前回述べたように、兵庫七福神というのがある。つぎの寺院・神社である。
兵庫七福神の寺院・神社
福海寺
大黒天神戸市兵庫区西柳原町10-10 |
柳原蛭子神社
蛭子神戸市兵庫区西柳原町5-20 |
柳原天神社
布袋尊神戸市兵庫区東柳原町1-12 |
能福寺
毘沙門天神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39 |
真光寺
福禄寿神戸市兵庫区松原通1-1-62 |
薬仙寺
寿老人神戸市兵庫区今出在家町4-1-14 |
和田神社
弁財天神戸市兵庫区和田宮通3-2-45 |
えべっさん(柳原蛭子神社)、だいこくさん(福海寺)、びしゃもんてん(能福寺)、に続いて、ほていさまである。
布袋様を代表するのは、柳原天神社である。
時宗 満福寺に隣接している。というより、元々は満福寺の一部であったと考えるほうが良いかもしれぬ。明治初年の神仏判然令により独立し、神道祭祀となり柳原天神社を名乗る。
境内は小さい。区画整備か何かで、削り取られて現在の敷地面積になった模様。都会の神社仏閣はどこもそうみたいだ。
Wikipediaにより、基礎情報を与える。
柳原天神社 | |
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所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区東柳原町1-12 |
位置 | 北緯34度40分3.6秒 東経135度10分9.7秒 |
主祭神 | 菅原道真 |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 初天神:1月25日 夏祭:7月25日 秋祭:10月25日 |
柳原天神社(やなぎはらてんじんしゃ)は
兵庫県神戸市兵庫区東柳原町に鎮座する神社。天満宮の1つである。
御祭神: 菅原道真公、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)、野見宿禰命。
野見宿禰命
兵庫の天神さんで、やはり祀り神の一柱は菅原道真。
菅原道真が大宰府へ左遷される途次、大和田泊に上陸し、真野ケ原一帯の梅花を賞で、
風さむみ 雪にまかへて 吠く花の 柚にそうつれ 匂ふ梅が香
と詠んだ。
由緒・歴史の主だったものを列挙する。
- 延喜5年(905年)6月 - 里人が道真の遺徳を偲び、梅林を拓いて小祠が建立される。
- 仁安2年(1167年) - 太宰府安楽寺の菅公廟より分霊を迎える。
- 鎌倉時代(1185年 - 1333年) - 時宗の2世である他阿が満福寺を建立する。以後、明治維新まで僧侶が奉仕した。
- 明治初年(1868年) - 神仏判然令により独立し、神道祭祀となる。
- 明治6年(1873年)8月 - 村社に列される。
- 昭和20年(1945年)3月 - 神戸大空襲により全焼する。
- 昭和33年(1958年) - 再建される。
現在の建物は、 昭和33年に再建されたものでまだ50年と少ししか経っていない。阪神淡路大震災では、生き残ったようである。
神社の様子を見ていこう。
柳原天神社の石碑
拝殿
狛犬 左右2体
拝殿の額 天満宮
御神使の牛 天満宮にはつき物ですね。御祭神が菅原道真ゆえです。
説明したかどうか忘れてしまったので、菅原道真と牛の係わりをここに記す。
御影の天神様 網敷天満宮 服部天神 を参照。
下記のような言い伝えがあり、これらの伝承から、「牛」が神使とされた。
1)道真公の誕生日・承和12年6月25日(845年)や、死去日・延喜3年2月25日(903年)が
丑の日だった。
2)道真公が大宰府に落ちてゆく途中で命を狙われた時、白牛に助けられた。
3)「車を牛に引かせて、牛の行くままに任せ、牛の止まった所に葬ってくれ」との道真公
の遺言に従って墓所(大宰府天満宮)は定められた。
七福神の石像 布袋様は右から3番目。
百度石と常夜灯。
天光稲荷神社
すっかり社内社とばかり思っていた。調べてみると別の神社であった。
元は現在地より北方500mに鎮座していたが、1945年3月の大空襲により全焼し、
柳原天神社に隣接して遷座した。
天光稲荷神社の鳥居
天光さんと呼ばれている。
御祭神: 宇賀魂命(うかのみたま)
雨よけの屋根。しめ縄が張られている。これが境内になる訳だろうね。
お狐様
祠
こちらは、また別の稲荷社かもしれぬ。よくわからない。
この柳原天神社に接してあるのが、満福寺である。
Wikipediaには、こう記載されている。
満福寺 | |
---|---|
所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区東柳原町1-13 北緯34度40分4.4秒 東経135度10分10.4秒 |
山号 | 梅松山 |
宗派 | 時宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 延慶元年(1308年) |
開山 | 他阿真教 |
正式名 | 梅松山 天寿院 満福寺 |
札所等 | 福原西国観音霊場 第25番札所 |
満福寺(まんぷくじ)
兵庫県神戸市兵庫区東柳原町にある時宗の仏教寺院。
歴史
延慶元年(1308年))時宗第2祖他阿真教上人の開基。他阿真教上人は一遍上人(証誠大師)に指尊を仰ぎ、学を究め諸国を遊行して念仏行化につとめ、遊行上人と称される。当寺は真光寺の隠居寺とも呼ばれる。 寺記によれは一遍上人入寂の後、他阿真教上人が法灯を継ぎ、宗祖入寂の地に寺塔を建立しようと、伏見天皇に奉上して勅許により真光寺道場が建立さる。
別名満福寺、長楽寺てある。 当時の本尊は、菅原道真公自作の十一面観世音菩薩像で、戦前まて広く信仰されていた。 また阿弥陀如来、聖観音、勢至菩薩の3像も、鎌倉前期の仏師運慶作と伝えられ、境内一町四方にわたり片桐市正によって黒印を下附されていた。
という事なのだが、この現代的な造りの本堂を見てお参りする気は失せた。
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