龗神神社から10分くらい山の辺の道を歩いたところに玄賓庵(げんぴんあん)がある。白壁に囲まれたお寺である。
山門 額には、三輪山 奥の院 玄賓庵密寺 とある。
傑作なことに、このような石碑が立っている。酒飲んで立ち入るな。逆にいうと、昔はこのお寺内で酒を飲んで騒いでいたという証だね。勿論お酒など、この時点では飲んでいないので境内に入らせて頂きました。 (後注:この庵を開いた玄賓和上が、酒を飲むことを厭っていた故の言葉かもしれぬ。)
案内板
Wikipediaの記載事項は、書きかけで極めて少ない。
玄賓庵(げんぴんあん)
奈良県桜井市茅原にあり、三輪山麓に建つ真言宗醍醐派の寺院である。
桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移された。
玄賓僧都は、河内の弓削氏の出で、山階寺(興福寺の前身)の僧である。桓武天皇の病気平癒に功あり、律師に任じられたが、これを辞退して782年に三輪山の松原谷に庵を結んで隠棲した。
興味を感じたので、玄賓僧都の事を調べて見た。出家遁走を夢みる私の理想の様なお坊様でした。
道楽庵ホームページ に要領よく纏められた玄賓僧都についての記事があったので、長めではあるが引用する。の『発心集』に基いて、玄賓にを語っている。なお、部分的に省略した箇所もあります。
『発心集』と玄賓僧都
『方丈記』の著者として有名な鴨長明の著作に、『発心集(ほっしんしゅう)』なる書がある。この書は、長明が自らの反省と修養のために、日本の国内の出来事で「発心」に関して自分が見聞したことをまとめたものである。彼は、その「序」において、「生死を離れて早く浄土に生まれん」ことを目標として、「わが発心の一念を楽しむばかり」と著述の意図を述べている。
鴨長明
そして、この書の冒頭に載せられているのが、外ならぬ玄賓僧都である。玄賓僧都に関して、『発心集』は、「一、玄賓僧都、遁世逐電の事」と「二、同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふ事」という二段に分けて述べている。ここでは先ず私見を雑えることなく、『発心集』記載の文章を、多少の解説を加味しながら忠実に訳出してみよう。
「玄賓僧都、遁世逐電の事」
昔、玄賓僧都という人がいた。山階寺(やましなでら:興福寺の旧称)の貴い名僧(知者)であったが、俗世を厭(いと)う心が深かったので、俗心にまみれた他の僧侶との交わりを好まなかった。そのため、三輪川(初瀬川の桜井市三輪辺りを流れる部分の呼称で、清流で知られる)のほとりに、ささやかな草庵を結んで瞑想にふけって隠棲していた。桓武天皇の御代(みよ)に、玄賓僧都の高潔な生き方を聞いて感動された天皇は、無理を承知で召し出されたので、僧都もついに遁れるすべがなく、致し方なく参上した。(延暦二十年〔805〕、桓武天皇は今の鳥取県西部・伯耆〔ほうき〕の国にいた玄賓僧都を請〔しょう〕じ、伝燈大法師位を授けた。)
しかしながら、やはり本意ではないと思われたのであろうか、玄賓僧都は、平城(へいぜい)天皇の御代に大僧都に昇進させようとされたのを辞退して、次の歌を詠まれた(『和漢朗詠集』下、所載)。
三輪川の清き流れに洗ひてし衣の袖は更にけがさじ
(三輪山のあたりに隠棲して、俗世間や俗僧と交わることなく、三輪川の清き流れでせっかく綺麗に洗い清めた、僧侶としての本来の生き方を、いかに天皇の思〔おぼ〕し召しとはいえ、名利のためにけがすことはできませぬ。)
そうこうするうちに、玄賓僧都は、弟子にも召使いにも知られずに、いずこともなく出奔(しゅっぽん)してしまわれた。心当たりのある場所を探してはみたが、僧都の行方(ゆくえ)は分からなかった。捜索の甲斐なく何日も経過したが、僧都の身近で暮らしていた人はもとより、多くの人から慕われていた名僧の思いがけない出奔を、世間の人すべてが嘆き悲しんだ。
その後、年月を経て、僧都の弟子であった人が、所用で北陸の方へ行く道中で、或る所に大きな川があった。渡し舟が来るのを待って乗ったところ、その渡し守を見れば、頭の髪がつかめるほどまで生えた法師で、薄汚い麻の粗末な衣を着た人であった。
「異様な風体だな」と見ていたが、やはり見覚えのある気がしたので、「誰がこの人に似ていようか」と思い巡(めぐ)らすうちに、出奔して何年にもなる自分の師匠の玄賓僧都ではないかと考えるに至った。「こんなみすぼらしい身なりとは、もしかして人違いではないか」とは思っては見たが、いささかも疑うべくもなかった。件(くだん)の弟子は、師匠のこの哀れな有様を見て大層悲しくなり、涙のこぼれるのを押さえつつ、何気(なにげ)ない振りを装っていた。
渡し守の法師の方も、どうやら気付いている様子ではあったが、ことさら視線を合わせようとはしない。弟子は、走り寄って、「なぜこんな所においでなのですか」とでも言いたかったのであるが、大勢の客が乗船していたので、「かえって人目については具合が悪かろう。都への帰り道に、夜分おられる場所に訪ねて行って、ゆっくりとご挨拶することにしよう」と考えて、そのままやり過ごした。
こうして、帰途にその渡しに行ってみれば、別の渡し守に変わっていた。目の前が真っ暗になり、胸がふさがって、詳細を尋ねれば、「その法師はおりました。何年もここの渡し守をしておりましたが、そうした身分の低い僧に似合わず、常に心を澄まして念仏ばかりを申し、船賃をあれこれ取ることもなく、ただその日に食べるものなどの他は、物に貪欲(どんよく)な心もないような有様でしたので、この里の人も大層好感を寄せておりましたところ、どういう訳かは存じませんが、先頃かき消すように突然姿をくらまして、行方しれずとなったのでございます」と語るのを聞いて、くやしく、どうしようもなく残念に思い、行方不明になった月日を数えれば、ちょうど自分がお目にかかった時であった。僧都は、わが身の所在が知られたと思い、また去ってしまったに相違ない。
食べて行けさえすれば良く、念仏三昧の生活を心から欲していたのであろう。世俗における栄達は、玄賓にとり何の意味も持たなかった訳だ。思い通りの生活を送るために、逃げ回らねばならぬとは、遁走につきまとうロスですね。
「同人(玄賓僧都)が伊賀の国の郡司に仕えられた事」
この段は、前段でまたまた失踪した玄賓僧都の後日談である。ここでも長明の記述に即して訳出することにする。伊賀の国(三重県北西部)の或る郡司(国司の下で、郡を治める役人)のもとに、見苦しい容体の法師が、「雇って頂けませんか」と言って不意に入って来た。主(あるじ)はこれを見て、「和尚さんのような方を置いても、何の役にも立ちませぬ」と言った。
その法師が、「法師と申しても、私のような者は普通の下男と何ら変わりませぬ。どういう仕事でも、この身でできることは致しましょう」と言うので、主も「それならよかろう」といって置くことにした。法師は喜んで、大層真心を尽くして働いたので、主は自分がとりわけ大切にしていた馬を法師に預けて世話をさせた。
こうして三年ばかりが経ったが、この主の男は国の長官に対していささか具合の悪いことをしでかし、国外追放されることになった。
他国へさまよい行くことは、いずれにせよ大変な悲嘆であるには違いなかったが、遁れるすべもなく泣く泣く出立するのを見て、あの法師が或る者に向かって、「ここの殿に一体どういう困ったことが出来たのですか」と問うと、「お前のような下賎の者が理由などを聞いてもどうしようもあるまい」とけんもほろろに答えたので、法師は、「どうして身分が低くても関係ないはずがありましょうか。ご主人としてお仕えして、もう何年にもなるのです。差別されるのはおかしいです」と言って熱心に尋ねたので、男も事の次第をありのままに語った。
法師は言った、「私が申し上げることを必ずしもお取り上げにはなりますまいが、どうしてそう急いで国を去ることがありましょうか。物事には意外な成り行きもあることですから、ここはひとまず都に上り、何度となくこちらの事情を申し述べて、それでもなお致し方なければ、その時はいずこなりとも行かれればよろしいのではございませぬか。私がいささか存じ上げている人が、国司の近辺におられます。お尋ねして申し上げてみましょう」と。
法師の思いがけない言葉に、人々は、「(見かけによらず)すごいことを言ったものだな」と怪訝(けげん)に思って、主である郡司にこの経緯(いきさつ)を語ると、主は法師を自分のところに呼び寄せて、自ら問い質(ただ)して話を聞いた。法師の言うところを全面的に頼りにしていた訳ではないが、他にあてもないので、この法師を伴って京に上(のぼ)ったのである。
その当時、この国は、大納言某(なにがし)が国司として治めていたのであるが、京に辿り着いて大納言の住まい近くまで行ってから、法師が、「人をお訪ねしようというのに、この身なりでは何とも異様なので、衣と袈裟(けさ)を探して頂けませんか」と言ったので、借りて着せた。
主の男と同道して、彼を門口に待たせ、大納言の邸内に入って、法師は「申し上げたいことがございます」と声を上げた。その場に大勢集まっていた人々は、声の主(ぬし)を見て、一斉(いっせい)に地面にひざまづき敬うのを見て、伊賀の郡司は門のそばからこれを見ていて、驚くまいことか、「何ということだ」と目を見張って成り行きを見守るばかりであった。
すぐにこれを聞いて、大納言が急いで出てきて対面し、上を下にも置かぬもてなし振りは、格別であった。大納言は、「それにしてもまあ、貴方様がどうされたのかと想像する手掛りすらないままに月日が過ぎておりましたのに、まぎれもないご本人がお越しになるとは」などと言って、思いのたけをしきりに述べ立てた。
それに対して、玄賓僧都は言葉少なに、「そのようなことはいずれごゆっくりとお話し致しましょう。今日は特別申し上げたいことがあって参った次第です。伊賀の国で、ここ何年も私がお世話になっているお方が、思いがけずにお咎(とが)めを蒙(こうむ)り、国を追われるということで、歎いておられるのです。まことにお気の毒に思いますので、もしさほど重い罪でなければ、この法師に免じてお許し願えないでしょうか」と言った。
大納言は、「あれこれ申し上げるべきことはございませぬ。貴方様がそのように好意を持っておられる者ならば、処罰されずともわが身で自分の過ちを自覚できる男でありましょう」と言って、僧都の求めに応じて、かの郡司をこれまで以上に厚遇する内容の、喜ぶべき庁宣(ちょうぜん、在京国司が出す命令書)を快く出してくれた。伊賀の郡司がこの有様を蔭で見ていて、呆気(あっけ)にとられるばかりであったのは当然のことである。
色々と考えたが、郡司はあまりのことにかえって然るべきお礼の言葉も出なかった。「宿に戻ってゆっくりとお礼申し上げよう」と思っていたところ、玄賓僧都は、衣と袈裟の上に例の庁宣を置いたまま、さっと立ち出ずるように出て行き、そのままどこへともなく姿を隠したということである。
ここまで書いてきて、鴨長明は、「これもかの玄賓僧都のされたことである。まことに比類なく尊い(有難い)お心持ちであったというべきであろう」と、この段を結んでいる。
長々と引用して相済まぬ。玄賓は、俗世を棄てたとはいえ、世話になった方のために世俗的に一肌脱いだのである。誠に賞賛すべき行いではあるが、玄賓自身世俗における自らの価値を知っていた故の行為なので、私としては聖人にあるまじきいささかの臭みを感じてしまう。まあ、事を終えたのち、再び消えてしまったので、仏の教えに従い衆集を救うために止むをえずに為したということなのでしょう。こんな後段があったからこそ、玄賓伝説は受け継がれて行ったと思える。
玄賓伝説につながる逸話をもう一つ引用しておきたい。
世阿弥の作と伝えられる謡曲「三輪」は、玄賓僧都をモデルにしている。その筋書きでは、玄賓が三輪明神の化身である女性と知り合い、三輪の故事神徳を聞かされるというものである。物語は以下のように展開する。
三輪山の谷あいに、世を捨てて庵を結び仏に仕えていた一人の僧都がいた。彼のもとに、美しい女人が仏に供える樒(しきみ)と閼伽(あか)水を持って通ってくるようになった。あるとき女人は秋も深まり夜寒になったので僧都の衣をいただきたいと、衣を所望した。僧都は乞われるままに衣を与えた。別れぎわに女人の住まいを聞くと、女人は三輪の里山すそ近くに住んでいると答えて立ち去った。不審に思った僧都があとを追って行くと、大木の枝に先ほど与えた衣がかけてあった。女人は三輪明神の化身だったのである。姿をあらわした三輪明神は、神も人も同じように迷いがある、僧都に接して仏道に縁を結ぶことができたと語り、その後三輪山の故事神徳を聞かせた。
三輪明神は、このようなお姿ではなかったかと想像する。
(注:活玉依姫(いくたまよりひめ)の画像)
昔は、神様も女人ゆえの恋に悩んだりするのであった。まあ日本の神様は人格神だから当たり前かな。
少々脱線してしまったが、それでは玄賓庵の境内の写真案内を始める。
境内には、砂利が敷き詰められており、掃除が行き届いていて綺麗である。
玄賓の像 と思われるが定かではない。
親カエルと小カエルの石像。賽銭箱の見張り役。
本堂
本堂には藤原時代作の不動明王坐像が安置されている。また堂内には玄賓像も祀られている。
護摩堂
周囲がガラス戸でしたので、その内部を写してみた。
鳥居と石塔
不動明王の石像
石仏群
放生池と思えるが不明。石は亀を形どっているようだが、それも不明。
八大龍王を祀る祠 八大龍王については、前回の記事を参照してほしい。
白大神を祀る石碑
三輪龍神を祀る石碑
三輪山弁財天の鳥居と石碑
寺内社の祠 名称は調べきれずで、不明。
放生池から境内を望む。紅葉の時期には、沢山の参拝者が来られるのであろう。
これでおしまい。
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