太い題字のごとく、天才アイデアマン なのである。
裏面は、源内の年表である。
平賀源内の一生の箇条書きである。字が小さすぎて読めないと思う。
私としては、ビデオを見損ねたということもあり、ここに記録しておく。
(記念館ホームページのコピペ) どうせすぐに全て忘れてしまう運命にあるのだが。
平賀源内年譜
- 享保13(1728)0才
- 高松藩の小吏白石茂左衛門の3男として讃岐志度浦に生れる。
- 元文4(1739)11才
- 9月、松平頼恭高松藩主となる。このころ、からくり掛軸「おみき天神」をつくる。
- 寛延2(1749)21才
- 父茂左衛門没。家督を継ぎ、平賀姓を名乗る。高松藩志度御蔵番一人扶持、切米三石。藩の栗林薬園に関係か。渡辺桃源ら志度の俳諧仲間と親交、俳号李山。
- 宝暦2(1752)24才
- このころ長崎へ遊学。
- 宝暦3(1753)25才
- 備後鞆之津で陶土を見つけ製陶を勧める。(源内生祠)
- 宝暦4(1754)26才
- 8月、藩務退役願い許可。従弟権太夫を妹里与に入婿させ平賀家の家督を譲る。
- 宝暦5(1755)27才
- 1月に量程器を、3月には藩の重臣木村季明の求めで磁針器を作製。
- 宝暦6(1756)28才
- 3月、大坂を経て江戸へ。渡辺桃源らと有馬温泉に遊び、句集を編む。江戸の本草家田村元雄に入門。
- 宝暦7(1757)29才
- 6月、林家に入門、湯島聖堂に寓居。7月、師元雄を説いて第1回薬品会を湯島に開催。
- 宝暦8(1758)30才
- 田村元雄、神田で第2回薬品会。源内5種出品。
- 宝暦9(1759)31才
- 8月、湯島で第3回薬品会、会主源内、紅毛産8種を含む50種出品。
- 9月、高松藩から「医術修行致シ候ニ付三人扶持」。
- 宝暦10(1760)32才
- 5月から薬坊主格となり、「銀拾枚四人扶持」。
- 7月、藩主頼恭に随行し帰郷、途中紀州の物産調査、ホルトノキ発見。秋、讃岐で採薬行。
- 宝暦11(1761)33才
- 2月、「禄仕拝辞願」提出(9月に許可)。3月、『木に餅の生弁』執筆。
- 5月『紅毛花譜』入手。12月、幕命により芒硝を採取。
- このころ神田白壁町不動新道に移る。
- 宝暦12(1762)34才
- 閏4月10日、湯島で第5回東都薬品会を主催。9月『紀州産物志』執筆。
- 宝暦13(1763)35才
- 7月『物類品隲』刊。9月、賀茂真淵に入門。11月、平線儀製作。
- 同月、『根南志具佐』『風流志道軒伝』をあいついで刊行。
- 明和元(1764)36才
- 1月、秩父へ。中津川山中で石綿発見。2月、火浣布創製、幕府に献上。
- 明和2(1765)37才
- 3月、ドドネウス『紅毛本草』入手。
- 4月『火浣布略説』その奥付『嗣出書目』に日本物産図譜への構想を示す。
- 明和3(1766)38才
- 秋、秩父中津川で金山事業に着手。
- 明和5(1768)40才
- 1月、タルモメイトル(寒暖計)製作。2月『日本創製寒熱昇降記』筆。
- 3月、『痿陰隠逸伝』執筆。
- 明和6(1769)41才
- 1月『根無草後編』刊。
- 明和7(1770)42才
- 1月、『神霊矢口渡』初演。以後続々源内新作浄瑠璃上演。
- 10月、阿蘭陀翻訳御用として再び長崎へ。
- 明和8(1771)43才
- 5月、源内『陶器工夫書』を天草代官に提出。このころ「西洋婦人図」を描く?
- 長崎からの帰途小豆島に寄り、大坂に滞在。
- 7月松平頼恭没。郷里志度で、源内焼の陶法を伝える。
- 安永元(1772)44才
- 2月、目黒行人坂の大火で源内宅類焼。在大坂、各地銅銀山を調査、
- 羅紗を試織(国倫織)。秋、江戸に帰る。
- 安永2(1773)45才
- 春、中津川鉄山事業着手。6月、秋田藩に招かれ、鉱山再開発のため秋田へ。
- 秋田藩主佐竹曙山と藩士小田野直武に洋画を伝える。司馬江漢らと親交。
- 安永3(1774)46才
- 7月、『里のをだ巻評』『放屁論』刊行。8月、玄白ら『解体新書』刊。
- 安永4(1775)47才
- 荒川通船工事成功。秩父木炭の江戸積出しを図る。
- 安永5(1776)48才
- 春、菅原櫛(源内櫛)を売り出す。11月、エレキテルの復原に成功。
- 12月、『天狗髑髏鑒定縁起』執筆。
- 安永6(1777)49才
- 5月、『放屁論後編』刊行。
- 安永7(1778)50才
- 8月、『菩提樹之弁』、9月、『飛だ噂の評』成る。
- 安永8(1779)51才
- 11月21日ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、小伝馬町の獄中で死す。
- 友人らの手で浅草総泉寺に埋葬された。
朝日新聞社刊 芳賀徹著「平賀源内」より抜粋
年齢は満年齢に変更
年齢は満年齢に変更
コピペしながら読みましたが、封建制の時代に全くの自由人として行動し、実に色んなことをやっていますね。本草学者や実験科学者としての業績もある。エレキテルの復元は正にそうですね。土木技術者もやっている。鉱山開発ってそうだよね。
その上、文学的な才能もある。私は思うのだが、文理双方で超一流の人なんて殆どいないよ。
しかし、正にその人なのです。源内は、飛び切りの才能の持ち主だということが良くわかる。
才にはじけ過ぎたところが難点かもしれぬが、そんなものは天才故当然の事ですね。
多方面から源内の業績をながめ、源内の魅力再発見ということで、平賀源内記念館で、まんでがん源内塾が開かれている。
「紙上の空論は、私物産の禁制にてござ候」
川越藩六万石秋元但馬守涼朝の儒臣で旧知の間柄である河津善蔵にあてた手紙のなかにある文章だそうだ。
源内塾の詳細は、このページにある。 まんでがん源内塾
前がきが長くなったが、旧邸の平賀源内先生遺品館の見学である。
ここが、平賀源内の生家になるそうである。
中に入ると、壁に有名な源内さんを描いた絵が掛かっている。しかし、キセルを咥えたポーズは同じだが、顔立ちが見知ったものと違っている。より立派に描かれている。
下駄などの色んな源内グッズも売られている。
邸内は、このように改装され、薄紫色の壁が特徴的である。女主人が邸内を案内してくれたのである。入邸された方には、源内薬草茶を振舞って下さる。
お隣は、ひろい土間のようになっていて、立派な奥座敷がある。
その土間の梁のところに、平賀源内先生絵伝という額がシリーズで掛かっている。
私は、こんなんが好きで、コンプリートを目指したかったが到底無理であった。
女主人が、屋敷の古図を持ち出して邸内の説明をして下さった。
これが座敷。ピンボケですね。座敷で、色々密談できるようになっている。
ここで、旧邸の配置図を示そう。後出しだが、記事を書き始めてから気がついたので当然。
源内先生ゆかりの薬草園
薬草園から旧邸を眺める。
薬草園由来記 とても読む気はしないが、写真に撮っただけ。
植えられている薬草のリスト。園内の分布に合わせて記名されている。
むくげ と さんしゅゆ 飲んだことはないが、さんしゅゆは疲労回復、強壮に効能がある。
煎じてもらえば良かったかもしれぬ。
朝鮮人参 疲労回復、食欲不振に効能がある。
韓国で沢山飲ませて貰った。お土産にも買って帰ったものである。最近は、高血圧なので全く飲んでいない。
みょうが、かりん、びなんかずら
みょうがは、凍傷、消化促進、しもやけに効く。 私は、好きで汁に良く入れて食べる。
かりんは、咳止め、疲労回復に効く。 普段は、果実酒に漬け込む。
びなんなずらは、咳止め、強壮に効く。 私はブ男なので、飲んだことがない。
源内牡丹、おもと
源内牡丹とは椿のことである。これは、止血、滋養保健、整腸、養毛に効く。 ハゲに効くとは知らなんだ。今度試してみよう。
おもとは、喉の腫れ、ふけに効く。 これも、飲んだことがない。
と馬鹿なことを言ってるうちに、薬草園見学を終了。
源内焼窯
肝心の窯を写し忘れた。我ながら馬鹿だね。
薀蓄話源内焼は、江戸時代中期に希代の発明家平賀源内が創始したものである。
1771年長崎遊学中に、肥後天草で良質の陶土がとれることを知ると、すぐさま陶器工夫書を代官所に提出し、技に優れた陶工を集め、新たな造詣や文様を工夫すれば、蒔絵に肩を並べる程の輸出工芸品になると力説した。ところがこれは資金のめどが立たずあえなく却下されてしまう。
そこで讃岐に戻り陶工を呼び寄せ、自宅の庭に窯を開いた。これが源内焼である。
その多くは緑釉及び三彩釉で、当時茶人達の間で流行していた、中国南部の焼物交趾焼(こうちやき)を模したものであった。
一番の目的が量産することにあったため、石膏の型を用いており、釉薬も大雑把に掛けられている。しかしその草食には目を見張るものがあり斬新である。
また焼物に地図をあしらったものは源内焼が始まりである。現在最も有名な地図皿は古伊万里だが、これらは源内焼に倣って作られたと思われる。その頃庶民の間では伊勢参りが流行しており、地図に対する関心は高かった。
驚いたことに源内焼には、世界地図が描かれたものまである。
しかし低温で焼く軟質陶器であったため割れやすく、源内が没すると徐々に衰退した。
邸内に展示されていた源内焼
もっと立派なのが残っており、なんでも鑑定団で鑑定された源内焼。
源内指導のものではないが、本物で鑑定額300万円。
銅像の写真は、前回アップした。
これで、平賀源内記念館訪問記はおしまい。
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