これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返した。
久賀島では、200名の信徒がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込められ40名以上が死亡するという悲惨な「牢屋の窄(ろうやのさこ)」事件が起こっている。

同様のことが、ここ楠原でも起こったのである。

信仰の自由百年祭記念碑
 
碑文に曰: 
 
1865年2月大浦天主堂に於いて、 キリシタンの子孫が発見され、まもなく 楠原のキリシタンも名乗り出て、ローマ 教会に復帰したが明治元年(1868)捕えら れて、狩浦喜代助ほか33名が仮牢屋の喜代助宅に押し込められ、のち首に縄をかけられ、城岳越えで水の浦牢に移され1871年に釈放されるまであらゆる責め苦に耐えて、信仰の自由を守りぬいた。 

     その信仰の自由100年祭にあたり、 全国の子孫たちが協力してこれを建てる。


             1971年8月18日

とある。

中はこのような展示になっている。十字架のイエスや聖母像が飾られている。最後の晩餐の絵も掛かっている。



こんな小屋の中に33名ものキリシタン農民が押し込まれたのだ。酷い話だね。



 この牢屋跡から福江港へと帰ってゆくのだが、最後の福江教会



教会ホームページからの説明; 福江教会

福江教会は、1914(大正3)年4月に旧堂崎小教区から分離・独立し、すべての人の救い主であるイエス・キリストの聖心(みこころ)に献げられた教会として、その歩みの第1歩をスタートさせました。ですから、別名「イエズスの聖心教会」とも呼ばれています。

 現在の聖堂は、1962(昭和37)年4月25日に献堂され、同年9月26日未明に起こった市街地を一飲みに焼き尽くした「福江大火」の際には、中心地域にありながらも完成間もない聖堂だけが奇跡的に焼失を免れ、焼け跡に屹立した教会が復興のシンボルとして被災者を勇気づけました。
また今日では、多くの人々の祈りと安らぎの空間として歴史を重ねています。

マリア像


教会
 祭壇の最も高い位置に掲げられている
イエズスのみ心」の御絵(大石七鳳画)

教会の入り口の石門。  神は愛である

かくして、可能な限りの教会巡りを行ったのであった。タクシー代金は、12,000円であった。ひえ~!

商店街で、タクシーを降りる。お土産とお弁当を買うためである。

商店街で見かけたチャンココのお人形。 長崎旅行記 VI 五島列島 福江城と武家屋敷通り




同じくチャンココの石像。御菓子司 はたなか のトレードマークになっている。


チャンココという名のお菓子。

4時前に、福江港ターミナルにたどり着きました。


 
 ハードなスケジュールであったが、帰りのジェットホイル船 ぺがさす に乗り込み、長崎港へと帰ることができたのである。




今回の記事は非常に長くなったが、これでおしまい。 VIII につづく。

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