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2016年10月26日水曜日

神戸兵庫区 熊野神社

日々あっという間に過ぎ去ってしまう。朝からお茶を沸かしたり、洗濯物を取り込んでたたんだりして、家事をやっているうちに時間は飛ぶように過ぎる。建設的なことは何一つできていないが、ひとまづは平穏な家庭生活を送れている。有難いことである。

ワイフの状態も腎臓の機能は落ちているようだが、以前に比べると格段に動けるようになり、食事は以前と変わりなく何でも食べれるし喋れるしで、日常生活は支障なく送れている。私も随分と楽になった。

母親のほうは、介護老人保健施設プリエールを退所してから3週間となり、歩行状態や動作の改善は見込まれぬものの、新しい介護付き住宅での生活を維持している。その間の忘備録を簡単に記しておく。年のせいかいつ誰にどんなことでお世話になったか忘れてしまい、失礼な言動を時にとってしまい反省しきりなのである。

先月の22日に母は介護老人保健施設プリエールを退所して、約1週間自宅に帰り、つぎの介護つき施設であるせんだんの実に9月30日に入居した。その間、妹が食事等の采配をして自宅に3日も来てくれ、弟も東京から来てくれて2日間見てくれた。お蔭で私としてはワイフの看護もあるので大助かりであった。

入居日には、朝から次男が必要な家財道具、といっても机やTV、布団など大した量ではないが、を運んでくれた。妹は引っ越しの業務の殆どを取り仕切ってくれ、私は事務手続き担当として働き、とにかく無事に入居を済ませた。正直ほっとした。この施設は期限付きではないので、本人が出たいと言わない限りこの施設に居られるのである。
母の帰宅と夏祭り

3週間たったが、契約条件等で色々と小さな問題はあったものの入居を続けている。私の施設通いも週2~3回から週1回+αになった。洗濯物担当になったが、これは全く大したことはない。母の老化は致し方ないが、ひとまづは小康状態を得ている。

以前に比べて手間なのは、施設に行くの1時間15分もかかり、行きかえりに時間がかかることである。しかし利点もあって、帰りに神戸電鉄の新開地駅を基点として有馬や三田、粟生などを訪問できるのである。それに新開地周辺の今だ訪れていない小さな神社も取材できるのだ。この利点を生かして、神戸案内の記事を北区や西区にも拡充させようと目論んでいる。

長い前書きだったが、そういう事で今回は兵庫区にある熊野神社である。

新開地のバス停から総合運動公園行きのバスに乗って夢野町2丁目で下車する。そこから歩いて5分位の所に位置している。


Wikipediaには中央区にある熊野神社の記載はあるが、この兵庫区にある熊野神社の記載はない。まあ熊野神社って全国に山ほどあるからね。それに村社ということで、神社としては格下になります。

熊野神社は、平清盛ゆかりの神社で夢野のごんげんさんとして知られている。

それでは写真紹介を始めるまえに基礎情報を述べる。

由緒

熊野神社は清盛が福原遷都にあたり、紀伊国熊野権現を王城鎮護の神としてこの地に祀ったのが始まりと伝えられている。
社殿は東向き、紀伊の熊野三山の方向を向いている。


御祭神
  • 伊弉諾命(いざなぎのみこと)
  • 伊弉冉命(いざなみのみこと)

概略

平安末期、歴代の上皇は何度も熊野御幸を行い、熊野信仰が一つのブームとなっていた。後白河上皇は34度、清盛、重盛(清盛の嫡男)らも度々参詣していた。清盛の根強い熊野信仰は、福原でも忘れずに熊野権現を勧請した。わずか半年で都は福原から京へ移ったが、神社は今も夢野の権現さんとして親しまれている。

以上の記述では、神戸市兵庫区の熊野神社(清盛ゆかりの地)   を参考にさせて頂いた。

社碑


由緒舎


熊野神社(ごんげんさん)

ご由緒

平清盛
が福原(現神戸市)遷都に際し後白河法皇が
ご崇敬の厚い紀州熊野権現を皇城鎮護の神として東向きに
奉鎮したと伝えられており爾来当夢野の住民が産土神(うぶすながみ)として
崇敬祭祀今日に至ったものであります。
・権現とは仏教渡来以来、崇高且ご神徳の高い神々様の称号です。

ご祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)

ご神徳 事業創設 殖産工業の祖神
    縁結び・福徳延命
ご祭礼   例祭 五月八日 宵宮祭 九日例大祭
         秋祭 十月八日 宵宮祭 九日秋季大祭
総祈祷祭   一月十六日
                  氏地地域内の安全家運隆昌祈願祭
       月例祭  毎月 一日、九日、十五日



鳥居

この取材日は10月9日で秋祭りの翌日だったので、当日の夜店の屋台やご神燈をかかげる木組みがまだ鳥居の前の残っていた。 まだ完全に片付けてなかったのだね。 鳥居は震災後に作られた新しいもの。




東側の境内入り口にある旧鳥居。 震災で崩れたのを組み直したものであろう。大正9年に建立したとある。脚立が置かれていました。



手水舎  手洗い場には龍ならぬ玉が置かれてあり、その穴から清水がでるようになっている。





拝殿    神事の際のしめ縄が残されていた。   


本殿の屋根の一部  大棟という。


拝殿本殿を外からみた様子


左に見える大棟が際立っている。



この熊野神社の末社になると思えるのだが、○○社でなく霊安殿とある。

ミニ鳥居やミニ拝殿もあり、一応は末社として取り扱われているものと見える。


末社の大神宮社  

鳥居には立派な社額が架かっている。その上、拝殿前には狛犬も鎮座している。本社の拝殿には狛犬はいないのにね。


大神宮社狛犬二基   新しいもの。篤志家の方が寄進したのでしょうね。



その奥に古い狛犬も鎮座している。これも震災で壊れたんだろうね。



力石  歌碑が刻まれているが、素養(教養も)のないせいもあり正確には読めん。


末社の荒木稲荷大神  
お稲荷さんですね。こちらは例によって赤鳥居で、通称稲荷鳥居ですね。


末社の金比羅神社

ご祭神は、大物主の大神である。 社碑というか木製の掲示板だね。 

その社  
拝殿というには小さすぎますね。

ズラリと並んだ末社の総合社である諸宮(と書かれてあるが、一緒くたにした雑社の集まりやね)。

右から、 祇園神社蛭子神社春日神社八幡神社猿田彦神社地主神 である。それぞれ
ご祭神は、素戔嗚男命蛭子天兒屋根命応神天皇猿田彦大神地主神 である。


そのデータはこの社碑に書かれている。これがないとさっぱりわからん。でも地主神は他の社に比べると異端ですね。地主神=その地をお守する神 だからそもそも実体がない。


同じく末社の古殿神社

ご祭神は、額田大中彦命である。

その社碑



拝殿

末社の牛神社

ご祭神は、豊受姫大神である。




拝殿  お社と言った方が正確だが、一応奥には母屋らしきものがある。


その遠景  鳥居もあり、石段の参道らしきものがついている。


これで熊野神社はおしまい。次回はさらに山側にある氷室神社を紹介する予定である。

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